世界一綺麗な を
黄葉のパノラマで。白川芳華に言われた言葉は、たしかに、葉山林檎の胸を抉った。
冬の朝。ベッドから起きだした林檎は、ぼうっとした表情で窓を開けた。
刺すような空気は、むしろ、林檎を安心させた。伏せた長いまつ毛は、俯いた時にさらりと流れた髪は、じっとしていれば凍ってしまいそうだ。
しばらく目を瞑って、ゆっくりと、目を開ける。喉の奥から声を絞り出す。
「私は……一体、どうしたら……」
あの日から、答えを出せないままでいる。いいや、答えは決まっているのに、踏み出せないままでいる。
「ごめんなさい、ごめんね……っ」
もう死んでしまった少年と、まだ生きている少年。その二人に、林檎は涙を流しながら、何度も謝罪の言葉を口にする。
あの子の代わりを求めてしまった。白川芳華が言うように、代わりなんて、存在しなかったのに。求めてはいけなかったのに、無関係な多原の人生を、死者への執着で捻じ曲げてしまったのだ。
悔やんでも悔やみきれない。人を好きになることは、とても尊いものだと信じていた。けれど、林檎の場合は違った。あの少年の死で、林檎の初恋は捻じ曲げられて、とても醜いものへと変わってしまったのだ。
「ごめんね、多原君……ごめんね」
初恋の虚像を押しつけてしまった。本当に、純粋……か、どうかはわからないけど、真に多原を愛している少女たちの恋を、邪魔してしまった。白川芳華に謝るなんて癪だけれど、この点においては、林檎が圧倒的に悪い。
あの別荘で、白川芳華は、本気で怒っていた。自分の愛する人を、誰かの代わりにする林檎に、本気で、怒ってくれたのだ。
良い機会だ、と林檎は思う。
偽り続けた恋はこれでおしまい。ぱたん、と窓を閉めて、息を吐く。
「お別れを、言わなくちゃ」
「本当にいいんですか、それで」
執事のくせに、腕組みをして壁際にもたれる橿屋は、林檎の結論に納得がいってないようだ。
「恋や愛は千差万別ですよ。それこそ定義しようっていうほうが可笑しいんです。俺のとこにも、頭おかしい女がわんさか……ンッごほん、いやこれはお嬢様のことじゃなくて」
わざとらしい咳払い。林檎は、クスリと笑う。
「……貴方は優しいですね、橿屋。貴方もまた、私にさんざん付き合わされた被害者だというのに、まだそんなことを言ってくれるんですか?」
「被害者だなんて、俺が好きで付き合ってるのに、そんなこと言えませんよ」
戯けたように笑う橿屋。
「俺はね、多原君に感謝してるんです。抜け殻のようだった林檎お嬢様に、また笑顔をもたらしてくれた。まあ、腹黒な笑顔の時もあったけど、確かに言えることはーーお嬢様は、幸せそうでしたよ」
「たしかに、そうかもしれませんね」
多原には、幸せをたくさん貰った。誰かを愛する時の、胸がキュウっと締まるような苦しさ、反対に全てが蕩けていくような、甘やかな感覚。葉山の自分が、政界でも財界でもなく、ただ一つの“恋”とやらに、全力を注ぐことができた。
ーーけれど、私は。
顎を引いて、林檎は、ひたと、橿屋を見る。
「葉山である前に、ひとりの女の子です。納得のできない恋はしたくない」
「……」
橿屋もまた、林檎をじっと見つめる。林檎は、きっと、彼女にしては珍しい、強気な笑みを浮かべた。
「ーーそして、ひとりの女の子である前に、葉山の人間なのです。力を貸してください、橿屋。私は、世界一綺麗な失恋をしてみせます」
「……承知しました。この橿屋、どこまでも、お供いたします」
橿屋が、恭しく林檎の前にひざまずく。
聡明な林檎は、この時すでにわかっていた。世界一綺麗な失恋? そんなもの、存在するはずがない。
だって林檎は知っている。失恋とは、人間を破壊する無形の兵器なのだと。
あの夏の日の幻影が、ゆらゆらと立ち上ってきて、それから、白く細くたなびく煙になる。
ーーぐすぐずしてたら、それこそ、初めの恋の二の舞になる。
「時間は待ってくれません。まずは、妨害計画の逆を実行しましょう」
皮肉なことに、恋を終わらせると決めてから、林檎の身は、実に軽やかになった。
白川芳華に真実を突きつけられる前、林檎は、鳶崎巳嗣に、いかにして身を滅ぼさせるか、いかにして多原にそれを気付かせないか、という計画を立てていた。
林檎と橿屋は、林檎の部屋で机を囲み、資料を吟味する。
「多原君が芝ヶ崎に自ら向かった。ということは、あのことに気付いたということで良いでしょう」
「黒字倒産ですね、在庫を抱えすぎているという……しかし妙ですね。医療機器の中堅会社を買収したっていうのに、それほど利益が増えてないなんて」
「医療物流は複雑ですからね。病院での立ち会いもありますし、ただ単に保管量を増やしただけでは意味がない」
「売ったその先がネックだってことですね、相乗効果を期待したが、実際は足し算されただけ。しかも買収にかかった分の金も回収しなければいけないし、下手に倉庫を貸したせいで、却ってナギサメディカルの動きを鈍らせてしまった、と」
「ええ。分野の違う会社同士ですからね、意思疎通は難しいでしょう」
「つくづく、あのお坊ちゃんは見る目がない」
橿屋が溜め息を吐く。が、林檎の考えは少し違う。あの鳶崎の子息が、そんなに愚鈍なわけがない。
「目を曇らせた人間がいるんでしょう。おそらく、鳶崎物商の内部に。楢崎マネジが、ナギサメディカルを買収しようとしている、などと言って」
「まさか」
「あり得ない話ではありません。鳶崎巳嗣は、自分の利益よりも相手の不利益を選んだ。こう考えれば、彼の行動にも納得が行きます」
林檎の見立てでは、楢崎もまた、芝ヶ崎格に掌握されている。鳶崎に内部情報を漏らしたと見せかけることも可能そうだ。
「まったく、舐めたことをしてくれます」
「楽しそうですね、お嬢様」
「ええ、この仮定が本当だとしたらそれは、ナギサメディカルという将来有望な会社を、飼い殺しにしていることになりますから。橿屋、証拠を集めてください。私はーー」
とん、とん、と。林檎は広げた地図の、とある部分を指でつついて見せた。橿屋の顔が引き攣る。
「……そんなこと、本当に可能なんですか? 露骨すぎやしませんか?」
「相手も悪いことをしているんです。だからこそ、橿屋の働きが必要なんですよ?」
橿屋の顔は、さらに引き攣った。林檎の真意を理解したのである。
「脅そうってわけですか」
「芝ヶ崎格の信者は、彼を裏切ることなんてできませんから」
橿屋はうんざりしたような表情を浮かべた。「そういえばそうでしたね」と、独りごちた。
「んで? カモフラは何処にするんですか? うちの傘下だったり?」
「いいえ? 適任がいます」
「適任?」
橿屋は目をぱちくり。林檎は、ふふっと笑って、両手の指を合わせた。
「これは、立派な復讐劇です」
こうして、林檎の“罪滅ぼし”は産声を上げたのである。
……一方、多原はというと。
「えっ、メロン使えないんですか!? 現金精算!?」
ご当地ICカードの洗礼を受けていたのであった。




