ふたつの脅し
扇子は心の安定剤だ。物心ついた時から、開いては閉じて、思考に耽ってきた。
律は芝ヶ崎の一族の中でも、特に優れていない自覚がある。赤子のおしゃぶり、子供の毛布と同じく、物に依存している状態で、これが手放せないのだ。
だが、どういうわけか、この恥の塊のような物体は、相手には、律の余裕の象徴に見えるらしい。
時折ここに呼びつけられてくる少年は、律が扇子を開くたびに戦慄し、扇子を閉じるたびに身震いしている。どちらにせよ、あの少年はビクビクしすぎである。なにも、とって食おうというわけではあるまいし。
この季節、優雅に扇子を仰ぐのには寒すぎる。別に誰に聞かれるでもないが、一人になった部屋で、律は扇子を口元にあて、呟いた。
「……報告」
は、するべきだろうか。貴陽がここに来たことは、父の部下達によって、すぐに父が知ることになるだろうし。
だが。
前回と違い、父はあらかじめ、貴陽の訪問を予告してこなかった。
もちろん、前回父の思惑に外れた行動をした自分が、既に見放されている可能性もあるが。
考えられることは。
「……想定外」
そう、想定外の訪問だったと考えた方が自然だろう。
貴陽が律に、鳶崎物商を救ってくれと頼みに来ることは、あの芝ヶ崎格でさえも、想定外の出来事だったのではないか。
反射的に追い出してしまったが、もっと相手に寄り添って、情報を聞き出した方が良かったのかもしれない。
「貴陽君が、あの答えに辿り着くことは、正直言って不可能だ」
多原貴陽は、鳶崎物商の黒字倒産の未来を指摘してみせた。芝ヶ崎の力をもってして救ってくれ……とも。まったく、いっときは鳶崎巳嗣に殺されそうだったというのに、お人好しというか、阿呆なのだろう。
問題は、それを誰に吹き込まれたか。いちばん考えられるのは、鳶崎物商の関係者だろう。だが、貴陽と鳶崎物商の社員には、何の関係性も存在しない。
とすると、葉山や白川の令嬢だろうか……恩を売るのにはちょうど良さそうだが、はたして彼女達は、愛しい少年を殺そうとした男を許せるだろうか?
それに、それを“教えていない”上で成り立つバランス関係を、彼女達がみすみす捨てるとは思えない。
「これを教えたのは、鈍感な第三者だ」
葉山に白川、そして芝ヶ崎。御三家の令嬢達が作ってきた均衡をぶち壊す、空気の読めない人間。多原貴陽という少年を取り巻く環境を知らない人間が、それを教えたのである。
「一体誰だ……?」
どこの阿呆が、阿呆に要らないことを吹き込んだ?
……気付けば、律は障子を開け放っていた。
「律様、どちらに?」
「少し散歩をして来るだけだよ」
「お気をつけて」
「ああ」
ついて来るだろうな、と、律は心の中で呟いた。まあ良い、べつに、貴陽を追うわけではなく、考えをまとめるために散歩をするだけだから。
……と、思ったのだが。
「むっふっふ……待ってましたよ律さん」
腕を組んで不敵な笑みを浮かべているのは、さきほど追い出した少年である。
芝ヶ崎の屋敷から出て少し行ったところで、なぜか門番の男と並んで立っていたのである。
「待ちすぎて、しりとりで天下を取るところでした」
まずい。何を言っているのか全くわからない。
「俺の強烈な“る”攻めに対して門番さんはたじたじでしたよ」
「どうして君がここにいる?」
律は言外に門番に言っていた。どうしてこの少年を野放しにし、かつ、しりとりに付き合ってやっているのかと。
律が父親譲りの目で門番を見ると、彼は、脂汗を流していた。
と。
「普通に無視された……ふふふ、知りたいですか?」
さっきから、妙に強気な貴陽が、カバンからごそごそと何かを取り出す。
「それはですね、これのおかげです!!」
じゃーん!! という効果音付きで出されたものは。
「……すまーとふぉん?」
律は首を傾げた。何の変哲もない、ただのスマホである。
「そう、これは、ただのスマホです!!」
「言い切るね」
「だけど」
貴陽がスマホをぽちぽちと操作する。何かのアプリを開いているのだろうか?
『だから俺は、あなたのところに来ました。本当は、鳶崎さんに直接会いたかったけど、それはできないから』
瞬間、律の体には、電撃のようなものが奔った。
「この、会話……は」
間違いない、音声がぼやけているが、あの日の会話だ。
スマホを印籠のように掲げながら、芝ヶ崎の目をした貴陽が、こくりと頷く。
「そうです。実はあの日の会話を、俺はスマホで録音してたんですよ」
「な……っ!?」
「だからこそ、こちらの門番さんは、俺のことを追い払えなかったんです。さあ、どうですか律さん。これでも俺のこと、どこの誰かわからないって言いますか?」
「……」
律は、ぎゅう、と扇子を握った。みしり、と手の中で嫌な音が鳴る。その言葉を口に出すのに、数秒かかった。
「……完敗だ」
あの会話には、同じ芝ヶ崎に聞かれてはならない内容が盛りだくさんだ。つまり、律の弱点になる。
それを察したからこそ、父の配下である男は、貴陽のしりとりに付き合っていたのだろう。貴陽を逃さないために。
ーーじゃあ、初めからスマホを出せば良かったのでは?
と、律の中には、当然とも言える疑問が思い浮かんだ。それなら、あの一室の中で、ことは済んだはず。
わざわざ追い出される必要なんて、なかったのでは……そう考えて、律は門番と、ついてきた男を見る。
そして、一つの結論に思い至った。
ーーまさか、追い出されたんじゃない、追い出させたのか!?
律が一度は「追い出した」という事実を、屋敷にいるであろう、父の配下に知らせるために。
はじめから脅しを見せられ、貴陽を受け入れれば、律は貴陽との共犯関係を認めることになる。
だが、一度貴陽を追い出したという事実があれば。
ーー私が貴陽君との共犯関係を疑われる可能性は、限りなく低い!
それに、と。律は二人を見る。ここからは、自分の仕事である。
出来うる限り、父に似せた笑みを浮かべた。
「二人とも、わかっているね? ここで抵抗したら、私の身は破滅する……駒がなくなると、不便だろう?」
貴陽が律を脅したように、律もまた、二人を脅すことができるーー自らの破滅を盾にして。
「わかったなら、今あったことを忘れることだ。いいね?」
勿論、多原は何もわかっていなかった。
ただ、苦し紛れにしたことが、自分の身を救ってくれたことだけを理解していた。一度は追い出されて絶望していたが、「そういえばアレがあったな」と、いちかばちかで起動してみたのだ。
「あの時の俺、さんきゅー」
ベッドに寝転がりながら、多原はスマホの録音アプリを起動する。
「すげえヒヤヒヤしたけど、この先を聞かれなくて良かったー!」
そう。
カバンの中に入れていたスマホの集音性は、思ったよりも悪かった。おかげで、多原は律さんとの会話を完全には録り切れていなかったのである。
「律さんの声は入ってないんだよなー」
入っているのは、多原が録音用に発した馬鹿でかい声だけ。普通に聞けば、妙に変な間の入った、多原の馬鹿でかいひとりごとなのである。
何の脅しにもならないのだが、たぶん、録音されていたという驚きで、どうにか乗り切ったのだろう。
人を脅すなんて初めてだ。緊張したけど、良い方に転がってくれてよかった。
「……これで」
録音アプリを終了して、多原は枕に顔を埋める。
「どうにか、うまく行ってくれれば、良いんだけど……」
暑い夏の日のことである。
蝉の死骸が道路に落ちていた。
世間は突然の経済不況により阿鼻叫喚の一途を辿っていた。この男も、例外ではない。
それまでは見向きもしなかった、蝉の死骸の解体を、地面にしゃがんでじっと見つめた。どうせ、時間はたっぷりあるのだ。
息絶えた蝉はぴくりとも動かない。解体屋であるところのアリたちが死体に群がり、羽をもぎ取り、足をもぎ取り……元あった姿など、わからないようにしていった。
「……お前も、生きたかったろうに」
思わず、ぽつりと呟いた。
自然の摂理と言われれば、そうなのかもしれない。だが、あまりにも呆気なかった。確証のない中、行なわれた試みは、確証のないまま終わってしまったのだ。
蝉の死を見守った男は、やおら立ち上がり、そして振り返る。ペンキの剥げた看板を見て、苦笑する。
「お前も生きたかったろうに」




