レシピの完成、そして裏切り
「なるほど、オウジロウさんのジは、次か、二ってことですね。いや、仁も捨てがたい……」
多原少年は、けろっとして、弟の名前に使われている漢字考察を始めてしまった。桜一郎としては、望んだ反応が来なくて、少しがっかり。
「次の方だよ」
だから、早々に答えを教えてやる。春に生まれた長男だから桜一郎。またもや春に生まれた次男だから桜次郎。なんとも単純な名付け方だ。
フロントガラス、目の端に見える空は赤く燃えていた。もうすぐ、夜が来る。
「桜次郎は、あいつは、僕のことを兄と認めたくなかったんだろうね。だからこそ、君に、長男だと嘘をついた」
べつに、それで良い。桜次郎とは、お互い不干渉だったし、あいつはだんだんグレていって、家にも寄り付かなくなった。はぐれ者同士で徒党を組んで、家名に泥を塗る不届きものだった。
ーー死ぬ前に、電話とか、メールとかも寄越さなかったし。
それだけ、桜一郎が嫌われていた証拠だ…………助手席に座る少年は、「いや」と真顔で言った。
「それは、無いと思います」
やけにきっぱりとした否定だった。気を遣って、とか、何らかの意図があって、ではなく。そもそも、それを否定したところで、この少年にはメリットもない。
「弟さんは……えーと、桜次郎さんは、お兄さんを巻き込みたくないからこそ、嘘をついたんだと思います」
「は?」
突飛な理論だ。思わずブレーキとアクセルを踏み間違えそうになった。
「だから偽名を使ったし、自分が弟であることも隠したんです。なるほど、とすると、野呂瀬さんも偽名だったりするのか……」
野呂瀬。
誰だそれは。唐突な登場人物の加入に、桜一郎は、困惑するしかなかった。思考に沈んでいた多原少年は、暮れゆく空を見つめて、それから意を決したように、口を開いた。
「お兄さん、真実をお話ししましょう」
それは探偵のような、もしくは、追い詰められた犯人のような口調だった。
「ーーと、いうような次第です。つまり、誘拐という後ろ暗いことをやってた弟さんは、偽名を名乗って、無意識に、自分が弟であることを隠したんです」
確信をもって堂々と語る少年に、桜一郎は恐慌していた。いや、普通に警察に駆け込む案件では……?
「ただでさえ、芝ヶ崎の闇の組織の一員だったんです。身バレを防ぎたかったんでしょう」
夜に起こったことなのに、白昼夢のような話をする少年は、至極真面目だった。弟の善意を肯定するためだけにこの話を作り上げたのだとしたらぞっとするが、その白昼夢の中で一際、桜一郎の気を惹いたことがある。
「福利厚生があるとはいえ、闇の組織は闇の組織です。おそらく、トチったら殺されます」
ここのあたりは、勝手に設定をくっつけているとしか思えない。が、その闇の組織とやらを率いている人間が、「彼」だとしたら、すべて、説明がつくのである。
ーー芝ヶ崎格。
かつて、芝ヶ崎を二分した、悪夢のような存在。染先は“そっち側”ではなかったから、彼のことは写真で見たきりだが、少年の語る闇の組織のリーダーの特徴と、彼の特徴は見事に一致していた。
彼は死んだはず? 人の生死、ましてや自分の生死など、彼ならどうにでもできるはずだ。
「つまり、弟さんは、お兄さんのことを大切に思ってて、巻き込みたくなかったんです」
それだったら、最後に本名でローストビーフを送ってきたのは何故なのか、という疑問が浮かぶが、そのことに関しては、桜一郎は言わないでおいた。なぜなら、自分で答えを出せたからだ。
……多原少年の語る“真実”には、一つの欠陥がある。それは、弟が死んでいるということだ。
弟が死んでいるとわかっていてなお、礼をしにきた可能性もあるか。だが、むざむざと、遺族にヒントを与えに来る阿呆はいないだろう。
とにかく、送り状に本名を記載して送ってきたことに関して、多原少年の論を採用するとするならば。
ーー嘘を吐いたことへの罪悪感。もしくは。
頭の中に浮かんだ論を、即座に破り捨てる。まさか、そんなことを考えて送ったわけではないだろう。
困ったことに、多原少年の“巻き込まないために”という理論は、想像以上に、桜一郎を納得させてしまった。これなら、死ぬ前に電話やメールを寄越さなかった理由も、桜一郎たちを巻き込まないため、で通る気がする。
「なんだ、そうだったのか」
太陽の沈む瞬間、フロントガラスの端で、夕空が一際輝いた。
これにて、一件落着。
多原は、一仕事終えた気分だった。結局すべてを話してしまったが、兄弟のわだかまりが解けたようで何よりである。あっ、闇の組織について話しちゃった、口止めしておかないと多原が殺られる!
「あの……っ」
「じゃあ尚更、どっちでも良かったなぁ」
しみじみとつぶやかれた言葉。多原はちょっと、不穏なものを感じてしまう。桜一郎さんは、多原なんて目に入ってないみたいだった。いや、車を運転してるからじっと見られても困るけど。
「ど、どっちでも良かった、とは?」
「それはもちろん……いいや、なんでもないよ。それよりも多原君、君に、ひとつ頼みたいことがあるんだ……」
結局。自分と弟はそんな関係である。だからあの日、桜一郎は喫茶店に行こうとした。残念ながら、閉まっていたのだけれど。
そう。
桜一郎が死んだって同じ。あの弟は、平気な顔して遊びに行っただろうから。
桜一郎は、自分が死んだ時の弟の反応を、そっくりそのままなぞったまでだ。きっとたぶん、弟もおそらく蓋し、桜一郎と同じように、まだ一人いるからいいやと思ったに違いない。
ーーしかし、変わった子だったな。
縁側でタバコをふかしながら、桜一郎はつと考える。彼には、芝ヶ崎らしさが全くなかった。芝ヶ崎の根幹をなす、悪意というものが。
「だからお前も、多原君を巻き込んだんだろ?」
隣に置いた趣味の悪い遺影は何も返してくれない。当然ながら。だが桜一郎は、おかまいなしに続けた。そういえば、こんなところが弟に嫌われていたような気がする。
ーー結局、僕もお前も、あの子に託すことになったんだ。
「お待たせしました、鳶崎さん」
こつ、こつ。多原は、ゆっくりと、物憂げな顔をして窓辺に座る鳶崎さんの元に近づいていく。
桜一郎さんのおかげで、最後のピースが揃い、レシピは完成したのだ。
「これがぁ!」
こつこつこつ、多原は早足になり、やがて皿を持ったまま走り始めた。
「当店ご自慢のぉ!」
鳶崎さんは多原に全く気付いていない。勝機! 多原は皿を持ったまま、腕を振りかぶる。
「黒字倒産でございますううううう!!!」
的な夢を見た多原は、朝からとっても悩んでいた。
「おーっす、多原」
「ヤアオハヨウシマザキクン」
「……は?」
島崎にごく自然に挨拶を返して、多原は教室の席で悶々と考えた。授業中もノートの端っこに案を書いては消していく。
『恥ずかしい話だが、もう、社内ではこの流れを止めることができないだろう』
桜一郎さんは、鳶崎物商が、例の組織に支配されていることを嘆いていた。
在庫が増え過ぎたことによる黒字倒産。『在庫があるなら売り捌けばいいのでは?』というのは、昨今のドライバー不足と、着荷基準とやらでそうそう簡単なことではないらしい。
それじゃあ、どうするか。
「もっと上の人に直談判して助けてもらうとか! そういうわけで、細かいことはいえませんが律さん、鳶崎物商をたすけーー」
「却下。というか、君はどこの誰かな? 私は、ドブネズミを迎え入れた覚えはないけど?」
ぺいっ、と。
多原は、芝ヶ崎本家からつまみ出されてしまったのであった。むしろどうして敷地内に入れてくれたのか、疑問に思うほどである。
門の前で、多原は地団駄を踏んだ。葉村さんではない門番さんが、多原をドン引いた目で見つめている。
マーマイト使い芝ヶ崎律。ここにきて、彼は多原のことを裏切ったのである!




