一郎次郎三郎
記憶の中の渡会さんと、目の前の男性は、とてもよく似ていた。
といっても、今こうして柔らかな表情を浮かべる彼を見ていると、やっぱり似てなくね? と思うが、先ほどのイライラした表情は、瓜二つだった。この人がグレたら渡会さんになるな、と多原は失礼なことを考えた。
それにしても、なんだかちぐはぐな兄弟である。どちらかというと、この人の方が兄という感じがする。渡会さんの方がちんぴ……活発そうなイメージがあるからだろうか。
目を閉じれば思い出す。路上で絡まれてそのまま車に乗せられていびられたことを……あんまり良い思い出じゃないな。
こうして考えてみると。
ーーローストビーフのお礼をしたいけど、それしか話せることがねえ!
貴方のお兄さん誘拐犯みたいなことしてましたよ、は、この真面目さの塊のような弟さんに言いにくい。
ああ、こういう時に、さっきまで一緒に帰っていた親友S君がいたら、よく回る口で本題だけを伝えてさっさと帰れたのに。もっとよく考えて声をかけるべきだった。
多原はあんまり器用じゃない。某父から『キョウ君の名前は、器用に生きられるようにって意味が込められているんだよ〜。貴いって漢字はどうしてかって? それは僕が病院でね……』などと言われたが、名前負けしている。
「……おっと、風が出てきたね」
ぶるりと震えた渡会弟(仮)さんは、腕を擦った。スーツの上に何も着ていない。十一月の風はとても寒い。ちなみに多原はマフラーを巻いているーーじゃなくて。
「あっ、別に長い話ではないのでっ、ぜんぜん、すぐに終わるので! 風邪ひかないように、手短に話しますね!」
これだ! 寒いことを言い訳にして、ぱぱっと帰る。これなら、相手を気遣いつつ、言っちゃいけないことを言わなくて済む気がする……
「申し訳ないが多原君、兄の話は、もう少し、暖かいところでしないか?」
「……あっ、はい……」
多原は瞬時に悟った。終わった。別に罠の掛け合いをしているわけではないけれど、この人の方が上手だった。
ーーさて。
噂の多原貴陽という少年を、こちら側に誘き寄せたは良いが。
ーー社長が警戒するほどの人物か?
頑なに後部座席に乗ろうとするのを引き止めて、助手席に座った多原を、横目でチラリと見る。引き攣った笑みを浮かべながら、
「車内がまるで天国のようです!」
「それは良かったね」
直接に会うのは、これが初めてだ。もしかしたら、新年会で会っているかもしれないが。
風の噂で聞いている。この少年は、我らが鳶崎社長に目の敵にされている。草壁が鳶崎を切り捨てたのは、この少年の存在あってこそ。
漆崎の巫女が戯れに指名したのもこの少年で、なんなら一時期、本家の長女に気に入られていたのもこの少年である。
さらに根も葉もない噂では、本家の跡取り息子を懐柔し、仲間に引き入れた、などなど。
島崎ほどではないが、染先もまた、それなりに情報が入ってくる家柄なのである。
ぼんやりしているように見えるが、この少年はやり手であり、油断をしたら食われるというのが、桜一郎の認識。
あの多原亘の一人息子だ。多原貴陽もまた、芝ヶ崎という魔境で生き残ってきた化け物に違いあるまい。
ハンドルを握る桜一郎の中では、多原という少年を殺した方が良いか、殺さない方が良いかの計算がおこなわれ……虎の尾を踏むのはまずいと瞬時に判断。
ーー桜次郎が死んで、僕が死んだら。染先の血は今度こそ途絶えてしまうし。
ともあれ、せっかくの拾い物。もしかしたら、その身を懸けて鳶崎物商を救ってくれる彼を、易々と手放すわけにはいかない。
ーー時間稼ぎだと看破されてしまうだろうけれど。
「兄とはどうやって知り合ったんだい?」
「し、新年会ですね」
端的な答え。情報をあまり寄越したくないのだろうか。「あ、この車あったかいですね」。
「ローストビーフというのは?」
「それはもう! 俺の舌を唸らせた最高級のローストビーフです! 簡単にぽちぽちってしてたけど、きっとお値段が高かったに違いない!」
ローストビーフの時だけ饒舌になった多原少年は、はっと気付いたように目を見開き、すん、と真顔になった。なぜだろうか。
「新年会の時、ゲームで遊んだんです。お兄さんと……それで、その時のゲームの景品が、ローストビーフで……」
「何年か越しに、景品を受け取ったというわけだね」
「そうですそうです!」
……困った。この少年の言っていることが、桜一郎には、さっぱりわからなかった。とりあえず話をつなぎ合わせてみたが、どうしてそうなるのかわからない。
どういうことか、弟に詳しく聞きたいが、肝心の弟は今や骨だけになってしまった。
ーー桜次郎め、どうして死んだんだ。
せめて死ぬ前に、兄である桜一郎にローストビーフの件を説明してから死んでくれないだろうか。
もちろん、多原少年が、意味のわからないことを言って煙に巻こうとしている可能性だってある。
「君には悪いが、兄は横暴でね」
そこで、桜一郎は多原の説を否定することにした。
「誰かに物を贈るなんて、あり得ないんだよ。君の話を、僕は信じることができない」
「……で、ですよね〜。わかります」
このとき、なぜか、多原少年はホッとしたようだった。
「でもその横暴さの中に不器用な優しさがあるというか。ていうか、いや、あるかな? うーん」
腕を組んで、随分悩んでしまった多原少年は、覚悟を決めたようにこちらを見た。
「で、でも、俺を蹴ったこと、反省して謝ってくれましたよ!」
「……はるかにリアリティのある話が出てきたね」
何をやっているんだ、あの弟は。
なんだか、兄弟仲がよろしくなさそうだけれど、もうこうなったら多原は意地でもローストビーフのお礼をしたかった。
せっかく身内と思わしき人と会ったのだ。綺麗な部分だけ伝えておさらばしたかったのだが、ちょっと悪い部分を「リアリティのある話」と認識している弟さんには、少しだけ真実をお話しして納得してもらおうと思い直す。
「話は俺が小学校高学年の頃に遡るんですけど、その頃俺は本家の令様と仲が良くて」
するりと、「令様」という言葉が出てきて、多原は自分で自分に傷ついた。
「まあ、今は疎遠なんですが、それが気に食わなくて、新年会の日に、お兄さんに蹴られまして」
「……それは、身内がすまない」
「いえいえ! 幸い、俺がまったくお兄さんの話を聞いていなくて、ローストビーフを得るための試練だと勘違いしていたので……」
「はは、そこでローストビーフが出てくるんだね」
「はは」と言ったのに全く笑ってくれない弟さんに、多原はぞっとした。
「その行き違いがこの前会った時に発覚して、あの時は蹴って悪かったって謝ってくれたんです。俺が一人の時じゃなくて、令、様と一緒にいる時に言えば良かったって。“渡会家の長男として、堂々と”って……言」
瞬間。多原は、口をつぐんだ。なぜなら。
「そうか、渡会家の長男として、か」
笑いを堪えきれなかった。なるほど、だから多原少年は、桜一郎の方を弟と認識したわけだ。
「あいつ、どこまでも僕のことを嫌いだったんだな」
「き、嫌い……?」
「ああ、申し遅れたけど、多原君」
別にそれを言うつもりはなかった。けれど、どうしてか、この少年にはそれを伝えたくなった。
「僕の名前は、染先桜一郎。君があった渡会とやらは、染先桜次郎というんだ」
「最初から二人兄弟になると計算した上での名付けですか?」
「違うよ。僕の方が兄ってことさ」
「?」
多原少年は、目をぱちくりさせていた。そして一瞬の後。
「あっ、だからソメサキオウジロウって送り状に書いてあったんだ!」
とよくわからない納得の仕方をしたのであった。




