芝ヶ崎の悪意
「さて、と……」
染先桜一郎は、膝を使ってダンボールを抱え直した。
データ保存の技術が進んだこの時代、一昔前のように、大量の紙資料を持って別部署にお引越し……という光景は見られなくなったが、桜一郎はあえて、物流部門に一箱の段ボールを持っていくことにしたのだ。
廊下を歩いていると、ぽん、と友好的に肩を叩かれた。
「こうしてみると左遷に見えるなぁ、あっ、左遷かぁ!」
「物流部の皆さんの足を引っ張るなよ、お飾り役員さん」
「だーいじょうぶ、物流部なんてこいつと同レベルのやつしか居ねえよ!」
「これ以上見下されようがないから安心しろよ」
などなど。芝ヶ崎クオリティ満載の激励を笑って受け流しながら、桜一郎は、物流部のドアを叩いた。
「これはこれは、執行役員様じゃありませんか」
柄の悪さは、元いた品質管理部と同様。どことなくどんよりとした雰囲気は、まさしくここが、鳶崎物商で上がり目のない場所だとわかっているからだ。
桜一郎の前に現れた男もまた、どんよりとした目をしていた。そして、その瞳は明らかに拒絶の色を示していた。
「来てくださったところ申し訳ありませんがね、ここには貴方の席はありませんよ。貴方はここと、契約倉庫の間を行き来して、仕事をしたふりをしてれば良いんです」
確か、この男は、染先と同等の家系だったはず。
桜一郎は、曖昧に微笑んだ。抱えていた段ボールを持ち上げてみせる。
「しかしですね、もう既に資料を持ってきてしまったんです」
席がない? そんなこと、あるわけがないだろう。デスクと椅子をせっせと運び出す姿を見られるなんて、この無駄にプライドの高い物流部が許すわけがない。
室内を見渡し、いちばん資料の積み上がっているデスクの上に、段ボールを置いた。目の前の男が教えてくれた通り、“ここと契約倉庫の間を行き来して”いるにしては、やけに資料が多い。まるで、急拵えで作ったようなデスクだ。
「おいっ、それは大事な資料だぞ!」
「安心してください。これ、軽いので」
案の定指摘してきたので、段ボールを持たせてやれば、なぜか目の前の男は、がくんと膝を折った。軽いと言ったのに、重いという前提があったのだろう。いやはや、信頼してもらえないとは辛いものである。
中身のほとんどは新聞紙だ。桜一郎は、芝ヶ崎の中で生まれて、芝ヶ崎の中で生きてきた。これくらいの悪意は予測している。
ーーそれに。
桜一郎は、目を細めて、デスクの上の資料の山から一枚を抜き出した。当たり。普通なら保管庫行きを待っている資料を引っ張り出してきたのであろうことが、一目で分かった。
だがそれは、あえて指摘しない。桜一郎はここに、争いに来たわけではないのだ。
だが、桜一郎の視線の意味を理解したのだろう。目の前の男の顔色は、目に見えて悪くなっていく。桜一郎は、そっと、紙を元あった場所に戻した。
なぜか段ボールを抱えたまま、ぽかんとしている男に笑いかける。
「(物流部の)お噂はかねがね伺っております。執行役員という器を形だけにしないよう、身を粉にして働く所存ですので、よろしくお願い致します」
そういえばこの男は、弟を亡くしたばかりだと、風の噂で知っている。
染先桜一郎。鳶崎物商で燻っている人間の掃き溜めに突然現れたこの男は、想像以上に、掴みどころのない男だった。
「弟が自殺するはずありません。きっと、誰かに殺されたのでしょう」
憤ることもなく、悲しむでもなく、血のつながった人間の死を、淡々と口にする。するりと、自分の悪意を躱してしまう。
ひとしきり、部署の全員に名刺を配り終えた後、染先は、せっかく空いた席に座ることなく、段ボールの中に隠していた(!)鞄を引っ提げて、契約倉庫へと出掛けていった。
染先が出て行った後。
「噂は本当だったのかもな」
ぽつりと、上司がつぶやいた。この上司は、追い詰められた人間特有の寛容さを持つ人間である。
「染先桜一郎は、芝ヶ崎に適応しすぎている」
「適応、ですか」
「ああ」
彼は、芝ヶ崎の悪意に慣れすぎている。
部署間での連携を取る。そんな簡単なことが、この会社ではできないのである。
ーーいや違うな。
契約倉庫に足を踏み入れながら、桜一郎は考える。
ーー普通の会社の優れたところと、歪んでいるところが、我が社では何倍にもなっているだけ。
それこそが芝ヶ崎。いずれきっと、滅ぶ一族の定めである。
物流部と品質管理部。この二つの部署のズレを、桜一郎はまじまじと感じていた。
鳶崎物商は、元医療機器メーカーであるナギサメディカルを買収した。そこまでは良い。小さいが、独自の販路を持つナギサメディカルの弱点は、流通量だったからだ。鳶崎ロジスティクスの名残で、倉庫保管に一日の長がある鳶崎物商が関わることで、流通量を増やせるのなら、win-winの関係になる。
ーーだけど、実際には。
品質管理部の仕事は、増えていない。
ナギサメディカルの品質管理は、どこに行ってしまったのだろうか。ナギサメディカルの強みである商品選定能力は、買収されてもなお、生かされているのだろうか?
品質管理部にいては、それを感じ取れなかった。ならば、物流部ではどうか?
それも相まって、桜一郎は、契約倉庫へと向かったのだ。
……そして、唖然とした。
桜一郎にしては、焦りが生まれていた。
「本当に倉庫を行き来してるだけじゃないか……!」
毒づくのも無理もない。たしかに、鳶崎物商は商品の保管能力には優れている。だが、本当の意味で、物流に優れているとは言えないのだ。
「“資産”だけを増やしている……このままでは、うちは」
なんとか、打開策はないのかと、車を降りて歩く。会社に帰ったら、せっかく友好的関係を築こうとした同僚にあたってしまいそうだ。
どうにか気持ちを沈めようとしていた、その時。
「あの」
声が聞こえて、桜一郎はそちらの方を見た。
そこには、一人の少年が立っていた。面識がない。背格好からして、高校生。彼が口を開く。
「もしかして……ワタライさんか、ソメサキさんだったりしませんか?」
どうしてその二択なんだろうと、桜一郎は思った。後者は当たっている。だが、前者がわからない。
「たしかに、私は染先だけれど。ワタライというのは?」
「すみません、貴方によく似た人が、そう名乗ってたので……」
少年は、ぺこりと頭を下げた。
「ええっと、お兄さんに、ローストビーフ美味しかったですと伝えてもらっても良いですか? 直接お礼を言っても受け取ってもらえないと思うので」
兄? 強いて言うなら、自分が兄だが。
不思議なことを言う少年だ。誰かと勘違いしているのだろうか?
「俺の名前を言ってくれれば、たぶんわかると思うので。俺、多原っていいます」
「多原……?」
降って沸いた名前に、桜一郎は、大きく目を見開いた。
そして、同時に。
「成程」
「なるほど?」
「多原君、良ければ話してくれないか……僕の、兄のことを」
精一杯の爽やかな笑みを浮かべた桜一郎。嬉しそうに頷く多原という渦中の少年は、とても芝ヶ崎の人間とは思えないが。
まあ、腹に一物隠していたとしても乗り切れるだろう。
なんと言ったって、染先桜一郎は、
ーー僕は、芝ヶ崎の悪意には慣れているんだから。




