暗闇でしかはぐくめない
『レイにゃん、聞いて聞いて!』
月曜日の朝である。
珍しく、神妙な顔をした木通しをんは、大量の汗をかいていた。いや、実際に汗をかいているわけではないのだが。
画面の遠くにいたしをんは、令を手招きした。が、当然、令がそこに来れるわけがなく。結局しをんが画面ににじり寄ってきた。なんだこの茶番は。
しをんは、口元に手を当てる。内緒話でもするように。
『今私、とってもやばいことになっててね』
「手短に話せ」
『つ、冷たい……えーっとぉ、じゃあ、言うけど、驚かないでね?』
「ああ」
『簡潔に言うと…………身バレしましたぁ!!』
「ああそうか、みばれしたんだな」
そろそろ高校に行かなければならない時間だ。令は淡々と、学校に行くための準備をし出した。
『って、身バレの意味理解してないでしょ!? ねえレイにゃん!? ちょっとネットで検索してみてよう!!』
しをんが騒ぐので、仕方なく、令は携帯で“身バレ”とやらを検索し……
「これは……確かに拙いな」
『まずいでしょ〜? えへへ〜どうしようレイにゃんたすけてほんとに』
とりあえずは、二人とも学生の身である。身バレの件は、家に帰ってきてから話すことにした。
ーー当然のように自分が学生であることを否定しなかったな。
それだけ、木通しをんは焦っているのだ。
高校の正門に着く。案外、この学校に通う木通しをんは、すぐに見つかりそうである。
「あ、あのっ」
声をかけてきた男子生徒を一瞥もしないで、令はすたすたと歩いた。芝ヶ崎本家での出来事は、彼にも伝わっているらしい。
「あの、芝ヶ崎先輩、俺ちょっと訊きたいことが……」
他人行儀な呼び方は、教育の成果である。今までの令は、自分の力が足りない故に多原を遠ざけていたが、父の「やり方」を知った今、態度を変えることは吝かではない。
「あのっ、れっ、芝ヶ崎先輩っ」
いかにも不安ですといったような顔をしながら、健気にも令に追い縋る。心の奥底で、嗜虐の炎が、蛇の舌のように、ちろちろと燃え始める。
「なんだ?」
人目につかないところに誘導して、多原に向き直る。
「もう少しで始業のチャイムが鳴るぞ、キョウ」
愛称で呼んでやれば、ぱあっと表情が輝いた。
「レイ姉ちゃん、えっと……鳶崎さんとの結婚の条件が変わって……それに同意したって、本当?」
「ああ、本当だよ」
「な、なんで? レイ姉ちゃんは、結婚が嫌なんじゃないの?」
せっかく明るくなった表情が、徐々に曇っていく。この幼馴染は、実にわかりやすい。令のことを思って、こんな顔をしてくれているのだ。
それのなんと愛おしくて、愚かなことか。
今すぐに抱きしめてしまいたいのを自制して、令は、つとめて悲しそうな表情をつくった。心にもないことを述べる。
「だが、いずれはしなければならないことだ。家柄でも、実力でも、鳶崎ならば申し分ない。芝ヶ崎を守っていくのには、必要なことだ」
「だけど、レイ姉ちゃんはそれで良いの? 好きでもない人と結婚して、幸せなの?」
「キョウ。自由恋愛は、芝ヶ崎では通じないよ」
これは、少しの願いをこめて。多原とて、末端とはいえ、芝ヶ崎の人間なのだ。この先、彼に好きな人間ができたとして、芝ヶ崎のしがらみから、解放してやる気は無い。
「覚えておくと良い。私たちは絶対に、芝ヶ崎という檻からは逃れられないんだ」
それは、願いと呪いを込めた言葉である。多原は、しばらくぎゅっと口を閉じていたが。
「でも、芝ヶ崎の闇の組織は福利厚生にサブスクを採用してたよ」
意味のわからないことを言ってきた。だが、本人は至って真剣そうだった。多原の瞳の奥には、令が慄くほどの、強い光があった。
「俺は、闇の組織が、福利厚生にサブスクし放題や、格安で映画を鑑賞できるのを採用してるって聞いたときに、すっごくがっかりした。闇の組織って、なんとなくブラックなイメージがあったから」
「でもそれは、俺の勝手な考えだった」。多原はそう続けた。ぎゅっと、体の横で、両拳を握る。
「実際は、そうじゃなきゃいけなかったんだよ。闇の組織だって、時代に合わせていくべきなんだ」
「な、何を言ってるんだ、キョウ」
「芝ヶ崎だって、ちょっとずつ変わって行ってる。あれはきっと、そういうことの現れだったんだよ! レイ姉ちゃん、大丈夫だよ。時代は、変わっていってる。芝ヶ崎でも、芝ヶ崎以外のお金持ちの家だって、好きな人と結婚して良いんだよ」
「……キョウ」
力強く言い放った幼馴染は、あまりにも。
校舎の影に、朝の陽が降り注ぐ。目を眇め、令は、多原を見つめようとして。
「うわ眩しっ」
あまりにもアホヅラな幼馴染から、令は、顔を背けようとした。自嘲的な笑みを浮かべる。
「はは、本当に眩しいな……キョウ、ありがとう。お前がそう言ってくれるだけで、私は嬉しいよ」
「レイ姉ちゃん」
「だが、もう関わってこないでほしい」
「……」
あまりにも眩しかったから、自分の目に入れても痛くないように、ひどい言葉を投げつける。
「キョウ、お前が思っているより、芝ヶ崎の闇は、深くて、暗いんだよ」
「……っ」
何かを言おうとした多原に背を向けて、令は歩き出した。
ーーそうでなければ困る。
そうでなければ、令の背後で立ち尽くす少年は、指の隙間からするりと逃げて行ってしまう。
『“特別”な君たちが寄ってたかったら、“普通”のキョウ君はすり減ってしまうのに』
好いている人間と一緒になって良いのなら。
もう、悲劇は生まれている。多原貴陽という人間は、もうこの場にはいない。下手をしたら、この世にも。
ーーだから、私は辛抱しているのに!
芝ヶ崎の暗闇でしか、令の愛は認められないのに。
怒りさえ覚える。どうしてあの幼馴染は、自分の価値をわかってくれないのだろう。
ーーあの子は私のものなのに、私のもののはずなのに。
「どうして、私とあの男の噂を流したんだ? 貴陽」
「うっわ、撃沈してる。おい、昼飯食いそびれるぞ」
「わ、わかってるわ」
昼休み。島崎にシャーペンでツンツンされて、多原はむくりと、伏せていた顔を上げた。
「お前、目がやばいぞ? 大丈夫そ?」
「オフコース……」
かろうじて親指を立てる多原。脳裏には、朝、レイ姉ちゃんとした会話が蘇っていた。情けない声が漏れる。
「うう、嫌われた、レイ姉ちゃんに……」
「ふ、ふーん? ちょっと話してみ?」
多原は、挙動不審な受け答えをする島崎に、朝のことを話した。もちろん、クラスの人たちがいるから、細かいことはぼかしている。
そこは、多原の永世親友(予定)島崎くん。ふむふむと頷いて、
「そりゃ、お前が悪いな」
と言い放った。
「お前何その根拠、闇の組織ってふざけてんの? ユーツーブの情報を根拠にするくらいあり得ねえ」
「なんで俺の黒歴史を掘るの?」
とはいえ、木通しをんちゃんは黒歴史ではない。悪いのは、しをんちゃんが注意書きを書いておいてくれたにもかかわらず、宇宙人説を信じちゃった多原である。
多原はちょっと足掻いてみた。
「ていうか、闇の組織はお前も知ってるじゃん」
「普通の人間は闇の組織を信じねえんだよ」
「……レイ姉ちゃんなら、信じてくれるって思ってた」
実際、多原はいたずらに、レイ姉ちゃんの心を傷つけただけだった。湧いてくる自己嫌悪を、ちぎっては投げ、ちぎっては投げてみるが、あんまり効果がなかった。
「だから」
多原は、がたんと立ち上がった。クラスメートの目が多原の方を向いて、多原はいそいそと座り直した。
「カッコつかねえー」
「げほん、だから、な、島崎。俺は思うんだ」
「ほうほう」
「俺は絶対に、レイ姉ちゃんと、本当に好きな人が結婚する未来を掴んでみせるって……なんで舌打ちすんだよ!?」




