兄弟と呪い
「急な任命、本当にすまなかった」
総会が終わった後。巳嗣は、染先桜一郎に頭を下げた。
染先は、現在、品質管理部に所属している。それをいきなり物流部門に持ってきた上、執行役員ときた。目まぐるしいにも程がある配置転換に、しかし、染先は穏やかに首を横に振った。
「いえ。元々、大学で物流の講義を聞いており、興味があったので、ちょうど良い機会でした」
染先は、物腰の柔らかな人物である。芝ヶ崎の一族であるにもかかわらず、闘争心というものがない。悪く言えば凡庸、だが、その凡庸さは、剥き出しの闘争心を見せる他社員との差別化に成功している。
巳嗣は、染先の凡庸さを気に入っていた。
総会で、巳嗣は物流の重要性を説いたが、そんなのは出まかせである。
……情けない話であるが、巳嗣には、この凡庸な染先が、芝ヶ崎格の手先であるか判断できない。
運転手はそうだった、専務取締役もそうだった。おそらく総会出席者もそう。
染先が“そうではない”と、楽観することもできる。だが、巳嗣は最悪を想定した。
葉山林檎を低リスクで誘き出すために、染先を、社内で軽視されがちな物流部門の執行役員に任命した。これには利点が二つある。
一つ、あまり社内に波風が立たないこと。
闘争心の強い芝ヶ崎一族の多いこの社内において、家柄は重要だ。鳶崎物商は、芝ヶ崎の縮図である。家柄の低い人間が、高い人間を超えて出世をすれば、よほどの実力を持っていない限り、すぐに引き摺り下ろされる。
今回任命した染先は、家柄で言えば中の下。普通なら波風が立つところだろうが、任命された先は物流部門の長である。
商社にとっての花形は営業部であり、物流部門というのは、言ってしまえば閑職である。不平不満が出るとするならば、他の社員ではなく、染先である。
そして、利点の二つ目が、染先が芝ヶ崎格の信者だとしても、権限を抑えることができる、ということだ。
物流部門は閑職だ。その閑職の長になったところで、名ばかり役員が権限を行使できるはずもなく、ましてや、中の下の家柄の者が何を言ったところで、芝ヶ崎は動かない。
仮に、染先が芝ヶ崎格の手駒であったとしても、それは死に駒と化すのである。
……そもそも、鳶崎物商全てが、いっそ芝ヶ崎格に掌握されていれば良かった、そうすればこんな回りくどい手は使わずに済んだ。
と、巳嗣は考えていたが、今となってみれば、無駄にプライドの高い社員達のおかげで、芝ヶ崎格の侵略を防ぐことになっているのだから、物事はどう転ぶかのかわからない。
ーーだが、御当主さまのおっしゃる通り。葉山を招き入れるのは、芝ヶ崎格の信者でなくとも反感を買うだろう。
出資を受けた時点で、巳嗣は芝ヶ崎の裏切り者だった。芝ヶ崎本家を葉山の侵略から守るという御旗を掲げていたはずが、いつの間にか、葉山の旗まで掲げることになっている。
ーー軌道修正が必要だ。
そんなことを考えながら、巳嗣は、染先との会話に応じていた。
と、そのときである。震動音が、染先の鞄から聞こえてきた。
「……すみません社長。電話に出ても良いですか?」
「ああ」
「ありがとうございます」
そう言って、染先は頭を下げ、通話可能なエリアへと歩いていった。
帰ってきたのは、それから数分だった。
「ずいぶん早いな」
「ええ、大して重要ではありませんでしたから」
微笑む染先は、今後の展開について、自身の考えを語り、巳嗣に意見を求めた。なるほど、講義を受けていただけはある。ドライバー不足、燃料費の高騰に始まり、サプライチェーンにおける問題点などを、わかりやすく簡潔に話してくれた。
「とはいっても、まずは物流部門の皆さんの信頼を得るところから始めなくてはなりませんが」
苦笑する染先は、実に凡庸な意見で締めた。
鳶崎社長と別れた後、桜一郎は、先程の「大して重要では」なかった内容を知らせてくれた人物に、電話を掛け直した。
「もしもし、母さん? うん、うん。株主総会は恙なく。あはは、もしかしたら左遷かもしれないね、まあ、気楽にやるよ」
歩き出す。
まだ日の高い時間である。日光を惜しむことなく浴びながら、桜一郎は、この後行く予定の喫茶店は空いているだろうかと考える。
「それで、桜次郎の件だけど、葬式はいつにする? そんなに泣かなくても。自殺じゃなくて、他殺だと良いね。自殺だと、染先の醜聞になるから」
電話口の女性の、この世の終わりのような声を聞きながら。桜一郎は、どうしてこの人は泣いているんだろうと考える。一人息子が死んだならともかく、まだ、桜一郎がいるから良いではないか。
「そんなに人は呼ばない方が良いかも。なにせ、あの死に方だからね。とにかく、僕はこれから用があるから、弟と対面するのは検死が終わってからになるかも」
それだけ言って、桜一郎は電話を切った。
「せっかく出世したのになぁ」
これでは、家に帰ったら弟の話題で持ちきりになるだろう。せめて自分だけでも、自分を褒めてやらなくては。
「……ということを考えて、来てみたけれど」
桜一郎は、渋面した。目当ての喫茶店には、『本日休業』の札がかかっている。
「ここのケーキが美味しいらしいのに」
スマホの画面には、そんなこと書いていないのに。正式なホームページではなく、レビューサイトだから、そういうことは出てくるだろうけれども。
「まったくついてない。弟も死ぬし」
ため息混じりにそう言って。桜一郎は、別の店に行くことにした。
「当然、芝ヶ崎令にも、鳶崎巳嗣とのやりとりは知らせられる。あの女は鳶崎を破滅させたいから乗る。だけど、そこに多原がいたらどうかって話ですね。はいどーぞ」
やる気なさそうにメールを打って、島崎は検閲係の楢崎に画面を見せた。こいつは、芝ヶ崎格の信者ではないが、かといって味方でもない。今回のことで思い知らされた。
「余計なことは書いてませんよ。お前が誘拐されてる間、本家ではトビサキサンがご当主様に無茶言って、楢崎を医療分野で打ちのめすって条件を緩めてもらった。そんで、一定期間内に、楢崎の資産を上回ったらオーケーってことにしてもらった、って。これで、トビサキサンは罠にハマっていくわけだ」
「ちくちくした視線が刺さるんだけど、それを考案したのは格様だからなぁ……うん、送ってよし」
苦笑いしながら、楢崎は送信ボタンを押し、島崎にスマホを返した。
「私も性格が悪いと思っているよ。こほん。“多原君の作った陰謀論が裏目に出たと、島崎君の言葉で教えてあげてほしい”って言われた時は、この人は嫌われるのが上手いなあと思ったもの。まあでも私を泥舟に乗せてくれる人だから? 多少のことはぺらぺらぺら」
などと楢崎が言うのを聞きながら、島崎は、あらためて芝ヶ崎格という男の評価を上げざるを得なかった。まさか、自分を囮にして、多原のみならず島崎も釣るとは。
島崎がするべきだったのは、多原を誘拐させて情報を得ることではなく、多原を誘拐することの意味を考えることだった。
気付いた時には遅かった。おそらく、渡会という人間は、もうこの世にいない。
島崎が多原に仕掛けた盗聴器の向こうで。渡会はーーいや、渡会という名前さえ、偽名だったのかもしれないーー島崎に、ヒントを託した。
与野崎傑を追え。それが、彼の遺言である。
島崎の情報網を使えば、同時期に失踪した芝ヶ崎の人間を特定することは可能だ。だが、渡会はそれを言わなかった。彼は理解していた。自分達の死を探っても、何も出てこないのだと。
多原と闇の組織ごっこをしていたあの男は、その裏で二人も人間を殺していた。
それを多原に言う気は、島崎には、ない。陰謀論を信じている人間は、それでも幸せだ。信じている間は、無関係でいられるのだから。
味噌汁が動くの宇宙人説と言った時のアホヅラと、拍手が鳴り止まない夢の中の光景。どっちを取るかといえば、前者だ。
「ん、電話?」
メールでやり取りしているのに。驚きのあまり、電話をしてきたのだろうか。島崎は、楢崎を見た。楢崎が頷いたのを見て、通話ボタンを押す。
「おう、どうした、多原?」
『って言うかお前、俺が誘拐されたこと知ってたの!? 助けに来いよ!』
どうやら、抗議だったらしい。たしかに、情報を得るためとはいえ、山の中で一人ぼっちは可哀想すぎた。島崎は謝ろうとして……
『まあでも、誘拐されたおかげで、俺は景品をゲットできたわけだけどな! 話聞いてたならわかると思うんだけど、なぜかローストビーフが、偽名で送られてきたんだよ!』
「偽名……」
島崎の沈んだ声を勘違いしたらしい。多原はますます得意になる。
『照れ隠しってやつかな。とにかく、俺はローストビーフを食べるぞ羨ましいだろばーかばーか』
「多原」
『なんだよ』
「……その偽名って、どんな名前で送られてきたんだ?」
『? えーと、あそうだ、ソメサキ! 染先桜次郎って名前!』
島崎は舌打ちしたいのを我慢した。自分がローストビーフを食べ慣れていることを軽く自慢してやってから、電話を切った。
「最悪」
楢崎家の板張りの天井を見ながら、呟いた。
芝ヶ崎の一族は、その長い歴史のおかげで、膨大な数の人間がいる。だから、芝ヶ崎の一族内でも、どんな苗字の人間がいるのか、把握しきれていない。だから、多原はあんなふうに呑気に名前を言えたのだ。
……島崎の家系は特殊で、芝ヶ崎のあらゆる陣営から情報を得ている。葉山のスパイをしていた時に使ったのも、この情報網だ。島崎は、普通の芝ヶ崎よりは、他の家のことを知っている。
ーー染先は、芝ヶ崎に実在する。
「本当に、最悪だ」
昔いじめていた人間に、本名を教えて死ぬなんて。
次回は休業していた喫茶店の話




