鳶崎物商臨時株主総会
『はじめまして、巳嗣様。私の名前は御霊。今日から貴方にお仕えする者です』
遠い昔の記憶である。小学校から帰った巳嗣を待っていたのは、長い髪の女だった。
健康的で、きめ細やかな肌。よく手入れされた艶のある黒髪。しかし今にも通じる、陰を落とした瞳で見つめられて、巳嗣は言葉に詰まり、父に話を聞きに行った。
『鳶崎の男児たるもの、色香に惑わされてはならぬ』
要は、御霊は巳嗣にあてがわれた女だった。
女で破滅した男は幾千幾万といる。幼少期から女に触れさせておくことで、鳶崎家の嫡子に悪い虫がつかないようにしよう、というわけだ。
それから今日まで、巳嗣は、御霊と多くの時間を過ごすようになった。
御霊は、美しい女だった。屋敷の外に出ることを拒み、初めて会った時に健康的だと思った肌は、病的なまでに白く青くなっていったけれども、それが瞳の陰にあわさって、えも言われぬ魅力を醸し出していた。
けれど、父の目は節穴だった。なぜなら巳嗣は、他の女に目移りしようがなかったからだ。いくら、令に似た容姿の女をあてがおうと、巳嗣の気持ちは、既に決まっていたのだから。
姿見には、自分と、御霊が映っている。巳嗣は、御霊を鏡越しに見た。
「どうされましたか? 巳嗣様」
「いや……」
口をついて出てきそうになった言葉を、巳嗣は飲み込んだ。御霊の細い指が、ネクタイにかかる。喉を鳴らさないように、巳嗣は意識した。
ーー私は、この女に、自分の首元を許していたのか。
死んだはずの芝ヶ崎格の駒になって、わかったことがある。一つ、父は節穴ではなかった。一つ、巳嗣には。
「これより、鳶崎物商臨時株主総会を開催する」
居並ぶ人々を見渡して、巳嗣は、目を細めた。鳶崎物商は、同族会社である。株主の大半は身内で固められており、経営に口出しをする人間はおらず、議案は既に決定事項。
今までは、スムーズに物事が進んで良いと思っていた。芝ヶ崎本家に続く鳶崎である自分には、誰も口を出す資格がないと、それが当然だと考えていた。
……だが。巳嗣は今日に至って、ようやく理解した。
株主たちの作り出す沈黙は、萎縮からくるものではない。品定め、又は、監視からくるものだ。
あってなきような総会。鳶崎に逆らえない形だけの株主たちが、どうして律儀に、代理人など立てずに参加するのか、昔はそれが不思議でならなかったが、今は、わかる。
ーー私を、監視するためだったんだ。
巳嗣の更衣をごく自然に手伝う御霊も、ここに居並ぶ芝ヶ崎の一族も。皆が皆、芝ヶ崎格の命にしたがって、動いている。
ーー父は節穴ではなかったし、私には。
議案を上程しながら、巳嗣は、笑い出したい気分になった。
ーー私には、はじめから、敵しかいなかったんだ。
リビングのテレビでは、ニュースが流れていた。神妙な顔をしたアナウンサーが、原稿を読み上げている。
『六日未明、海中から引き上げられた乗用車からは、男性二人の遺体が見つかっており、警察は、男性らの死因と、身元の特定を進めると共にーー』
たまの休日である。
多原は、島崎とメールでやりとりしながら(その内容は昨日本家で起こったことだった。楢崎さんの検閲済みらしい)、ぼーっとそのニュースを見ていた。今は十一月。季節は冬にも差し掛かろうとしているのに、水難事故とは。
メールの内容とあわさって、多原は暗い気持ちになった。
『それでは、次のニュースです……』
ぴんぽーん。
インターフォンが鳴り、多原やお母さんが出るより早く、別室から出てきた父が応対する。
「はい……はい。わかりました。しばらくお待ちください」
にこやかに対応する父。ちらっとモニターを覗くと、どうやら、宅配便の人らしかった。しばらくして、父が持ってきたのは、謎の小箱だった。
「キョウ君、これ何だと思う?」
「? わかんない」
「これはねえ、爆弾」
多原はソファから飛び上がった。が、父がけらけら笑うのを見て、ソファに座り直した。むっとしながら言う。
「で、本当はなに」
「これはねえ」
「食品って書いてあるわ」
ひょこっと、父の背後から伝票を覗き込むお母さん。
「サーロインローストビーフ、ですって。キョウ君宛ね」
ーーローストビーフ!
多原は、目を輝かせた。思い当たることがあった。
「もしかしたら、渡会さんかも!」
父から箱を受け取って、多原は中身を開封した。良い感じの包み紙に収められているのは、間違いない、ずっしりとした肉の塊である。
「お、おお……!」
同封されていた紙には、食べ方やら、牛の飼育環境やらが書いてある。多原はそれをじっくり読んだ。
「良かったわねキョウ君。ふふ、お夕食に、このローストビーフを出しましょうね」
「やったあ!」
多原はガッツポーズ。約十年ごし、多原は、あの理不尽キックの景品を受け取ったのである。
「とはいえ、こんなに立派なやつをくれるとは思わなかった……お礼をしないと」
多原は、ダンボールに貼られていた伝票を見た。どうせだったら、渡会さんの名前をしっかり知りたい。
「……え」
印字されていた名前に、多原は固まった。当然あると思っていた渡会の文字はなく、そこには、全く知らない人間の名前が書いてあった。
「……そめさき、さん?」
なんということだ、てっきり景品だと思っていたのに、違ったらしい。ご依頼主の欄に書いてあるのは、違う名前だ。
「? 偽名かな?」
どうして偽名を使う必要があるのかはわからない。渡会と書いた方が、わかりやすい気がするのに。もしかしたら、照れているのかも。
それにしても、下の名前まで考えるなんて律儀だと多原は思った。そめさきおうじろう。偽名にしてはしっかりしている名前に、多原はほっこりした。
「……以上。投票の結果、賛成多数により可決。新しく、物流部門での執行役員を任命する」
敵だらけの株主総会。優雅に拍手をするあの女もまた、巳嗣の味方とは言えない。
ーーだが、それで良い。
芝ヶ崎格が、何を思って葉山林檎に出資させたのかはわからない。楢崎・島崎の陣営の分裂を狙ったのかもしれないし、そうでないかもしれない。
マイクを握りしめる手が、汗ばんでいる。
だが、だからこそ、巳嗣は、芝ヶ崎格の息がかかっていない人間を、総会に噛ませることができたのだ。
本日の議案は、執行役員の追加である。取締役会で良いものを、一息に株主総会まで持ってきたのは、この女を巻き込むためだ。
鳶崎巳嗣としたことが、神頼みのようなことをしているのである。
「我が社では、物流部門が軽んじられてきた。だが、ナギサメディカルを買収し、商品を調達する能力を増強した今。傘下のグループ会社で倉庫保管のコストを抑えている今。次に必要なのは、自前の物流能力だ。かつて父の代、物流子会社として鳶崎ロジスティクスがあったが、業績が思わしくなく、今は廃止している。そのようなことがあり、厳しい道ではあるが、ここにいる染先桜一郎執行役員には、まずは部門間での壁を取り払い、我が社の物流能力を発展させてもらいたいと、そう考えている……」




