貴方の王子様は
白川さんはグレているので言葉遣いがちょっときたない。
御三家と呼ばれる名家がある。
歴史と伝統により確立され、旧態依然としながらも、それがあらゆる分野で許されてしまう芝ヶ崎。
戦前戦中戦後。その時代に合わせた優秀な人材を輩出し、今や各省庁になくてはならない人材を抱える葉山。
そして、一代で莫大な富を築きあげ、その富を元手に子孫もまた財を増やし続けている、近江商人の生き残りである白川である。
御三家は、その強すぎる個ゆえに、互いに不干渉を貫いてきた。大勇は戦わず、というわけではなく、単に無関心なだけである。
……では。
無関心を貫いてきた御三家が、互いに干渉をする時とは、どのような出来事があった時なのか。
答えは、至ってシンプルである。
「……多原君から、手を引いてもらってもいいですか?」
御三家の令嬢は、今や絶賛思春期中だ。
白川家別邸。
「今、なんと?」
「多原君から、手を引いてもらっていいですか、って言ったんです」
一面ガラス張りの大パノラマ。黄色く色づき始めた木々と、澄んだ空の青色を背負って、白川財閥のご令嬢・白川芳華は、可愛らしく両の手指を合わせた。
対して、テーブルを挟んだ向かい側に座るのは、客人として招かれた葉山林檎。そして、林檎の執事である橿屋である。
橿屋の方からしか見えないが、林檎は両手を膝の上で握り込んでいた。だが、表情には出さない。軽く顎を上げる。
「どうして私が多原様を諦めなければならないのですか?」
「勿論、私の方が多原君に相応しいから。こう言うと、自惚れてるみたいに聞こえちゃうから、正確に言いますねーー貴方は、多原君のことが好きな、どの女の子よりも、多原君に相応しくない」
言外に。
白川芳華は、多原に好意を寄せている人物を把握している。そう言っていた。
毒を孕んだ言葉が、一層背後の景色を鮮やかに浮かび上がらせる。そんな幻覚さえ襲う。
ーーだが、あんたとタメを張れるのは、お嬢様の他には一人しかいないだろ。
橿屋は、ちらりと林檎を見た。身内の欲目かもしれないが、客観的な事実だってある。
白川の横に並び立つことができるとすれば、それは、葉山と芝ヶ崎だけだ。
橿屋と同様、林檎も矜持を持っている。膝で握り込んでいた右手を開き、自分の胸の前に持ってきた。
片頬を持ち上げる。
「あら、芝ヶ崎令と比べられるとは思っていましたが、まさか、他の方々とも比べられるとは思いませんでしたわ」
そう。そもそも、御三家の本家以外は、林檎の眼中にありはしない。比較対象になんて、なり得ないのだ。
それは、御三家に生きる彼女とて同じなはず……だが。
白川芳華は、ふう、と息を吐いたのみ。おまけに、肩をすくめるという行為まで。
「いいえ。貴方は、誰よりも多原君に相応しくない。多原君のことを一番に考えられない女の子に、権利なんてないこと、わかってるでしょ?」
白川芳華は、長いまつ毛を伏せて、林檎を睨んだ。憂いを帯びた憎悪。
ーーなぁるほど。
一番に考えられない、という言葉でわかった。
白川芳華は、林檎が、鳶崎物商に出資したことを指摘しているのだ。それが、多原への裏切りだと。
だが、林檎は、鳶崎物商に出資しただけ。それも、崇高なる理念を持って……とは言い難いが、真に多原の邪魔をしているわけではない。
終わりよければ全て良し。鳶崎巳嗣が破滅するまでのルートを、まだ林檎は塞いでいない。
ーーつまり、小さな裏切りを許せないタイプなんだな、このお嬢様は。
やれやれ、結果を見ないで、過程だけで詰めてくるなんて。それを言えば、林檎は最初に、楢崎マネジにも出資している。多原の親友である島崎とグルだとされている、鳶崎の対抗馬の会社に、だ。
結局どっちにも出資しているのだから、トントンといったところだろう。
「私が、鳶崎に出資したことを言っているのですか?」
林檎は嘲りを込めた口調で言った。
「むしろ、私は哀れな鳥に、夢を見させたつもりですわ。高く長く。飛べば飛ぶだけ、地上に堕ちた時の絶望は計り知れませんもの」
「それに、医療の発展にもつながりますしね」
林檎の言葉に同調するかのような白川芳華。机の上に腕を乗せ、指を組んだ。口調は穏やかだが、その目には苛烈な憎しみが載せられている。
「貴方の王子様と約束した通り」
「貴方が鳶崎物商への出資に応じたのは、鳶崎に夢を見せるためじゃない。小さな島で、今はもういない男の子と、約束をしたからなんでしょう?」
「……」
「貴方がそれを、会った人会った人に、医療の発展と結びつけて美談のように話すのは、まだ傷口が癒えていないから。おどけたように話せば、くだらない思い出として消えると思っている」
「……」
「貴方がそれを、多原君に話さないのは」
言葉を一旦切り、白川芳華は、ぱっ、と明るく微笑んだ。
「決定的になってしまうから。多原君が二番目で、死んだあの子が一番目だと」
橿屋の脳裏には、あの日のお嬢様が浮かんだ。あの子の代わりはいないからと、ナギサメディカルの方を選んだ林檎の表情が。
だが、それを言い切った本人は、目を見開き、唇を戦慄かせていた。
「……それの、何が悪いんですか? 代わりを見つけて、何が悪い?」
「貴方の王子様は死んだのよ」
「おい、アンタ……っ」
がたりと、席を立とうとした橿屋の服の袖を、林檎が掴む。ふるふると、首を振る。橿屋は、どっかりと席に座った。
視線を走らせる。いま、わずかに動いた気配。外に複数人。一面ガラス張りなのは、そのためか。
「貴方が多原君にそれを話して、同情を引くような人であれば、私は貴方を認めていた。だけど貴方は、多原君にそれをいつまでたっても話そうとしない。いつまでもいつまでも、思い出を引きずって、それを隠したまま多原君に好意を寄せている」
白川芳華は、唐突に、机の上の手を隠した。
「そんな人が、私の王子様を愛する権利はない」
ぱきっ、みしり。不思議な音が鳴る。まるで、木が悲鳴を上げているような。
「家柄なんて関係ないのよ。家柄があるから、貴方はそこまで傲慢に育ったんでしょうけど?」
自らにも返ってくる言葉を、堂々と口にする。指を一つ、二つと折っていく。
「同じ醜さでも、芝ヶ崎令の姉弟愛に似た感情の方が、肉欲に溺れた漆崎緋織の方が、殺意に塗れた草壁夕雁の方が、よっぽど良い。だって、あの人たちは、多原君本人にベクトルが向いてるもの」
貴方と違って、多原君本人を愛しているの。
白川芳華は、笑みから一転、まるで道端の吐瀉物を見るような目で、林檎を見た。
「だから貴方は、誰よりも相応しくない。初恋を引きずって、自分の心を偽っている貴方は、私の恋敵に値しない」
完全敗北である。
ーー俺にはわからねえですよ、旦那様。
二番目に置いているだけ。手放そうとはしていない。
あの時彼はそう言ったけれど、白川芳華の言葉で、橿屋の愛するお嬢様は揺らいでいる。
ーー誰かの代わりに愛したって良いじゃないか。
それが不純だとは、橿屋は思わない。傷ついた心を癒すことができるのなら、それは健全な愛だ。
ちらりと、後部座席の林檎を見る。林檎は、窓の外を見ていた。
彼女の瞳に映るのは、果たして、木々に囲まれ、谷間を流れる渓流だろうか。
ーーいいや、違う。お嬢様が見ているのは。
「だって、私だけの王子様なのに」
芳華は、葉山林檎と、その執事が帰った部屋で、一人呟いた。
「そんなの許せない。私の王子様を、そんな覚悟で奪おうとするなんて」
芳華が握ったテーブルは、みしみしと悲鳴を上げている。テーブルに当たっただけ、及第点だと思ってもらいたい。
窓の外には大パノラマ。芳華の魅力を引き立てるために作られたお見合い部屋。王子様は向こうからしかやってこない。芳華が探しにいくことは、窓の外にいる人たちによって、許されていなかった。
「……あははっ、あはっ」
芳華は、お腹を抱えて笑った。
「たぶん私、あの人たちと同じ顔してる」
ほしくてほしくてたまらない。飢えた獣のような、そんな目をしてる。
何度、飛び降りて死んでやろうかと思ったか。
見飽きた窓ガラスに近づけば、ほら。
「きったない表情」




