裏の裏の裏の裏
勿論。
芝ヶ崎格は、実の息子にも根回しを忘れていなかった。
『じきに、貴陽君がここに来るだろう』
昔から、予言めいたことしか言わない人だった。それがすべて事実になるのだから、おかしなこと。
父が言うことは、すべてが事実であり、正しいことだ。たとえ、父が元からある結果を捻じ曲げて、事実にしていたとしても、だ。
『令が、芝ヶ崎を背負って立つんだろうね』
どうでも良さそうに吐かれた言葉。
自分が初めから敗北者であったとしても、それよりましな未来はないのだから。
「残念ながら、君の取引に応じることはできない」
律は、父に言われた通り。多原貴陽を、完膚なきまでに叩き潰す。
案の定、貴陽は、その名前を出してきた。
「待ってください。このままじゃ、鳶崎さんに、律さんの地位を奪われるかもしれないんですよ?」
乾いた笑いが漏れそうになって、律は、扇子で口元を隠した。前提が間違っている。律が当主になる道は、最初から断たれているし、鳶崎巳嗣は当主にならない。この一件で自死するか、でなければ、殺されるだけである。
「そうはならないよ」
首を傾げる貴陽に、幸せものだなと思う。
自分も芝ヶ崎の一員でありながら、何も知らない。何も知らないままで、生きていられる。
無垢なことは美しい。それが、父や、妹の琴線に触れたのだろう。律は、そう思えないのに。
「なるほど、わかりました」
少し考えてから、神妙に頷いた貴陽は、律の目をしっかり捉えていた。これは、母親譲りだろうか?
「つまり、このままいくと、鳶崎さんに当主の座を奪われるんですね?」
「……」
人の話を聞いていたのだろうか。
律は、そういえば、貴陽と面と向かって話すのは初めてだと思い至った。いつもは、祖母や祖父と一緒だからだ。その時は、貴陽は萎縮しているが、受け答えはできている。ということは。
ーーこれは、演技か?
そう思い……この少年が、最初に言った言葉を思い出す。
『俺は、周りの人間が、嘘を言っているかどうかわかりません。だから俺は、あなたのところに来ました』
その後の、本当は鳶崎に会いにいくつもりだった、という発言に意識を奪われてしまったが。
ーー周りの人間が、違うことを言ってくる。それの真偽や有用性を判断する能力は、多原君に無い。だからこそ、完全に自分の敵だと認識している私に会いにくる。
これは、自暴自棄のようなものだ。律は、そう認識していた。みっともなく、無い頭を振り絞って、律に助けを求めてくる。
これは、貴陽にとっての賭けのはずだ。律の言葉は、たとえ嘘だと思っても、呑み込まなければいけないのに。それしか、彼に道は残されていないはず。
ーーそれなのに、なんだ、この男は。
いきなり、人の言葉を否定してきた。胸の内にとどめるでもなく、口にして。
『俺は、周りの人間が、嘘を言っているかどうかわかりません』
追い詰められて、お前はここを訪ねてきたんだろう!?
扇子を閉じて、ぎゅう、と握る。律が貴陽を見据えれば、貴陽はなぜか「すみません!」と頭を下げた。
「で、でも俺、律さんなら、信じられるんです。律さんなら、俺に本当のことを教えてくれないって!!」
「……は?」
久方ぶりに、律は、目を見開いた。そんな律に気付いた様子もなく、多原は頭を下げ続ける。
「だって、律さん、俺のこと嫌いでしょ? 俺に不利になることしか言わないはずだし!」
「……」
「いっつもゴミを見るような目で見てくるし! 律さんと、俺を殺そうとする鳶崎さんだったら、俺に不利になることを言ってくれると思ったんです!!」
貴陽が、ばっと顔を上げる。その瞳に映っている自分はきっと、間抜けヅラをしているだろう。
自暴自棄ではない、この少年は、愚かにも、律から情報を引き出そうとしていたのだ!
周りの人間が嘘を言っているかわからない。だから、律を、逆の意味で信用している。
ーーのは、わかったけれど。
また、疑問が浮かんでしまった。どうして心の内で留めずに、貴陽は口に出してしまったのだろう。口に出さなければ、律は、貴陽の思うまま、裏を返せば有用な情報を喋ってしまうところだったのに。
目を細める。
この少年の考えていることはわからない。父は、少年がどうしてここに来るか、明確な理由を教えてくれなかった。
いくら考えても、律にはわからない。なぜ、この少年は、自分の策を披露してしまうのか。
そんなことしたら、律は、嘘を織り交ぜて話してしまう。貴陽が作った判断基準は瓦解する。
ーーそれは、多原君もわかっているはずだ。
あえてそれを指摘するほど、律は馬鹿ではない。
ーーなるほど、多原君。いや、貴陽君。
君は君なりに、芝ヶ崎の血が流れているんだね。
一方。
ーーちゃんと、録れてるかな?
スマホで起動している音声アプリ。正座している多原は、それを気にしていた。
多原だって、馬鹿なことしてると思う。だけど、長丁場になる交渉内容を全部覚えているのは、多原には無理だ。
だからって、「録音アプリ起動しながら話聞いていいですか」なんて言ったら、もんのすごく舐められる。舐められるどころか、馬鹿とは会話したくないって思われてしまう。
で、所詮はスマホの録音アプリ。カバンの中に入れてしまえば、声はくぐもってしまう。律さんの優雅なお声は多原に聞かせるためだけに抑えられていて、とても録音されるとは思えない。
だからこそ、多原は思った。「そうだ、復唱しよう」と。律さんの言った言葉を自分の中でまとめて、復唱して、録音アプリに録っておこうと。
ということで、多原は、律さんが鳶崎さんの当主の座を奪われると、録音アプリにメモしておいたわけである。あれ、これって復唱じゃなくね? と思うが、後で聞き返して反対の意味にするときに、本当の文脈が掴めてないかもしれない。
話はナマモノである。
ーーつまり、この場で律さんに確認する必要があるな。
ということで、多原は律さんに会った経緯をもう一度、説明することにしたのである。
律さんの言葉は信じられないから、信じられるということ。これで、多原が真逆のことを言っているのにも、納得が行くだろう。多原が人の話を聞いてない宇宙人だとは思われないはずだ。
ーーよし、これで録音ができるぞ!
ーー本当のことを織り交ぜれば良い。だけど、これが貴陽君の罠だとしたら?
律は、疑心暗鬼に陥っていた。
ーー私の言うことが全て嘘だ。そう決めつけることで、私が少しでも、本当のことを喋るのを期待しているとしたら?
一体、律はどうしたら良いのだろう。
「……それで、君の取引は?」
「話を、聞いてくれるんですか?」
結果、律は、逃げた。話は終わりだねと言って、多原を追い出すことはできた。だが、父からの命令は、完膚なきまでに叩き潰すことだ。
律は、貴陽の話を聞くことで、隙を見つけようと考えた。その上で、父の命令を遂行する。
ーー私は、そのくらいはできる。
貴陽の顔が、ぱあっと明るくなる。待ってましたというように。
対して、律の心には、靄ができたようだった。一歩後ずさってしまった自分に。だからこうなんだと、内なる声が囁いた。
貴陽は、両拳を握り、興奮しながら言った。
「名付けて、『私には心に決めた人がいるの作戦』です!! この作戦を手伝ってもらえれば、律さんも当主になれますよ!」
踏んだ。
思いっきり、あらゆる地雷を、多原貴陽は笑顔で踏んだ。靄とか、内なる声が一気に爆風にかき消されていく。
「念の為、訊いておくけど。それは、令が君のことを好きだったという筋書きかな?」
「まっさかぁ! 俺じゃないですよ!」
「却下」
「ってことは、賛成ってことですね! やっ」
「却下だと言ってる」
やっぱり、追い返しとけば良かった。急に襲ってきた頭痛に、律は扇子を手に取ることも忘れて、深い溜め息を吐いた。




