彼女の保険
ちょっと臆病
「ねえ、多原君は、何がほしい?」
「へぇっ!?」
話が唐突過ぎて、多原の中には白川さんの言っていることが、入ってこなかった。
ラブレターを間違って渡してしまった相手、しかも、机の下にいる相手にする話じゃないような気がする。というか、机の下から早く出たい。
「え、ええっと?」
だけど、白川さんは、多原をじっと見つめたまま。それなので、多原は直感で答えた。
「お金、とか?」
「それは、目に見えるお金? 円? ドル? ユーロ? 元? それとも仮想通貨とか? あ、金塊もあるね?」
「えっ、と……普通に、円、かな? ひゃ、百万円くらい」
小学生みたいな答えである。多原がしどろもドロに答えると、白川さんは、鞄から何かを取り出して、何かを書きつけた後に、「はい」と多原に渡した。
「ぴったり百万円」
「ぶーっ!?」
多原は、それから顔を背けて、思いっきり吹き出した。白川さんが多原に渡したのは、小切手と書かれた紙である。いや待て、一生徒の白川さんが、そんなことできるはずがない!
「し、白川さん、そんなことしなくても、俺は誰にも言わないよ。そもそも、白川さんが呼び出したかった相手もわからないのに」
ここで、多原はようやく気付いた。『何がほしい?』というのは、相手に何かを秘密にしてほしい時の常套句だ。この場合、白川さんが、何者かにラブレターを出したことを、秘密にしてほしいのだ。
それで、白川さんは、珍しく焦っているのだ。だから、小切手にみせかけた紙を渡しちゃうのも頷ける。
いつも穏やかで、ほわほわしている白川さんにしては珍しい。多原もまた、穏やかな気持ちになった。
白川さんに、小切手もどきを返す。
「白川さんの恋、実ると良いね」
こんな美少女に恋してもらえるなんて、とんだ幸せ者だ。多原が笑顔で渡した小切手もどきを、なぜか白川さんは。
「白川さん?」
「ううん、何でもない……多原君の言ってくれた言葉が、嬉しすぎて」
白川さんの目の淵には、光るものがあった。
多原は、なんだか申し訳なくなった。まるで、自分が白川さんを泣かせてしまったみたいだ。いや、多原の言葉で泣かせているわけだけど。
白川さんは、なかなか小切手もどきを受け取ろうとしなかった。だが、多原がその姿勢から動かないのを見ると、「多原君らしいね」と言って、受け取ってくれた。
「でも、これは本物の小切手だよ。私はね、多原君。とーっても、お金持ちなんだ」
白川さんは、語ってくれた。
自分は、白川財閥の総帥の一人娘で、多原のことを芝ヶ崎の関係者だと知っている。
「もちろん、今起こっていることもね。ねえ、多原君、私に、島崎君を救うのを、手伝わせてくれないかな?」
白川さんの細い指は、そっと、多原の頬を撫でた。力を入れたら壊れてしまうガラス細工みたいな扱いで、多原はくすぐったい気持ちになった。もっと、万力みたいにしてくれてもいいのに。
「たまたま、ラブレターを入れてしまった縁で。本当に、偶然なんだけど。お詫びに、せっかくだから、多原君の抱えてる問題を、解決させて?」
「白川さん、まさか」
こういう、たまたまとか、偶然とかを強調する構文を、多原は知っている。
これはいわゆるーーツンデレ構文だ。
自分が介入するべきではない問題に首を突っ込むために、わざとキッカケを作って、大義名分にする。
ここでの白川さんの大義名分は、ラブレターなのだ。
理解すると同時に、多原は、自分の頬を張り倒したい気持ちになった。そうだ、うちのクラスの男子はちんちくりんだらけだから(伊勢君は顔は良いけど赤点だし)、白川さんのお眼鏡にかなうわけがない。ていうか、以前、昼休みの時もそう言ってたし。
「どうして早く気付かなかったんだ」
「多原君?」
「……ありがとう、白川さん。俺はーー」
言葉を紡ごうとして、多原の口は、島崎の、あの言葉に塞がれた。
ーー誰も信用するなっていうのは、白川さんも含まれているのか?
白川さんは、まさかの御三家の一角だった。それは、あの葉山林檎さんと一緒ということになる。ある意味で芝ヶ崎の関係者。
「……ふぅん、なるほど」
多原がぐるぐると思考をめぐらせて、めぐらせすぎて脳の耐用年数をぶっちぎっていると、白川さんが、くすりと笑った、声がした。
「多原君は、島崎君に言い含められているの? 誰も信用するなって」
「うっ」
図星すぎて、「うっ」と言うことしかできなかった。
「多原君、かわいい」
そんな多原を、嘲笑うこともせずに。とろけるような笑みで、白川さんは言ってのけた。
「じゃあ、私が裏切った時に、不利になることを言ってあげるね。嘘はつかないよーー」
てん、てん、とサッカーボールが転がってくる。
それは、不機嫌な彼女が、話しながら蹴ったボールである。
カラオケから舞い戻ってきた伊勢隼斗は、彼女……白川芳華に、皮肉げに笑ってやった。
「意中の相手に、他人事みたいに、恋が実ると良いねって言われてどうでしたか? 本気で告白するつもりだったのに、ヘタれた感想は?」
「……うるさい」
芳華の頬が朱に染まっているのは、必ずしも、夕日のせいだけではなかった。
「ま、とにかく。これでオジョウサマは、多原の懐に潜り込めたわけですし、良かったですね? 教室で誰も来ないように、“場所取り”しといた甲斐があるってもんです。その結果がこのザマじゃ、先が思いやられますが」
「貴方の会社と、取引停止にしてあげてもいいけど?」
「冗談、じょーだんですって! やだなーオジョウサマってばもーう! そんなんじゃあ、芝ヶ崎に着いちゃいますよー?」
伊勢がにこにこと笑う。芳華は、半眼になる。
「イセマツヤの創業者一族は、伊勢商人の流れを汲むのに、どうして貴方みたいな人が生まれたのかしら」
「それは俺の台詞ですよ。わざと怒らせようとしてる時点で、俺と同じ穴の狢です。白川の母体は、近江商人の流れを汲むのに、どうしてあんたみたいな人が生まれたのか」
「決まってるじゃない、多原君に会うためよ」
「自分の存在意義を他人に依存してる奴をなんて言うか知ってます? メンヘラっていうんですよ」
「取引」
「すんません」
心のない反省の言葉を受け取って、芳華はふう、と息を吐いた。
「貴方の存在を多原君に話した以上、貴方もこの茶番に巻き込むから、覚悟してね」
「おっと、芝ヶ崎格を茶番扱いですか」
「ええ、こんなのは茶番よ。だって、島崎昢弥と、芝ヶ崎格の妥協点を引き出せば良いだけなんだから」
「簡単に言ってくれますね」
「簡単だから言ってるの。私が見据えているのは、むずかしいと思っていることは、ただひとつ」
多原貴陽の愛を、勝ち取ることだけだから。
とまあ、多原は意図せずして、というか、完全に白川さんの善意で、味方を得たわけである。
ーーでも、良いのかな白川さん。あんなこと教えて。
それは、白川財閥の人事に関する話だ。近く断行される人事の情報を、しかるべき筋(多原にはそれがわからないが、父あたりに聞けばわかるそうだ)にリークすれば、株価の操作も可能。それこそ、何十億という金が動く。
そんなふうに、ぼうっとしている中で。
「今日は、島崎のせがれと一緒ではないのか?」
多原は、花蕊さんと出会ったのだ。




