あの子の代わりはいないから
これよりうってつけの人物はいないなと、樫屋は心の中で呟いた。
鳶崎巳嗣。
いかな多原くんでも、嫌悪せざるをえない人物。
多原の幼馴染でもある令と強引な結婚に踏み切ろうとし、かつ、親友である島崎と敵対している。
そんな厄介な存在を、こちらに寄越したのである、芝ヶ崎格は!
「私が、楢崎マネジに出資したことをご存知でしょう?」
巳嗣を通した客間で。汗一つ浮かべずに、優しく諭すように言う林檎。そう。答えは決まっている。
樫屋は、コーヒーを巳嗣の前のテーブルに置いた。
ーーいま、鳶崎巳嗣の会社に出資すれば、確実に多原くんに嫌われる。ただでさえ島崎を嵌めた疑惑が出ているのに、嫌われる要素を増やしたくないというのが、お嬢様の考えだろうな。
コーヒーの液面には、揺らぐことのない巳嗣の表情が映っていた。
「もちろん、存じていますよ。医療の発展を願って、出資されたんですよね?」
「ええ、よくご存知で」
それは密会の場で、楢崎だけに話したことだ。それなのに巳嗣が知っているということは……
ーー鳶崎だけじゃなくて、楢崎も芝ヶ崎格と繋がっている、ってことだ。
なるほど、対立する二人を掌握しておけば、展開なんてどうとでもなる。楢崎と手を組んだ時点で、鳶崎と手を組む道は消えたも同然だが、この二人が水面下で間接的につながっているとなると、話は別だ。
「それならば」
鳶崎巳嗣は、先の展望も見えていない阿呆だが、何かを演じるのはめっぽう上手い。秀麗なご尊顔に影を落として、ぽつりと呟く。
「私は、ナギサメディカルを切り捨てるしかありません。次の医療系企業を見繕って、買収するだけです」
「……貴方にとって、ナギサメディカルは駒でしかありませんか?」
「ええ。数ある企業の一つでしかありません」
「そうですか」
なぜか、林檎の声のトーンが下がって。
「ですが、貴方にとっては違うのでしょう?」
なぜか、林檎の眉が、ピクリと動く。微々たる反応を見逃さず、巳嗣が畳み掛ける。
「“欲深い林檎ちゃんは、ナギサメディカルを切り捨てることはできない”」
明らかに口調が変わった。たっぷりと蔑みを込めた表情で、鳶崎は笑ったのだ。
「ナギサメディカルは、廃業手続をとります。事業継続はしません。これでおしまいです」
「今から、楢崎マネジに勝てる会社を探すおつもりですか?」
「中小企業だったナギサメディカルの大躍進を見せられて、他の企業も奮い立っています。我が社の物流能力を欲する声は止まりません。ナギサメディカルの代わりは、いくらでもいます」
鳶崎の言っていることは、意味のないことに思えた。なにせ、林檎お嬢様は、ナギサも楢崎も切り捨てる気でいるからだ。
医療業界を寡占している癌。それが、ナギサと楢崎であるはずだが……。
ーーなんだか、あっちがリードしてる気がするんだよなぁ。
林檎が首を縦に振るわけはない。それはまったく、意味がないことなんだから。
嫌な予感を覚えつつ、樫屋が見守る中で。
「……わかりました、出資をしましょう」
林檎は、首を縦に振ったのだ。
「どうして鳶崎に出資の約束をしてしまったんですか? ナギサメディカルがなくなることは、お嬢様にとっても本望でしょう?」
「……そう、近しい貴方は騙せていたのに」
「騙せていた?」
「私は、ナギサメディカルも、楢崎マネジも、廃業に追い込むことは望んでいません」
「え、マジっすか?」
樫屋は驚いた。すでに鳶崎は退室しているので、優秀な執事の振りが若干できなくなっている。
「俺はてっきり、業界の癌である二社を叩き潰したいのかと」
そのために、楢崎マネジに出資して争いを過激化させ、二社を共倒れにさせるつもりだと思っていたのに。
「そう見えるように動いていたのですが、まだまだ修行が足りないようです。私の動向を完全に読まれましたね」
林檎は肩をすくめた。
「今のナギサと楢崎は、たしかに業界の癌です。貴方の言う通り、二社を叩き潰して新たな芽を芽吹かせることも、私は考えました。未来の、医療のために」
「ああー」
このお嬢様に仕えて長い樫屋は、その言い方に、頬を緩ませた。
「お嬢様は、今の医療を考えておられるのですね。今現在、ナギサと楢崎の製品に救われている患者のことを」
「ええ、事業売却せざるを得ない状況へと導き、私の管理下に置くつもりでした」
樫屋は、林檎が今の医療を殺してでも、今の患者を殺してでも、未来の医療を優先するのだと思っていたが、どうやら違ったようだ。
芝ヶ崎格に心の内を読まれ、出資の約束をしてしまったことは痛いが、樫屋としては安堵した。
思ったより、お嬢様は呪いに囚われていないらし……、
「多原様には嫌われてしまいますが。私は、あの子との約束を守るためなら、どんなことでもしてみせます」
再び、嫌な予感が樫屋の身を包んだ。指先が痺れ、交感神経が異様に働きを見せた。
そうだ、鳶崎に味方するということはすなわち。
「それが、私の優先順位です」
茨が林檎に巻き付いている。ゆっくりと、喉元に這い上がってくる、ように見えた。少しの苦しさも見せずに、林檎は、目を細めた。
「あの子の代わりはいないから、ナギサメディカルの代わりはない。ね、そうでしょ?」
樫屋は、答えることができなかった。
「よろしいのですか、旦那様。今なら、出資を取り下げることも……」
「林檎が決めたのだろう、私に口出しする権利はないよ」
どうしてこの人は、こんなにも穏やかな目をしていられるのだろう。自分の娘が、ゆっくりと壊れていっているというのに。
拾ってもらった恩はある。だが、樫屋はどうしても、言わざるを得なかった。
「林檎お嬢様が、せっかく縋れるものを見つけたのに、それを、自ら手放そうとしているんですよ……! 貴方は、それで良いんですか?」
「? 林檎は、手放そうとしてはいないだろう? 多原君を、二番目に置いているだけだ」
「は」
口を開けた樫屋に、娘譲りの穏やかな笑みで、旦那様は笑った。
「まだ“嫌われる”と思っている内は、大丈夫さ。林檎の中に、彼は存在するんだから」
不思議なことを言って、旦那様は寝室に行ってしまった。
一人残された樫屋は、後方に向かってつぶやいた。
「お前、意味わかる?」
「さあ、私にはわかりません」
葉村の返事に、「だよなあ」と樫屋は天井を仰いだ。
ということで、無事に負けヒロインその一が誕生したわけだ。気分が良い。
「軟禁されてるのに随分ご機嫌だね? ていうか、また動画見てるし……この現代っ子が、外に出て遊ばないか」
「前半と後半で矛盾してますよ楢崎サン。俺を外で遊ばせたいなら、監視を解いてくださいよ」
「それはできない」
「でしょ。よって俺は動画を見ます」
「ぐぬぬ」
だいたい、この男の扱い方もわかってきた。厄介な英雄症候群さえ出なければ、この男は平凡も平凡。島崎がかるーく手玉にとれるレベル。
「あっ、格さんに邪魔な葉山を落としてくれてありがとうございますって伝えておいてもらっていいですか? いやー、勝手に争ってくれてマジ感謝っす!」
「キミ、良い性格してるよね……あの人が勝ったら、多原君が地獄に落ちてしまうのに、羨ましい」
「願望漏れてんぞ。んで? 次は誰にするんです?」
「教えるわけ無いだろうそんなこと!」
「俺の予想だとーー」
かしゃかしゃと、クリームをかき混ぜる心地良い音を聞きながら。島崎は青くなっていく楢崎の顔を見て、「当たりか」と呟いた。
「さぁて、どうしよっかな〜?」
たとえるなら、デートに着て行く服を選ぶような口調で。学校帰りで制服姿の彼女は、よく研がれた鋸の刃を、彼の首筋にひたりと当てた。
「昔のよしみだから優しくしてあげる。死に方を選んで良いよ……ねぇ、茎沢ぁ」




