ネットリテラシーの敗北
月次決算の報告書を、巳嗣は何度も何度も、それこそ、穴が空くまで見た。
「まさかひと月で、楢崎マネジを抜いてしまうとは……!」
楢崎マネジの売上高は既にホームページに出されている。売上高は急降下。巳嗣が買収したナギサメディカルに顧客を取られ、苦戦を強いられている状況である。
もちろん、この月だけで楢崎マネジが倒産することはない。
あの葉山が楢崎に出資したせいで、楢崎は死の淵から遠ざかった。だが、確かに、風はこちらに吹いている。楢崎の死は、半年後か、数ヶ月後か。
興奮と期待で、唇を噛み締める巳嗣の肩に、ぬるりと、蛇のように腕が回った。
「おめでとうございます、巳嗣様」
「……ふん、当然の結果だ」
巳嗣は、その腕を振り払うことをしなかった。
「少し早いが、式には、あの愚民も招待してやろう。会場の隅で縮こまっているあの愚民を見るのも良し、式に行かないで家に閉じ籠るのなら、力ずくで引き摺り出してやる」
巳嗣は、喉の奥で笑った。普段から、巳嗣に対してへりくだり卑しい表情しか見せない男が、大切なものを奪われたときにどんな顔を見せるのか。それが、楽しみで仕方ない。
脳裏に蘇るのは、令と手を繋いでいる姿。父親が突然変異をしただけの、下位を這いずるのがお似合いのあの男が、その手を握ることなど、許されるはずがない。
「……これで、元通りですわね」
「ああ、これで、元通りだ……全ては、私のもの。“優しい姉”も、“芝ヶ崎の頂点の座”も、全て私の……」
陶酔する巳嗣は、やはり気付かない。肩に回された腕が、ある単語を口にしたときに、微かに動いたことを。
彼は、気付かなかったのだ。
一方、多原は、すごいことに気付いていた。
「この人、助けを求めてる……!」
例の味噌汁動画からこっち、陰謀論なんてないんだということに気付いた。だが、誘拐事件は三回(そのうち一回は自分)起こるし、怪しいと思っていた蔵では作戦会議が開かれているし、あと親友がなんかすごい奴だったし、宇宙人はいないにしても、ちょっとした裏の世界というものはあるんじゃないだろうか、というのが最近の感想である。これは死者蘇生も近い間違いない。
まあそんなことは置いておいて、多原は今、何者かからのメッセージを受け取っていた。
きっかけは、ユーツーブの動画である。なんの変哲もない料理動画には、毎回その人からのコメントがついている。たとえば、多原が今視聴している動画にはこうだ。
『沢山 素敵なものを作れて羨ましい 軽量スプーンは 手作りですか?』
不自然な空白。内容に添いながらもよくわからない後半の文章。この空白を、いわゆる縦読み文化的なものだと捉えて、文章をひらがなに直すと、「たすけて」になるのである。
だが、この動画は残念ながら、視聴回数が二桁。ASMRだと結構人気が出そうなものなのに、あまりにも見られないものだから、皆、この文章の不自然さに気付いていないのである。
ということで、多原は使命感に燃えていた。一所懸命、文章を考えた。返信すると怪しまれるから、多原は多原でコメントすることにする。この動画をアップロードしてくれてる人には申し訳ない。
よし、とりあえず「だいじょうぶ?」って送ろう。
『大好きです いろんなものを 自由に ょういできるなんて うん ぶどうおいしそう?』
クソみたいな文ができてしまった。ょういってなんだよ。うんって何に対してだよ。
多原が自問自答していると。
「あ!」
思わず声を上げてしまったのは、多原のコメントに反応がきたからだ。それは、すぐ上の、たすけてコメントの人だった。この人もまた、多原と同じ時間に動画を見ているんだろうか?
『何その馬鹿な文章』
アンチコメントである。多原は衝撃を受けた。なんかこう、猫が突然喋り出したみたいな、そんな衝撃である。
だが待てよ、と、多原の灰色の脳細胞が囁いた。
ーーこの人は、わざと悪態をついてるのでは?
誘拐経験者から言わせてもらうと、誘拐されているところでSNSとか、ユーツーブ動画を見るのは難しい。というか許してくれない、無理。
だとすると、この人物はある程度の自由を与えられた人物ということになる。だが、どうしてある程度の自由を与えられているかということを考えると、行き着く先は、監視されているのでは? という結論である。
ーーだから、俺に悪態をつくしかない。反応をしたのは、俺の推理があってることを知らせるため。
多原は試しに、またアホみたいな文章を送ってみた。あんまりアホな文章を送っていると、動画にコメントできなくなるかもしれない。
「えっと、“ゆうかい”」
『油断して うっかり 書いてしまいました いけない?』
スマホは沈黙。だが、少しして、またコメントが来る。
『知識 が 失われてんな』
煽りである。多原は、何かこの人に悪いことでもしたんだろうか。
「じゃなくて!!」
ベッドの上で多原は叫んだ。ちなみに今は寝る前である。簡潔な罵倒は、しっかり空白で区切られていて、それをさっきの要領で読むと「ちがう」になる。誘拐じゃないってことだ。
だが、相手は助けを求めている。動画は見れるけど、監視されてる状態なのだ。
『ていうか』
そのコメントが来たのは、しばらく経ってからだった。解読した多原は、目を見開いた。
「夜ふかしは美容の大敵ですよ、お嬢様」
「ええ、わかっています。少しだけ、少しだけ多原様を愛でたら寝ますから」
橿屋の敬愛するお嬢様は、いま、非常に残念なことになっていた。
「まさに私と貴方は、運命に引き裂かれた恋人同士です」
引き伸ばされたポスターに手を当て、頬をくっつける。美少女といえど、素直にドン引きする光景である。
「島崎という男は狡猾です。私に多原様の写真を提供する一方、私を多原様から遠ざける計画を練っていた。きっと今は、自分の逆境を利用して、多原様にこう言っているに違いありません。“俺は、楢崎と葉山林檎に嵌められた”と!」
「あぁー、言ってそう……あ、すみません」
下手なことを口走ったばかりに、ぎ、と林檎に睨まれる橿屋。フォローに回る。
「だけど、そうそう多原君は疑うことを覚えそうにないですよ。この前だって、漆崎神社の巫女に会いに行ったそうじゃないですか」
お前、警戒心どこに置いてきてんの? と、少々心配になるくらいの行動である。当然島崎は多原に誰も信用するなくらいは言い含めているだろう。だが、ありもしない狂言誘拐を信じてしまうバ、純粋な多原に、疑うということは難しいのではないか。
「そ、そうですよね、私としたことが、多原様の愛を疑ってしまいました。反省しなければ」
「うーん拡大解釈」
またもや睨まれる橿屋である。とはいっても、橿屋は林檎にとっての多原を痛いほどにわかっているので、今のは自分の失言だと反省した。
お嬢様の玉のような肌が失われてはならないと、先ほどよりも強いフォローをする。
「大丈夫ですよお嬢様! 島崎を嵌めたなんて証拠はどこにもないし、実際に嵌めているのはあの男ですし! そんな表に出せない根拠で、お嬢様が嫌われるなんてことはありません!」
ーーだからって、表に出せる根拠を強引に作り出そうとするのは反則だろ!
目の前の男を見て、橿屋は顔を手のひらで覆いたくなった。男は、恭しく林檎に頭を下げた。
「聡明なる葉山のご令嬢には、ぜひ、医療の発展のために」
顔を上げる。橿屋にはなんだか、それが、糸で繋がっている人形の動きに見えた。
「我が鳶崎物商に出資していただきたい」




