楢崎肇の正体
かつて、芝ヶ崎格が起こしたとある事件。起こそうとしたとある事件。その起点となった演説がある。
古びたカセットテープは、彼を信奉する人間達によって、何度も何度も何度も何度も聞かれたことですり減っていた。だから、島崎の手に渡った時には、演説の全文は聞くことができず、途切れ途切れとなっていた。
『なんだ、これ……』
それでも。島崎の脳内は、欠けた言葉を補って、演説の全てを理解することができていた。いや、理解させられていたのである。
パズルのピースを一つなくしても、周りにあるピースさえわかっていれば、なくしたピースがどんな形をしていたかわかるように。芝ヶ崎格は、この演説が未来でも聞かれることを確信しているかのように、たとえテープがすり減っても完全な形を保つ演説を完成させていたのである。
聞く者の心を文字通り捕らえ、意のままに操ろうとする演説。それを途中まで聞いて、あまりの禍々しさに再生停止ボタンを押した島崎は、しばらく口元を抑え、心拍数が落ち着くのを待った。
嫌な汗がこめかみと背筋を伝った。異常に動いていた心臓のポンプが、今度は反対に遅くなっていき、次に襲ってきたのは寒気だった。
震える唇で、島崎は、自分を安心させる言葉を呟いた。
『…………こいつが死んでてよかった』
楢崎肇の演説は、芝ヶ崎格のそれに程遠い。
だが、島崎に、あのカセットテープの音声を思い出させるくらいには、完成度が高められていた。
「……隠居は気楽だ。あたふたするのは若者ばかり」
言うだけ言った楢崎は、それまでの陶然とした虚ろな瞳に色を取り戻し、深い深い溜め息を吐いた。
「そうは思わないかい、島崎君」
呼び方が元に戻っている。皮肉げな笑みは浮かべたまま、楢崎は、緩くうねる前髪をかき分けて。
「私があの男に協力する気になったのはね、単に君が気に入らないからだよ。よくもまあ、変な噂を流してくれたものだね」
「ちょうどいい当て馬がいたもので」
「言ってくれる」
事実である。
楢崎は、鳶崎どころか本家を食おうとする野心家で、敵も多い。これが人望のある家だったら考えものだが、楢崎が噛ませになったところで悲しむ人間など一人もいない(島崎の知ってる約一名を除く)。
だから、彼はうってつけだった。ちょうどいい愚かさ、とでも言おうか。悲劇の主役になるのに、違和感がない男だったのである。
誤算は、芝ヶ崎格が生きていて、彼自身が、なぜか芝ヶ崎を潰そうとしていること。
島崎には、あの演説の主が何を考えているかわからない。自覚がある。到底彼には及ばない。
だが、及ばずながら考えるとするならば、次に楢崎が言う言葉はーー、
「だから、私は彼の言う通りに君を巻き込むことにした。机上の空論を実践に移せば、芝ヶ崎本家もひっくり返せるかもしれないよ」
これである。芝ヶ崎格は、多原から島崎を引き離して、孤立させようとしている。多原に余計なことを吹き込む島崎を排除したいのだ。そのために、島崎と同じようなことをしている。楢崎を捨て駒にしようとしている。
「失敗したら、アンタも死にますよ」
「わかっているよ。だが、私は死なない」
「随分な自信ですね」
「ああ、この場合の死なないというのは、生命のことではないからね」
楢崎は肩をすくめた。
「恐ろしいことに、我が楢崎マネジにも、彼の信者は潜り込んでいるらしい。会社で部下に殺されそうになったことなんて初めてだよ。拳銃を頭に突きつけられて、部下の持っているスマホの向こうの男と話をさせられるんだ。私があの男の演説を聞きに行ったのは小学校の頃だったな、両親に連れられて行ったんだが、耳にこびりついて離れてくれない、大切な思い出だから、すぐにわかった。ああ、生きてたんだな、とね。奴が本気を出せば、私なんてすぐに海の藻屑と消えるだろう」
「じゃあ、死なない、というのは」
「勿論、名誉のことに決まってるだろう?」
楢崎の瞳が、異常に輝きを放った。
「私が殺されても、楢崎の名前には傷ひとつつけられない。芝ヶ崎格は私を愚か者にしたいようだが、私は純然たる被害者として死に、正義に生きた者として死ぬ気だよ」
「ああ、なるほど」
呆れのような、感心のような。そんな感情が、島崎を包み込んだ。コイツも俺と同じか。
芝ヶ崎格は、表に出てくることはない。彼を引っ張りだすことは至難の業だ。だが、楢崎には明確な悪役が必要だ。それは、鳶崎では力不足で説得力に欠ける。そんな時、ちょうどいい島崎が自分を嵌めようとしてくれた、というわけだ。
悲劇の英雄症候群。それが、楢崎肇の正体である。
「だから、葉山のお嬢様には低姿勢だったわけですか」
「その通り。私が怖いのは、殺されることでも何でもなく、楢崎マネジの外聞が悪くなること。葉山は潔癖だ。出資してもらうなら、あそこが良い」
時折、財界の人間がぼやくことがある。「葉山は愚直で困る」と。その捻じ曲げられない愚直さを、楢崎は利用しようとしているのだ。
「悪役になるのは俺一人ですか」
「勿論。短い間だけど、これからよろしく。島崎君」
自分から死を望む人間は厄介だ。
島崎は、多原と見たブレーキ痕を思い浮かべた。それが、そうであることを知った上ではしゃいでいた報いだろうか。そのまま電柱にぶつかってれば良かったのにと思ったことへの報いだろうか。多原の注意が耳に蘇って、島崎は、ふっと笑った。
ーーやっぱり、人が死にそうになったことをげらげら笑うんじゃなかったな。
楢崎がそうと決めたからには、島崎の立場は危うくなる。楢崎は死を恐れ名誉を傷つけられることを恐れているが、島崎は逆だ。
高校生活を長く生きたいし、名誉なんてどうでも良い。ここで断って殺されたのでは、あの親友を悲しませてしまう。自惚れではなく。
差し出された手を、島崎は強く掴んだ。
「愛だの共犯だの罪悪感だの。それこそ机上の空論を言ってる奴に、アイツをどうにかできるとは思えませんけどね」
そのようなわけで、島崎は、楢崎さんちと正式に組んじゃったらしい。
『当てが外れた。絶対接触してこないと思ってたのに、トビサキサン級の馬鹿だな』
島崎は苦笑しているが、多原は気が気ではなかった。島崎は、自分が流した噂で、もともと本家から楢崎さん共々睨まれていた。それが、今回噂が本当だとわかってしまったので、ますます危ない立場になってしまったのである。
「楢崎さんは、林檎さんが怖くないのか?」
島崎は、葉山林檎さんと協力関係にある。せっかくとりつけた出資話も、台無しになってしまうかもしれないのに。
『怖いと思うぜ。だけど、あのお嬢様を黙らす術を知ってる。まあ、俺がしくっただけだけど』
「しくった?」
『そう。俺はしくったんだ。もうちょっと慎重になるべきだった……いや、もしかしたら、これは仕組まれていたことなのかもしれないな。あの葉山のお嬢さんに』
「林檎さんが、お前を嵌めたってことか?」
『ああそうだ、気をつけろよ多原。こっから先は、誰も信用するな』
「……」
多原は、どう返事していいか迷った。葉村さんを守ってくれた、あの優しい女の子が、自分の親友を嵌めた可能性は考えたくない。
それでも、島崎は言うのだ。信じるな、と。
「どうしてそんなことを言うんだ?」
『俺たちが、親友だからだよ』
最後の悪あがきはした。
暗くなったスマホの画面。そこには、しょぼい顔をした自分が映り込んでいる。
葉山林檎が島崎を嵌めたというのは嘘。いや、あのお嬢様だったらやり兼ねないが、こうして釘を刺しておくことで、葉山林檎への不信感を煽っておくのである。
「友達思いなことだね」
会話の一部始終を聞いていた楢崎が、思ってもないことを言う。
「芝ヶ崎格の存在を知らせることができないこと、自分の立場が危うくなったことすら利用するなんて、さすがは島崎だ」
「いちいち家を絡めないと会話できないんですか、この名誉厨が」
「それの何が悪い」
開き直る楢崎に、島崎は半眼になった。
芝ヶ崎格の演説。その弁舌に近しいことをやってのけた、案外油断ならない男は歌うように言った。
「良いのかな? 葉山を封じたところで、別の女の子が彼を助けるだけだと思うけど」
「でしょうね」
だからこそ、彼女たちは、芝ヶ崎格への切り札になる。自分の娘と多原を最悪の形でくっつけたい彼と、彼女たちの利害は、絶望的なまでに一致しない。
ーーだから、争ってもらう。
ラブコメで言うなら、負けヒロインだ。芝ヶ崎格と女どもをぶつけて、負けヒロインを量産しまくってやる。




