愛につける重石
ギンガムチェックのコックコートは青色で、首元には真っ白なスカーフ、腰には紺色のエプロン。
無難な感じの制服を着た少女は、しかし、店にいる全ての人間の目を奪っていた。
「お待たせいたしました」
少女が運んでくるのは料理や飲み物だけではない。人々は、この女神の化身と言える少女から、一足早い、早すぎる春を感じていた。
少女の口から発せられるのは、柔らかな音階。一流のピアニストが自ら調律し、苦心してやっと辿り着いたかのような、人々を癒し賜う声である。
春の日差しで微睡むような表情を浮かべた人々は、彼女の名前を知らなかった。
ただひとつだけ。彼女の胸元には、ネームプレートがついている。
その滑らかなプラスチックの表面には、“白川”と刻まれていた。
ーーまあ、悪くはないかな。
島崎は、前を歩く多原の背中を見てそう思っていた。友達と一緒に帰るのは、悪くない。というか、生来の天邪鬼さを追っ払って言うならば、超楽しい。
昨日はブレーキ痕にテンション上がってはしゃいでしまったので、今日はいくぶんか落ち着いた態度を心がけようと思う島崎である。
「でさぁ、木通しをんちゃんがさぁ」
多原が今ご機嫌で話しているのは、ユーツーバー木通しをんである。
主に雑学や人生相談を動画にしているユーツーバーで、再生回数から言ったら中堅くらいの地位にいる。正直言って、話はあまり面白くないが、目を見張るのはその技術。
ピンク色の髪のキャラをアバターとしているが、それがぬるぬる動く。一切固まることがなく、不快感を感じさせない自然な動きをする。まるで、一人の人間の動きを模倣してくっつけたみたいに。
それゆえに、ユーツーバー木通しをんは、個人勢ではなく企業勢ではないかとまことしやかに囁かれているが、本人は個人勢と言ってままならない。
動画を投稿する時間は、決まって〇時。生放送などはしない。話す内容からして学生のようだが、彼女は『魔法をかけてもらっている』設定なので、いくぶんか虚飾を交えているらしい。
島崎が伝手をたどって正体を探ろうとしても、木通しをんどころか、候補すら見つからない。ガラスの靴は、未だに履かれないままである。
どうして島崎が、そんな電脳シンデレラの正体を探るという、野暮なことをしているか。それはもちろん、目の前を歩く友人のためである。
味噌汁のお椀動くの宇宙人の陰謀説を信じきってしまう多原自身もそうだが、危険なのは、木通しをんの方だ。
バーナム効果という言葉がある。多数の人に当てはまることを言われても、「これ自分のことだ!」と思ってしまう現象で、占いの導入などで、しばしば使われる。
多原は言っていた。『なんか、俺に向けて動画作ってくれてるみたいで、励まされたんだよな』と。木通しをんは恩人なのだとも。
島崎も、それを聞いた時は、この前の盗聴相手の茎沢と同じく(たぶん茎沢を乗り切れたのは多原がアホという認識があったからだ)多原だからな、で済まそうとしたのだが。
いざ自宅に帰って動画のサムネイルを見た時、島崎の背筋は冷えた。
『幼馴染と疎遠になってしまった時』『子離れしない父親との付き合い方』『悪口を言ってくる人達を見返す方法』
人生相談のカテゴリには、明らかに、多原を狙い撃ちしたサムネが踊っていたのである。動画内容はゲロ甘。包み込むように、堕落させるように。他の動画は塩対応なことが多いのに、そこだけ甘いものだからわかりやすい。
全肯定してくるしをんの言葉は、不安定な多原をずぶずぶと沼に引き摺り込んだことだろう。
魔法をかけてもらってユーツーバーになった木通しをんもまた、多原という少年に魔法をかけて、見事に自分の虜にしてしまったわけである。
……木通しをんは、自身の作る動画によって、多原を支配しようとしている。
突拍子もない話で、それこそ笑い飛ばしたくなるような話だが、島崎はこれが正解なのではないかと思っている。
同時。
並行して進めているあのことにも、彼女が関わっているのではないかと考えている。
ーーなんとかして木通しをんの正体を掴みたい、が、手立てが無いんだよな。
さてどうするか。いっそメールでも送って正体でも訊いてみようか。
島崎がやけくそ気味に考えていた、その時である。
「あ」
不意に、振り向いた多原が立ち止まり、島崎も立ち止まった。
「誰か来る」
「随分と仲が良いんだね」
皮肉たっぷりに虚ろな目で二人を見下ろしてくるのは、髪をセンターパートにし、グレースーツを着た若い男。島崎は心の中で舌打ちした。
ーーコイツ、もっと賢いと思ってたのに。
生気のない表情で、男は多原に笑いかけた。
「多原君。島崎君と仲良くしてたら、君まで本家に敵意ありと、疑われてしまうよ? この、私のように」
「ええと?」
多原が首を傾げる。それはそうだ、この男は、滅多に本家に来ないから。
「楢崎マネジの社長さんだよ」
葉山林檎がオトした男で、ナギサメディカルをぶっ潰すためだけに持ち上げられた会社の男。の、はず。楢崎は頷いて、肩をすくめた。
「そう。最近、島崎君と悪いことを画策していると噂を立てられていてね。困っているんだ」
「困っているなら、会いに来ることは悪手では? 俺と接触しなければ、そんな根も葉もない噂、勝手に消えてくでしょう」
そう。島崎は、楢崎がこちらに接触してくることなど無いと思っていた。そんなことをすれば、噂を補強してしまう。楢崎にそんな気がないとしても。
だが、現状はどうだ。
ーー楢崎はもともとの野心も見抜かれてるから四面楚歌。火だるまになって抱きついて、俺も燃やそうって寸法か?
だが、四面楚歌といえども、葉山林檎の出資は受けている。最終的に自分が勝つことも教えられているのだから、自棄になることもない。
ーー葉山林檎の差し金か? いや……。
わざわざ、島崎を目立たせるメリットが彼女にはない。島崎が目立てば目立つほど、林檎もまた、動きづらくなるのだから。
ーーてことは、第三者。
林檎に探らされていた派閥のことを思い出す。だが、ここで楢崎を動かしてくる意味は? それをしたとして、その第三者には……芝ヶ崎格には、どんなメリットがある?
……足りない。
情報が。圧倒的に。
楽しい下校を邪魔されたこと。島崎たる自分が知らない情報があること。それらに不快感を覚えた島崎は、楢崎を睨みつけた。楢崎は、吐き気のするようなゆったりとした笑みで、島崎に微笑みかけた。多原のことを横目で見ながら。
「“聞かれてもいいのかな”」
「“昢弥君がしようとしていることはわかっているよ。君は、自身の協力者さえも裏切るつもりだってこと”」
多原を帰らせた後、島崎は一人、楢崎と向かい合っていた。
「“君は貴陽君の存在を知らせないためなら、葉山でも楢崎でも差し出すつもりなんだね。だからこそ、今回、楢崎と島崎の反乱なんてものをでっちあげた。そして、葉山のお嬢さんに楢崎の支援をするようにさせ、楢崎と葉山、楢崎と島崎の糸を作り上げたんだ。あたかも葉山林檎が、全ての糸を引いているように見せかけるために。君の目的を悟らせないために、君は、自分がスパイであることをも利用した”」
自分のことを楢崎という男はきっと、誰かの言葉を言わされている。その誰かなんて、言うまでもない。島崎は口を開きかけて、盛大にため息を吐いた。
「その通りですよ。ぶっちゃけ、俺は葉山林檎に多原をやる気はない。間接的にではあるんですが、打つ手打つ手を考えると、あの女はやばいってひしひし感じてますからね。多原はフツーの奴です。あんなやばい女のモノになったら、ストレスで死ぬでしょうね。だから黒幕になってもらって、俺ごと多原から引き離そうと思ったのに」
「“自分がスパイであることを明かしたのも、葉村の一件があってから?”」
「……ああ、それもわかってるんすね。アンタの元部下を口実にして、多原を自分の巣に誘き寄せようとしてたから、その口実を潰してやろうと思ったんですよ」
わざわざ多原が葉山邸に出向くことがないように。自分が芝ヶ崎であることを明かしたのも同様。
「で? 俺のやろうとしていることを邪魔して、アンタは何がしたいんですか?」
「“それは勿論。君が過保護すぎて、令の邪魔をしているから、お灸を据えにね”」
「……」
島崎は、正直驚いていた。この男から、娘の名前が出るとは。
楢崎は、両手を広げた。まるで、舞台役者のように。
「“愛とは綿毛のようなものだ。儚くて、吹けばすぐに飛んでいってしまう。そんな不確定なものには、重石をつけなければならない。さて、それにはどんな重石が良いと思う? どんな重石をつければ、あの優しい優しい貴陽君は逃げられなくなると思う?”」
「……まさか」
「“そう、共犯関係だよ! 令と貴陽君を結びつけるものは、人を追い詰め殺してしまったという罪悪感だ!”」




