呪いをかけられたお姫様
素敵な方便だと、楢崎は思った。あの葉山林檎が、そんな慈善を口にするとは。
「……貴方のお考えは、私では遠く及ばないところにあるのでしょう」
「? 私は本当に、医療を発展させたいだけなのですが」
目を瞬いて、葉山林檎は、まっすぐに楢崎を見た。にこりと笑いかける。
「楢崎マネジがここで潰れるのは勿体無いことです。日本全国に販路を持ち、物流能力も上位に入る。最近は、同じく医療機器を卸すナギサメディカルに圧迫されているようですが、質という観点で言えば、あなた方の会社が勝っているでしょう」
「失礼ですが、ナギサメディカルの製品も、質では負けていないと思われますが」
ライバルのナギサメディカルを持ち上げることは言いたくないが、それは事実だった。
楢崎は、林檎の真意を知りたかった。美味しそうにシフォンケーキを食べる彼女が、楢崎マネジを潰さないとは限らない。それに、と、楢崎は背後を見て、少し顔を引き攣らせた後、林檎の方に向き直った。
芝ヶ崎と葉山は対立している。芝ヶ崎に属する楢崎を、葉山の本家が助けるという不自然さが、楢崎を慎重にさせていた。
確証が欲しい。まったくの善意じゃなくて良い。どうしてこの女が、葉山の女が、我が社に出資してくれることになったのか、納得できる理由が。
楢崎は、店員が運んできたコーヒーを一口飲んだ。味がしない。極限まで高められた緊張感によって味覚が麻痺しているのだ。もしくは、脳が味を重要と判断していない。
仕方なくコーヒーカップを置いて、楢崎は言葉を続けた。
「ナギサメディカルは、医療機器メーカーから出発し、今は自社製品と他社の製品を医療機関に卸しています。彼らの強みは、メーカー一本時代からの独自の販路、および、メーカーであったからこその商品選定能力です。けっして、質が低いとは言えないと思われますが」
「冷静な観察能力、お見事です。芝ヶ崎に置いておくには勿体無い」
両手の指を合わせて、林檎は楢崎を褒めてくれたが、楢崎は生きた心地がしなかった。それこそ、蛇に睨まれた蛙のようである。
林檎の言葉からは、芝ヶ崎への敵意を感じられた。
「確かに、ナギサメディカルの商品は、楢崎マネジと同じくらいに高品質でした。ですが、今は違う。鳶崎という大組織に組み込まれたことで、販路という強みは生かせていますが、商品選定能力は鈍ったと言えるでしょう」
「ナギサメディカルに足りなかったのは、物流能力。いくら良い製品を作り、流したとして、小企業がやれることには限界がある。それが、大手の鳶崎物商に買収されたことで、物流能力を手に入れた……」
「それこそが仇。会社に見合わない物流能力を手に入れたところで、ナギサメディカルの製産能力が上がるわけもなし、商品選定をする時間が伸びるわけもありません。これまで通りのやり方でやっていたら、物流能力を遊ばせてしまう。だから鳶崎は、ナギサメディカルに質を落とすように指示しているはずです」
馬鹿な話だ。質を売りとするナギサメディカルに、質を落とせだなんて。
「今のところは、ナギサメディカルが築いてきた信用と、鳶崎の物流能力の両方。誰も手が出せない特殊な販路と鳶崎独自の販路が功を奏し、安く仕入れ安く売ることが可能になっています。楢崎マネジと契約を切り、ナギサメディカルに製品を卸してもらう医療機関も出始めましたね。ですが、それは長くは続かないでしょう」
まるで予言者のように、林檎は言う。
「こんな脆弱でその場しのぎな絡繰は、近いうちに壊れてしまいます。ですが、近いうちというのは良くありません。ナギサメディカルが破綻した時、一番に困るのは、彼らを頼りにしている医療機関なのですから。取り返しのつかないことになる前に、私は、ナギサメディカルを完膚なきまでに叩き潰したいと思ったのです……そして、ナギサメディカルが潰れた暁には」
「それらの医療機関への救済措置として、我が社を生かしておく。そういうことですね」
「ええ、ご納得していただけましたか?」
ことりと、林檎は首を傾げた。
医療の発展を目的としながらも、その方法は苛烈。一企業を潰すことを平然と唱え、楢崎マネジを医療機関に捧げるつもりだ。おそらく、葉山林檎は、楢崎マネジを見捨てた医療機関にも、商品を卸せと言うのだろう……医療の発展のために。
「どうして貴方は、そこまでして、医療の分野に貢献をしようとするのですか」
「……大切な人を、救えなかったからです」
フォークを置いて、林檎は、目を伏せた。
「私が子供の頃の話です。難病に侵された男の子がいて、私はその子と数日間、共に過ごしました。あの数日間は、私の人生の中で五指に入る特別な時間です。しかし、男の子は亡くなってしまいました」
「……」
「小さな島の小さな医療では、その子を救えなかったのでしょう。私は、その時に誓いました。住んでいる場所など関係なく、医療を届けられる世界にしようと」
長いまつ毛が持ち上げられ、林檎はふっと笑う。
「いかがですか? 感動的な理由でしたでしょう? 信じるか信じないかは、貴方のご自由に」
嘘だと思って欲しいような、取り繕うような言い方だった。しかし、楢崎には、その言葉こそが、林檎の真実のように思えた。
それは照明の加減のせいかもしれない。だが、葉山林檎が、信じられないくらいに、優しく、優しく笑っていたのだ。
楢崎はようやく、一口飲んですぐに置いたコーヒーに口をつけた。
今度はちゃんと、苦い味がした。苦くて酸っぱくて、でも香り高い、すき通った味だ。
ーーひとまず、不合格ではなかったようだ。
林檎から出資の取り下げの話は出なかったし、多少の悪意を織り交ぜて楢崎を説得しようとする林檎の姿勢を見ることもできた。思ったより、楢崎マネジは重要視されていることも把握できた。
それに。
楢崎は、ちらりと、背後の席に座っている男を見た。ラフな格好をしているが、間違いない。あの男は、葉山林檎の番犬である。
ーーおそらく、護衛としているんだろうが……橿屋が動かなかったということは合格なのでは?
橿屋は最初、さりげなく楢崎と林檎の方を見ながら、ティラミスをぱくついていた。というか、どうしてティラミスぱくついたんだあの執事は。
そして、話が深まるにつれ、慌て始めた。
ちょうど、楢崎がナギサメディカルの製品の質について林檎に質問した時である。一口一口がでかい橿屋は、店に居座る口実のティラミスを食べ終わってしまい、「やべ」と一言。
店員を呼んで、今度はガトーショコラとチーズケーキとミルクティーと水のおかわりを頼んだのである。まったく、葉山の執事と言い難い計画性の無さだが、葉山林檎のお気に入りで、子供の頃から護衛を務めているらしい。
そんな林檎の信頼を得ている橿屋が動かなかったということは、楢崎にとって安心材料だった。
良かった、下手は打っていない。
「下手は打っていませんが、それだけです。あの男は、真意に気付けなかった」
楢崎が帰った後。橿屋に合流した葉村は、仏頂面でそう言った。橿屋はチーズケーキを食べる手を止めて、「まあね」と一言。
「楢崎マネジもまた、医療業界の癌だ。天下の芝ヶ崎に属する大企業で、医療機器の卸売を寡占している企業の一つ。今回のことは、いじめっ子がいじめられっ子に反転しただけの話にすぎない」
「その両方を、林檎様は潰そうとしている」
「そう。全ては医療の発展の為に。楢崎や、ナギサに押さえつけられている優良企業を芽吹かせるために、お嬢様は大規模手術に踏み入ったってわけ」
葉村は橿屋の向かいに座り、ハーブティーを頼んだ。
「お前ハーブティーとか飲むの?」
「格様がお薦めしてくださったので」
「あ、そう」
どうやらこの男にかけられた呪いは、そうそう簡単に解けないようだ。
……呪い。
ーーある意味、呪いなんだろうな。お嬢様にかけられたのは。
もう死んでしまった少年への償いという呪い。
林檎が進む道には、医療の発展という難しい課題には、ゴールなど存在しない。葉山林檎が報われることはあり得ない。
ーーだから、俺は君に期待してんだぜ多原君。
修羅の道を歩む林檎の手をとって、へらりとした笑顔で、「もういいんだよ」と言ってくれることを。罪悪感に塗れたお姫様の呪いを解いてくれることを。
橿屋は、願ってならないのだ。




