林檎お嬢様は失敗しない。
外は、生憎の雨である。
「せっかくのお休みなのに雨だなんて」
ダイニングにて。言葉とは裏腹に、林檎は薄く微笑みながら、ティーカップに口をつけた。今日も今日とて、林檎の執事である橿屋は、完璧な働きを見せている。
「貴方もそう思いませんか?」
無邪気に、そして残酷に。林檎の目は、机を挟んで真向かいに座る一人の男を捉えていた。
「……」
男は無言。出された紅茶にも口をつけず、ただじっと、両の目で林檎を見ている。自分の主人に不利になることを喋るつもりはないのだろうが、残念。男の存在そのものが、主人を不利にしている。
鼻に抜ける芳醇な香りを楽しみながら、林檎は言葉を継いだ。
「橿屋」
「はい。報告させていただきます」
林檎の右後ろにいた橿屋が一歩前に出て、報告という体で告げる。
「芝ヶ崎の情報筋には、今回、草壁夕雁が監禁された件で、“誰が動くのか”を注視せよという命令を下していました。それというのも、現在、芝ヶ崎には、六つの派閥があることを把握していたからです」
「六つの派閥とは?」
もちろん、それは把握済みであるが、目の前の堅物にしっかりと思い知らせる為に、林檎は問うた。そんな林檎の意図を理解している橿屋は、ゆっくりと、各派閥を告げていく。
「現当主。その妻。長男、長女。今は鳶崎にいる、亡くなった子息の妹。そして、無所属の人間です」
「では、この方の所属は?」
「無所属でございます。お嬢様」
林檎は、わざとらしく驚いた。目を見開き、口もとに手をあてる。
「あら。それならこの方は、どうして多原様を屋敷に案内したのかしら?」
「何かメリットがあったとしか思えません。ですが、無所属の人間が勝手に行動をすることなど、あり得るのでしょうか?」
「そうですね、それならこういう案はいかがでしょう?」
ぴん、と人差し指を立てて、林檎は、至極楽しそうに告げた。目を細めて、目の前の男を見る。
「彼は本当は無所属ではなかった。いえ、こう言わなければなりませんね。無所属の人々は、本当は、一つの派閥に属している。その派閥に有利になるが為に、今回のことに介入した……どうでしょうか?」
小首をかしげてやると、それまで黙っていた男が、口を開く。
「……格様が、このことを把握していないとでも?」
語るに落ちたり。声は落ち着いているが、その目は林檎のことを射殺さんばかりに、暗い輝きを放っている。
「勿論、その可能性も考慮に入れていますわ。ですが、多原様のお父様ほど、葉山は優しくなくてよ?」
「ならばどうするおつもりですか。格様の存在を世間に知らせれば、芝ヶ崎は崩壊する。貴方の望むものも、手に入らなくなります」
望むもの。望むもの、か。
林檎は、クスリと笑った。
『ごめんね、僕もう、ここには来れない』
遠い日に聞いた声が、耳に蘇って。
ーー本当に望むものは、もう、この手からこぼれ落ちてしまいましたが。
だからこそ、彼に似ている多原に、林檎は恋をしている。多原を彼に見立てて、今度こそ、自分の手に収めようとしている。あの日に離されてしまった手を、掴もうとしている。
「いいえ。芝ヶ崎が崩壊した時こそが機会なのです。葉山は、芝ヶ崎と並ぶ御三家ですよ? 路頭に迷った人間を、多原様ごと吸収するのは、容易いことです」
「ならばなぜ、私をここに呼んだのですか。それこそが、格様の存在を明かせないことの証左ではないのですか」
彼は気づいていないだろう。語気が強くなっていることに。林檎は、嘲笑の笑みを浮かべた。
「ひどく、気持ち悪いから」
「……は」
「私の、多原様を、好きなようにしている、あの男が、気持ち悪いのです」
やっと、やっと見つけた代替品は、芝ヶ崎のしがらみに囚われていた。神様が、すべてを失った私にあたえ賜うた、最高の存在なのに。
「ですから、貴方に、あの男の破滅を手伝っていただこうと思いまして」
「……っ」
「飼い犬に手を噛まれるのが、あの蔵で内政ごっこをしている男に相応しいと思ったのです」
私より先に、私のものに手をつけていたあの男の所有物を使って、あの男を破滅させてやる。
「林檎お嬢様」
橿屋の諌めるような口調に、林檎は、はっと目を開いた。頭にかかっていた靄のようなものが、急激に晴れていく。危なかった、激情は、あの人に教えてもらった大切なことだけれど、視野を狭くしてしまう。
あの時みたいに、失敗してしまう。
ふるりと、寒気が襲って、林檎はまた、紅茶に口をつけた。ぬるくなっている。
「どちらにしろ、芝ヶ崎を追われた貴方に、ここ以外の選択肢は無いのではなくて? 屋敷を出て行っても結構。ですがそれは、葉山をも敵に回したことになりますよ? そうしたら貴方は、誰に縋るのでしょうね? もちろん、多原様に縋ったら、遺体すら残りませんが」
「…………私の役目は、もう終わりました。私ごときが格様に反抗したところで、刃が届くことはありません」
「貴方はご自分のことを過小評価してらっしゃるのね。私は、貴方のことを買っているのに」
「少なくとも、貴方に私の情報を伝えた人間よりは、使えない人間です」
御霊の派閥に擬態していた人間は、林檎にバカ真面目に言うが、なんというか、林檎の情報筋は、特殊も特殊なのである。なので、謙遜はしなくて良いのだが。
「では、私の元に残ると。そう判断してよろしいのですね?」
「ええ。よろしくお願いします、葉山様」
「こちらこそ、よろしくお願いしますね。葉村一純さん?」
「……」
葉村は、早速林檎の元に残ったことを後悔していた。
「ですからご安心くださいませ多原様。彼の身柄はこのように、葉山が預かっておりますから」
「よ、良かったぁ……! 俺たちの為に芝ヶ崎に逆らって、どうなったか、気になってて……!」
目に涙を浮かべた多原が、感激の瞳で、葉村と林檎を見る。葉村のことを探りたいが、堂々と探ると葉村の関与を露呈させてしまうので、できないジレンマがあったようだ。
「でも、大丈夫ですか? こんなことをしたら、葉山家も、大変なんじゃあ……やっぱり、豪邸じゃないけど、俺の家に」
多原があわあわと手を動かすのを、林檎はやさしく受け止める。
「もちろん、葉山といえども、芝ヶ崎を相手にしたら、少し厳しいものがあります」
完ッ全なる嘘である。芝ヶ崎を吸収することは容易いと言ったその口は、切ない口調で嘘を歌い、多原の手をすりすり。さりげないセクハラである。
「ですが、他ならぬ多原様がご心配なさっていると思えば、芝ヶ崎を敵に回すことも、怖くありませんわ」
「は、葉山さん……!」
「林檎、とお呼びくださいませ。誘拐犯から何度も助けていただいたのですもの。これくらいのことはして当然ですが……もしも、多原様さえよろしければ、時折彼に、会いに来てくださいませんか?」
「勿論です! 俺には、芝ヶ崎のことを報告する義務があります!」
鼻息荒く言った多原に、頭が痛くなる葉村である。葉山林檎、侮りがたし。彼女もまた、“最高傑作”と並び立つ存在。
事態を静観し、脅し取った葉村のことを利用して、本命を釣り上げた。多原がこの屋敷に来る理由を作り上げてしまった。
「ありがとうございます! 林檎さん!」
「ふふ、ふふふっ、どういたしまして」
そんな、頭の痛くなる光景を見つめていた葉村の肩を、ぽんと叩く橿屋。
「どうよ? うちのお嬢様は。なかなかに凄いお方だろ?」
「……そうかもしれませんね」
葉山林檎は強敵だ。
かつん、と靴音がして、客室に、屋敷の主が現れる。林檎に手を握られたまま、多原が振り向く。
「あっ、おじさん」
「ようこそ、多原君。娘と仲良くしてくれてありがとう。いつでも屋敷に来てくれ。私はいつでも、君を歓迎するからね」
ーー彼女は、自分の父親さえも買収済みなのだから。
そこが、芝ヶ崎令との最大の違い。




