箱庭には二羽ニワトリがいる
怪物を目覚めさせることになるから
「そーいうわけで、きよう君との結婚は、まだまだ先になりそうだねー」
革靴の爪先でげしげし地面を蹴る夕雁さんは、とても不機嫌そうだった。
放課後、校門前で待ち伏せしていた夕雁さんを見るなり、多原は「あっ婚姻届のこと忘れてた!」と顔を青ざめさせたが、結果はむしろその逆。芝ヶ崎の本家は結婚反対派らしく、証人のサインをもらえなかったらしい。
ということで多原は、大いに胸を撫で下ろした。よかった、非常食とかペットとかの道は遠のいた。芝ヶ崎の皆さんありがとう。
「でーもっ」
あの時と同じ、両手を後ろにやって、屈むポーズをする夕雁さんは、やっぱり猫みたいに目を細めた。
「私はきよう君のこと、諦めないから。印鑑用意して待っててね!」
最後の方は、多原の背後を見るようにして。夕雁さんは、去っていってしまったのだった。
「ーーあの生徒は、この前も君に接触していたな」
ぽん、と肩に手を置かれる。見上げると、険しい顔つきで、夕雁さんの後ろ姿を見ているレイ姉ちゃんがいた。肩に置かれたはずの手は、次第に力を増して爪を食い込ませていく。多原は「痛いな」と思った。
「他校の生徒との交友は結構だが、場所が悪いな。君とは少し話をしたいと思っていたんだ。ついてきてくれるか?」
「さて」
ここは、選ばれた者しか入れない生徒会室。といっても、純金の置物があるわけでもなく、高価そうな壺が置いてあるわけでもない。
あくまでも生徒の範疇を出ない、お手本みたいな部屋だ。
レイ姉ちゃんに連行されてきた多原は、ソファに座るように促され、そこに座った。そして、レイ姉ちゃんも多原の横に座った。当然のように。
「あの、レイ姉ちゃん?」
「なんだ、キョウ」
「向かい側に座らないの?」
「私の隣では不服か?」
「いや、別に不服じゃないけど」
「心配するな、鍵はかけてある」
そうじゃない。珍しくドヤ顔のレイ姉ちゃんは貴重だが、そうじゃない。
「なんで俺を連こ、ここに連れてきたの? 学校にいるときは、他人のふりをしなきゃいけないんじゃないの?」
「キョウ」
「なに?」
質問をガン無視して、レイ姉ちゃんは真っ黒な瞳で多原を見つめた。「痛かっただろう、すまないな」と言って、さっき爪が食い込んだ場所を撫でてくれる。そうして、呟いた。
「私とふたりっきりは、嫌か?」
「……嫌じゃないよ」
どうして、そんなに自信がなさそうな顔をするんだろう。多原は疑問だった。
「レイ姉ちゃんは美人だし、良い匂いするし、芝ヶ崎上位ランカーで唯一俺に優しくしてくれるから、全然嫌じゃないよ」
「他と比較して、か。私も強欲なものだな」
なんか選択肢を間違ったらしい。レイ姉ちゃんは自嘲気味に笑って、「箍が外れそうなんだ」と教えてくれた。
「箍?」
箍。たが。それを外すと桶とか樽とかがばらばらになっちゃうアレである。
「今まで、考えもしなかったんだ……その道もあるのかと思った……私よりよっぽどかしこい存在が、それを教えてくれた……」
レイ姉ちゃんは、苦しそうだった。多原はどうしていいかわからなかった。自分より優れた人は、どうやって慰めればいいんだろう。
多原がオロオロしていると、レイ姉ちゃんにそのオロオロが伝わったらしい。なんとも情けないことに、頭を撫でられたのは多原の方だった。
「箱庭だけが、私の願いを叶えてくれると思っていたんだ」
箱庭には二羽ニワトリがいる。
そんな変な早口言葉を思い浮かべてしまうほどに、下校中の多原はぼーっとしていた。
生徒会室で、なにやら意味深なことを言いまくったレイ姉ちゃんは、急にきりっとした顔になって、「説教は終わりだ。帰りなさい」と言って多原を追い出した。切り替えが早いのは、レイ姉ちゃんの美徳である。
そんなわけで、草壁さんちの夕雁さんによる強襲と、レイ姉ちゃんの強襲。二人を乗り越えた多原は、ぽけーっとしながら歩いているのである。
カア。
歩いているのである。
カア。
「いてててて、あ、そんなに痛くない!」
嘴で頭を突かれて、多原はとっさに頭を庇った。涙目で前を見ると。
……ざあっ、と落ち葉が風に舞い上がった。赤や橙、黄色の葉に囲まれて、少女は、多原の前に立っていた。白い着物に赤い袴。この世のものとは思えない雰囲気を纏った少女は、鈴を転がすような声で言った。
「はじめまして、多原様」
「はじめ、まして?」
さらっさらの黒髪、レイ姉ちゃんと同じ、どこまでも真っ黒な宝石みたいな目。美少女だが、どこか恐ろしい。
「私のお贈りした札に、願い事は書いていただけましたか?」
「ああああああ゛ッッッ!!!」
多原は絶叫した。
「この度は、本当に申し訳ありませんでした。でも俺が話したのは噂を知ってる議員さんだし、もうこれは関係者ということでノーカンにしていただきたく……」
多原は平伏していた。秋のアスファルトは、ちょっと冷たい。
「お顔を上げてくださいませ。何も私は、貴方を呪い殺そうとしているのではありません」
「ほほほ、本当ですかッッッ」
多原は顔を上げずに言った。美少女……もとい、漆崎神社の巫女、漆崎緋織さんは、慈愛の笑みを浮かべている(願望)。
「むしろその逆。貴方を救って差し上げようと、あの札をお贈りしたのですよ」
よかった、願望じゃなかった!
「ん、救う?」
多原は、首を傾げた。
「そう、たった一言、お書きになればよいのですーー邪魔者を消したい、と」
緋織さんの声は、あまりにも低かった。あと、近くから聞こえすぎた。多原が顔を上げると、こういう表現はちょっとアレだけど、暗闇が見えた。
いつのまにか、緋織さんは多原のすぐ近くまで来ていて、平伏している多原に合わせてしゃがんでくれていた。
「天下は貴方の思うがまま。この緋織が、貴方の望むままに、世を作り替えて差し上げましょう」
ーーめっちゃラスボスみたいなこと言ってきた!
いや、漆崎神社の巫女さんなら、それができちゃうんだろうか。
「たとえば、世界平和とか」
「多原様が世界平和の概念を規定してくださるならできます」
ならその方が良いんじゃないかな。と多原は思ったが。
「でも、お高いんでしょう?」
どっかの通販番組みたいなことを言ってしまう。そう、大きすぎる力には、常に代償が伴うものなのである。漫画で読んだ。
すると、どうだろう。緋織さんは、蠱惑的な笑みを浮かべて、多原の耳元で囁いた。
「対価は、貴方の体です」
「ひょえ」
変な声が出た。
「いいえ、貴方は、必ず札を使います」
「考えさせてください!」と絶叫し、一目散に逃げていく多原を追おうともせず。緋織は、くすくす笑って……すぐに、さあっと顔を青ざめさせた。
「す、少し、はしたなかったですね」
こほんと咳払い。体目当てではあるが、そういう意味の体目当てではなくて、復讐という意味での体目当てなのだが。
だが、自分の方がよっぽど潔いと、緋織は思う。少なくとも、あの本家のお嬢様よりは。
「芝ヶ崎令も、不思議な人間ですね。箱庭も檻も、変わらないというのに」
違いがあるとしたら、閉じ込められている自覚があるかどうか。
「罪悪感というものでしょうか。あの男には、到底及びませんね」




