芝ヶ崎家作戦本部
裏口から通じていたのは、離れの一室だった。
てっきり、太陽の光とご対面することになると思っていた多原は、目をぱちくりした。部屋全体が薄暗いのは、陽があまり当たらない場所にあるからだろうか。障子には、鬱蒼とした影が、全体を覆うようにかかっている。
多原は、使用人さんに確認して、障子を開けた。
先ほど見た廃墟に植えてある植物とは違い、お屋敷の植物は深い緑をたたえていた。いわゆる、常緑樹というやつだ。その木々の葉が、離れに影を落としているのだ。
だが、多原がいちばん驚いたのは、木々のおどろおどろしさでも、近くにある紅葉の葉が黄色くなりはじめていることでもない。
「けっこう近いんだ」
……常緑樹が覆っているのは、この離れじゃないのだ。
多原は背伸びをした。すると、目にも鮮やかな漆喰の白と、ぴかぴかの瓦がちらっと見えた。
昔、レイ姉ちゃんに入っちゃダメと言われた、あの蔵である。ごくりと唾を飲み込む音が聞こえて隣を見ると、花巻さんが、多原以上に緊張した面持ちで、蔵を見つめていた。なので多原も、きりっとした顔になった。
本当はあそこに行きたいけれど、今やらなきゃいけないのは、草壁さんちの女の子を助けることだ。多原は振り向いて、使用人さんを見た。使用人さんは、相変わらず無表情で言う。
「今、ご当主様は、草壁様とお話をしておられます。ですから、助けるなら今の内です」
一から十まで知り尽くしている使用人さんに、多原は不安を覚えざるを得なかった。予定調和っていうやつだ。アカシックレコードを持っているんじゃなくて、筋書きを書いてるのだと、多原は思った。
だって、あまりにもうまくいきすぎる。
「ここまで案内してくれてありがとうございます。でも今更ですけど、こんなことしたら、貴方の身が危うくなっちゃいます」
「その点に至っては心配ありません。橋渡し役になるよう、仰せつかっていますから」
「誰に、ですか?」
「それは、お教えできません。早く行きましょう。令様がお待ちです」
「レイね、令さんが?」
草壁さんが来ているからだろうか。蔵の周辺には、使用人さん達がいなかった。
ていうか、普段からここのあたりには、誰も近づかないけど。
おかげで、多原達は堂々と、レイ姉ちゃんに会うことができた。
「よく来たな、キョウ」
「レイ姉ちゃん、大丈夫なの? その……芝ヶ崎のご当主様に逆らうようなことをしちゃって」
いくら直系といっても、罰を受けてしまうかもしれない。多原が心配になっていると。
レイ姉ちゃんは、多原の髪の毛をわしゃわしゃと撫でてくれた。乱れた前髪の隙間から覗いたレイ姉ちゃんは、少し優しそうな顔をしている。
「ああ。知られなければ大丈夫だ。知り合いに頼んで、ちょっとした細工をしてきた」
まさかのバレなきゃ大丈夫理論だった。
「細かいことは後で話そう。今は、草壁の孫娘を解放してやらなければ」
そう言って、レイ姉ちゃんは、どこからか持ち出してきた鍵を、多原に見せた。
極力音を立てないようにして、扉を開く。
「おーい、助けに来たよーぐえっ」
多原が小声で呼びかけると、すぐにタックルが飛んできた。二日間も閉じ込められていた割には、あまり悲壮感がない女の子は、多原のことをぎゅっと抱きしめた。背骨がみしみし言ってる気がする。
「えーんこわかったよきようくん、こわくてこわくてないちゃいそうだったよー」
「離れろ」
会った時の何倍も低い声を出したレイ姉ちゃんが、多原と女の子を引き離す。女の子は舌打ちして、多原から離れた。怖い。
レイ姉ちゃんが、携帯をぱかっと開きながら、女の子に言う。
「草壁夕雁、お前はどこまで知っている?」
「どこまで、ってぇ? ていうか、なんで貴方がきよう君の方にいるの? 芝ヶ崎令は、本家の人間のはずでしょ?」
「……やむを得ないな」
たぶん答える気のないゆかりさんの態度に、レイ姉ちゃんの指が携帯のボタンを押し始める。多原は、レイ姉ちゃんの腕をとった。
「ストップ、レイ姉ちゃん! どこに掛けようとしてるの?」
「もちろん、お祖父様のところに、だ。勘違いするなよキョウ。私は、この女を助けにきたわけじゃない」
なんかツンデレみたいな台詞だけど、レイ姉ちゃんの口調はどこまでも怖い。だが、多原はまだ一縷の望みを抱いていた。レイ姉ちゃんが、まだ“キョウ”と呼んでくれていることに。
「この女が、どこまで知っているか訊きにきたんだ。返答次第では、草壁に返せない」
レイ姉ちゃんのひんやりとした声に、花巻さんが殺気立つ。せっかく助けに来たのに、これじゃ全面戦争の火蓋が切られてしまう!
「ななな、何にも知らないよね。そうだよね!?」
多原がすがる思いでゆかりさんを見ると、彼女はにぱっと笑って。
「私は、怪物を目覚めさせることはしないよ」
不思議なことを言った。手を後ろにやって、かがむような姿勢で、多原を見上げてくる。可愛い。
「でも、お爺ちゃんはどうかなぁ? 怪物の正体に気付いていたりして〜?」
「だったら、貴様の祖父にも死んでもらうしかない」
「ブレないね。わかった降参。思ったより芝ヶ崎って怖いところだったから、怪物の正体を暴くのはやめてあげる」
片手を上げて、ゆかりさんは白旗を振る仕草をしたのだった。
「ずっと、考えていたんですがねぇ」
草壁玄四郎は、ゆったりと、話し始めた。
うまくいけば、孫娘は今頃助けられているはず。そう思いながら、今度は自分の心配をしなければならないと、心の中で嘆息する。障子の向こうにいる存在たちは、気配を消すのが下手すぎる。
ーーあれじゃ、花巻をやれば殲滅できそうだ。
心配事はすぐになくなった。
……十七年前。厳しい顔をしている当主に、草壁は、あることを頼まれた。
「あの時俺が見た死体は、誰の死体だったんだろう、とね。それとは関係ありやせんが、ちょうどその少し前、ご当主様は、鳶崎さんを介さずに、俺にこう頼まれましたね。二十五、六の男の死体を用意してくれ、とね」
ずっと、引っかかっていたのだ。
自分が用意した死体が、あの、天才と呼ばれた男の死体として、使われたのではないか、と。
芝ヶ崎の当主は答えない。障子の向こうの気配は動く。
草壁は、顎に手をあてた。
「じゃあ、どうして偽物の死体を用意したか。逆に言えばーーアンタほどの権力者が、どうして息子一人殺せなかったか」
空気がびりびりと振動するのを、草壁は肌で感じていた。たぶん、草壁の考えていることは正解だ。
頃合いだ。草壁は、笑顔を作った。
「とまあ、私は疑問に思っていたわけですが。アンタも人の親ってことですねェ、愛する息子のことは、閉じ込めでもしないと、殺せなかったわけですかぃ」
これで十分。草壁は立ち上がって、障子を開けた。芝ヶ崎の当主を見もせずに、言う。
「死臭ってのはね、どうしても、隠すことができねェモンなんですよ。それこそ、空調をどうにかしたところでね」
私には少しの希望があった。
十二年も経っているのだ、冷房で蔵の温度を下げて死体を保存しているとはいえ、完璧に死者の形を保つことなどできない。
もしも、御霊がキョウに父の死体を見せたとして。それがどんなに高度なエンバーミングだとしても、誰の死体かなんてわからないだろう。
だが、身元不明の死体があるだけでも、キョウの心を大きく傷つけてしまうだろうから、結局、死体なんて見せない方が良い。
裏口となっている廃墟。使用人も、草壁の二人もいなくなり、二人きりになった時。
キョウが意を決したように言う。
「ねえ、レイ姉ちゃん。あの蔵には、本当に誰もいないの? 室外機がついてるのに。あそこで、作戦会議してるんじゃないの? まったりお菓子パーティーでもして、夏休みの学生みたいにだらけ切ってるんじゃないの?」
六歳のキョウにはわからなかったが、十七歳のキョウにはわかってしまうらしい。私は、キョウの頭を撫でた。いつもは目線の下にあったのに、いつのまにか、彼は成長してしまっていた。
私は笑った。
「そうだ、あそこには、芝ヶ崎の作戦本部がある。だから、誰も近づいてはいけないんだよ」
キョウが聞いた声は、きっと、叔母の声だ。鳶崎にやられた叔母は、私の婚約者殿と共に芝ヶ崎にやってきては、父の死体と話している。
だが、そんなこと、キョウには伝えられない。
キョウの勘違いを良いこととして、私は虚偽をでっちあげ……ふと、気付く。
ーー作戦会議?
キョウは、六歳の時もそんなことを言っていた。当時は、テレビの影響でそんなことを言っているのだろうと思っていたが。
「キョウ、どうして作戦会議だと思ったんだ?」
「ふっふーん、教えてほしいですか?」
まさか、そんなわけない。
そう思いたい私の期待を裏切るように、
キョウは、得意げに、言った。
「会話が聞こえてきたからだよ。女の人の声と、男の人の声。女の人の声は、え、えーと、何でもない!」




