みつぐくんの陰謀論
芝ヶ崎のお屋敷に通い始めたのは、小学校に上がってすぐだった。
駄々をこねたのはむしろ父で、出発寸前まで多原の肩に両手を置いて、イっちゃった目で口元をひくつかせていた。
『キョウ君、嫌なら行かなくていいんだからね? キョウ君が嫌って言ったら、たとえ千人近くを路頭に迷わせてでも、お父さんは芝ヶ崎を潰すからね?』
『ろとうにまようってなに?』
『住む家がなくなっちゃうってことだよ。当然だよな、憂さ晴らしにうちの可愛いキョウ君を虐めようだなんて許しがたいことだ』
住む家がなくなっちゃうのはかわいそうだなと、幼い頃の多原は思った。だから、なにかぶつぶつ言ってる父に、元気よく宣言した。
『わかった。しばがさきさんちに行ってくる!』
『え!? きょ、キョウ君?』
そんなわけで、芝ヶ崎のお屋敷に行った多原は、本家のご当主様と会って、開口一番、こう言われたのである。
『お前の父親は、人殺しだ』と。
「人殺しといっても、実際に殺したわけではありません。貴方のお父様に敗北したことで、彼は精神を病み、自死に至ったのですから」
どこか他人事のように、実際他人事なのだが、そんなことを言うみたまさんは、多原の髪を優しく撫でた。
「自業自得ですね。これまで好き勝手にしてきたのですから」
「みたまさんは、令さんのお父さんと知り合いだったんですか?」
「あら、どうしてそう思うのですか?」
「なんか、言い方が優しいから」
ご当主様が彼のことを語るときとは違う、批難してるけど、なんだか優しい語り方だ。手のかかる身内に対しての態度みたいな。わざと、他人事みたいに振る舞ってるような。
姿形は違うけど、この人は、レイ姉ちゃんみたいだ。みたまさんの笑顔を見ながら、多原はそう思った。
「さすがは貴陽様ですね。慧眼です」
「ありがとうございます」
多原は褒められたら嬉しくなる生き物だ。相変わらず、様付けされることにはなれないけど。
「そういうわけでして、貴方のお父上の罪は、罪ですらないのですよ。寧ろ、貴方のーー」
そのときだ。
すぱん、と廊下へと繋がる障子が開かれて、見知った顔が見えた。
「あ」
「貴陽、ここにいたのか」
やけに怖い顔をしたレイ姉ちゃんが部屋に入ってきて、多原はしゅばっと畳から起き上がって正座した。
「あらあら」
みたまさんの声が聞こえたが、多原の目はレイ姉ちゃんに釘付けだった。
「もう不審者騒ぎは終わった。家に帰りなさい」
「はい」
レイ姉ちゃんが多原のことを貴陽と呼ぶのは、外部向けである。キョウと呼ばれるときとは、何倍もの温度差がそこには存在する。
多原は、ようやくみたまさんのことを見ることができた。
「では、みたまさん、ありがとうございました」
「また、いらっしゃってくださいね」
みたまさんはそう言ってくれたが、たぶん次はないだろうなと多原は思った。レイ姉ちゃんが、多原とみたまさんの間に割って入る。
「調子に乗るなよ、亡霊が」
それは、ついぞ聞いたことのない恐ろしい声で、多原はびくっと震えた。だが、みたまさんは、蠱惑的な笑みを浮かべた。
「あらあら、独占欲のお強いこと。そんなに睨まなくても、とったりはしませんよ。私はね?」
「貴方がそこにいられるのは、温情に他ならない。それは、理解していますね?」
「ええ、ええ。本家の人々には、感謝してもしきれません。ですから私は、巳嗣様に精一杯尽くそうと」
「女狐め」
吐き捨てるように言って、レイ姉ちゃんは多原の手をとった。ぎゅうと握られた右手は、やけに痛かった。
「なにか、聞いたか?」
廊下を歩きながら、レイ姉ちゃんがそう言ってくる。多原は首を横に振った。
「新しいことはなにも聞いてないです。あの人は、誰なんですか?」
「お前が知る必要はない。いいか、二度とあの女に近づくな。取って食われるぞ」
「……」
「返事」
「はい」
暴君モードに入ったレイ姉ちゃんは、入り口に着くまで多原の右手を離してくれなかった。さっき多原がしりとりを仕掛けようとしていた使用人の人が、そんな多原たちを見て目を剥いていたが、レイ姉ちゃんは気にすることなく、多原が門をくぐる直前まで、手を繋いでいた。
……そんな光景を見ながら、鳶崎巳嗣は舌打ちした。
自分のものであるはずの芝ヶ崎令が、あの下賎な庶民と手を繋いでいた。一度もその手を離すことなく、当然のように。
これだから、あの庶民は嫌いなのだ。巳嗣が令と手を繋ごうとすれば、令は恥ずかしいのを言い訳にして躊躇する。それが、どうだ。あの庶民に対しては、令は自分から手を繋ぐ。
周りは気のせいだと巳嗣に言う。
よりによって、あの庶民と。自分の父を死に追いやった男から生まれた庶民と仲良くするなんてあり得ない、と。実際、令はあの庶民のことをゴミのように扱った。さきほども、「あれ」と言い、人間のように扱ってはいなかった。
だが、だが。
誰よりも芝ヶ崎令を見ている巳嗣にはわかるのだ。令は、庶民……多原貴陽への好意を、捨てきれていないと。
「おかえりなさいませ、巳嗣様」
芝ヶ崎の屋敷に行くときには、必ずこの女がついてくる。御霊というふざけた名前のこの女は、病的な容姿ながらも、どこか令に似ている。
だが、巳嗣に湧き上がってくるのは、好意ではなく嫌悪である。その嫌悪がどこから来るのか、巳嗣にはわからない。
一つ言えるのは。御霊の黒いガラス玉のような瞳を見ていると、無性にイライラとしてくるのだということ。
「きゃあ」
頬を張ると、わざとらしい悲鳴をあげて、御霊は容易に床に倒れ込んだ。
太陽の下で生きていけないと自称する彼女の体は、そんなに強くない。
「この細い手首、へし折ってやろうか」
いつの頃からか鳶崎に居着いているこの疫病神を、何度殺してやろうと思ったかしれない。無抵抗の御霊は、何も映さないガラス玉に、その時だけは、濡れた光を灯す。
「はい、ぜひ、そうしてくださいませ」
ちかちかと、何かが閃く。それは、危険信号だ。巳嗣は、御霊の上から退いた。御霊は、「あら」と口に出す。
「私の手首を、へし折らないのですか?」
「私は、鳶崎家だぞ。たかがお前ごときのために、醜聞を作るつもりはない」
「あらあら」
死人が着る真っ白な着物の併せを正しながら、御霊はくすりと笑った。
「貴陽様に苛ついていたのではないですか?」
「お前、なぜそれを」
「いましがたまで、お部屋にいらっしゃいましたから。令様がわざわざ、お迎えに来ていましたよ」
「〜〜っ!!」
巳嗣の頬は熱くなり、頭がかっとなった。一度萎えた怒りが再燃し、先ほど見た仲睦まじく手を繋ぐ姿が頭に浮かんだ。
「あの庶民、どうにか殺せないか」
実は、草壁には縁談を断られている。正しくは、草壁玄四郎には、だ。その孫娘は寧ろ乗り気で、巳嗣には二人から、相反する返事が寄せられている。巳嗣としては、何の力も持たない孫娘の意見を採用することはできない。
父からは怒りの言葉をもらった。鳶崎に仕えてきた草壁は、心変わりをしたと言う。
『お前のせいで、草壁を失うことになるんだぞ』と。いいや、断じて巳嗣のせいではない。全ては、あの男のせいだ。
「そう、全ては、貴陽様のせいですわ」
巳嗣に同調するように、御霊が囁いた。
「あの方がこのお屋敷に来てから、いいえ。あの方が生まれてから、全てが狂い始めたのです。悪いのは、巳嗣様ではありません」
「なんだ、お前はわかっているのか」
巳嗣ははじめて、御霊にむかって優しい笑みを浮かべた。そうだ、全ては、あの庶民のせいなのだ。
「あの庶民さえいなくなれば、全てがうまく行く」
「ええ。貴陽様さえ消してしまえば、全ては貴方のものです」
もはや、巳嗣は、自身の体に絡みついてくる御霊を振り解こうとはしなかった。
頭の奥で閃いていた信号は、とっくに消えていた。




