折れる音
「ご報告も何も。すべて、聞いていたでしょう。芝ヶ崎の名前を騙っている不届きものがいる。それだけの話ですよ」
「よくある話でしょう」と、律は同意を求めるように言って、扇子を広げた。衣擦れの音すら立てず律の前に座った式は、じっと、律のことを見つめた。
「そういった手合いは、いくらでも湧いてくる。いちいち相手にしていてはキリがない。だから、芽の出た人間だけ、摘めば良いのです」
「律さん、私は、報告をと言ったのですよ」
幼子に言い聞かせるように、ゆっくりと。式は、薄く微笑しながら口を開いた。
「一般論で煙に巻けとは言っていません。貴方の推論を仰ってください」
「今の段階では、何も」
「律さん」
ふう、と、それはそれは麗しい息を吐いて、式は弱々しく眉を下げた。
「残念です。律さんのところで、留め置きたかったのですが。これでは、貴陽様に、直接お聞きするしかありませんね」
「彼は何もわかってはいませんよ」
言って、律はしくじったと内心舌打ちした。多原を庇いたいなどとはこれっぽっちも思っていないが、つい、口に出てしまった。
「彼は? では、律さんは、何かわかっていらっしゃるのですか?」
案の定の問い。律は、扇子を持っていない方の手を、ぎり、と握りしめた。
ーー推論なら、ある。
二日前の夜、伊勢隼斗は、律に連絡をよこした。多原たちと全く同じく、「塹江小穂という人間を知っていないか」という質問である。
ちょうど、外商関係で、塹江が芝ヶ崎関係者である噂を聞き、こちらに連絡してきたとのことだった。
『そのお客様に、もっと詳しいことは聞けないのかい? そうすれば、こちらとしても手助けできると思うけれど』
律が電話口で言ったことは、何も間違ってはいない。手がかりなしで塹江小穂の正体を突き止めるより、その客がどのような経緯で塹江のことを知ったかを知る方が、近道になるのだ。
だが。
『いや、お客様のことは喋れない』
返ってきたのは、そのような言葉。なぜか伊勢は、その情報源を、頑なに喋ろうとしなかった。どうしても塹江小穂のことを知りたいのならば、情報源は開示するべきなのに。
『悪いけど、力にはなれないな』
律はそう言って、相手の出方をうかがった。これで観念して喋ってくれれば、伊勢は本当に、塹江小穂のことを調べたいことになる。
『そうですか、残念です』
すんなりと、伊勢は身を引いた。そこで、律は確証を得た。伊勢の本当の目的は、塹江小穂を知ることではないのだと。
それでは一体なんなのかーーその疑問は、多原たちがここに訪ねてきたことで氷解した。
伊勢の本当の目的は、
「貴陽様を、この件に巻き込むこと。けれど、彼にだけ話すと、目的がわかりやすくなってしまうから、ついでとして、本家の律さんを巻き込んだ……お兄様は、そう推測してらっしゃいます。ああ、当たりですね」
式は、律の目を見て笑った。
「貴方は、アリバイ作りに使われた」
何が報告だ、すべて、わかっているじゃないか。
そう叫びたいのを我慢して、律は、奥歯をぎり、と噛み締めた。式が、とん、と自分の眉間を指で突く。
「皺ができていますよ?」
「……私を弄んで、どうしたいのですか」
「弄んでなどいません。ただ、試していただけです。貴方が素直に報告してくれるかどうか」
式は、目を瞑って肩をすくめる。
「結果はご覧の通り。嘆かわしいことに。律さんは、お兄様に隠し事をしてしまいました」
「べつに、隠し事など……」
扇子の向こうで、式が目を開いた。次の瞬間、やはり音もなく、律の手に誰かの手が触れる。ひんやりとした細い指。思いの外強い力は、
ばちんっ!!
それは、扇子が閉じられた音だ。指一本。指一本隔てたところに、冷たい瞳があった。
「隠し事など無意味だと、わかったでしょう? ねえ律さん。貴方は、貴陽様と同じところには行けないのですよ?」
「同じところ?」
「日の当たる場所、とでも言いましょうか。私たち、暗闇に棲む者には手が届かない、楽園とでも言うべき場所ーー」
「楽園?」
律は、それを鼻で笑った。神格化しすぎだろう、それは。そんなIQが下がりそうな楽園など、あってたまるか。
ーー私は、そんな場所に行きたいとは思わない。
行けるとも、思っていない。
「……」
「どうしましたか、律さん?」
「いえ」
顔を手で押さえたい。扇子で顔を覆いたいのに、律の手には、式の手が重ねられている。だから、表情を隠すことができない、「どうしましたか」と白々しく聞いてくる式に、取り繕うことができない。
「律さん。お兄様は、これを持たなくとも貴方が生きていける世界を作ってくれようとしているのですよ」
ーー与えておいて、奪うのか。
式の言葉を聞いて、律は脱力した。扇子をくれたのはあの人なのに、律が扇子を使うことに依存し切った後に、それを奪うというのか。
「どこからが……」
すべて、奪われていく。
知らず、見えていた楽園とやらも。表情に出やすい負い目を抱えていた律を救ってくれた扇子も。
すべて、与えられては奪われていくのだ。
ーー私の世界は、すべて、あの人によって作られている。
勝ち目など、一つもない。律の生存本能が、従えと警鐘を鳴らす。
「かわいそうな子」
式が、俯く律の背中をさすった。律の手から扇子を抜き取る。
「これは、もう必要ないですね」
……ぱきり。
「えー、伊勢はご家庭の事情により、今日は欠席だ。じゃ、ショートホームルーム始めるぞ」
担任の先生がそう言うのを、多原は口をあんぐりと開けて聞いていた。梯子が外された気分だ。
今日学校で、伊勢君に情報を教えた人について聞こうと思っていたのに。
「やっぱり、来なかったか」
放課後、帰り道である。
島崎が、眉間に皺を寄せてそう言った。
「やっぱり、って。これ、予測できてたのか?」
「俺の考えてることが確かならな。これは、計画的なズル休みだよ。事態が収束するまで、奴は姿を現さないつもりだ」
「まじ? 出席日数大丈夫かな」
「そっちかよ」
島崎が、眉間の皺をちょっと減らしてくれた。多原は、「うーん」と考えた後、ぽんと手を打った。
「どうする? 今から伊勢んちに行く? まあ、住所知らないけど」
「それはやめておいた方が良い。相手の思う壺だ」
なにかが見えているであろう島崎は、首を横に振った。
「これでハッキリしたよ。多原、この件からは降りた方が良い。伊勢が考えてることは、碌なことじゃない。あいつは、お前のことを利用しようとしてるんだ」
「利用なんてそんなこと」
しそうだな、と多原は残念ながら思った。伊勢君は世渡り上手な陽キャである。
「とにかく、この件は忘れること。塹江小穂の正体なんか、知ろうとしなくてもいいーー」
「いま、なんて言った?」
島崎の声に反応してそれを言ったのは、多原ではない。それは、路肩に車を停めて、タバコを吸ってる男の人から発せられたのだ。
サングラスをかけて、青いストールを巻いている。白シャツに黒いスラックス。髪を茶色に染めているその人は、多原たちに、まるで幽鬼のように近づいてきた。まあ多原は、幽鬼とか見たことないんだけれど。
「そこの少年、塹江先生の正体とか言ったな? なにか、知っているのか?」
島崎が露骨に舌打ちする。初対面の人に向かってそんな。歩き方がゆらゆらしてるその人は、懐から何かを取り出した。
「拳銃!?」
「なんだこの少年」
などと言いながら、その男性は、多原たちに一枚の紙を見せてくれた。それは、名刺である。
「あっ」
「ばか」
露骨に反応した多原のことを肘で突いた島崎は、「まあ俺もか」と言って、深いため息を吐く。一方、多原たちの反応を見た男性は、一つ頷いた後、サングラスを指で押し上げた。動作が格好良い。
「俺の名前は、新山素仁。テレビあかつきで、プロデューサーをやってる者だ」




