上
愛車のハンドルを握りながら、新山は、ゆっくりと、左を向いた。
助手席に座っているのは、ツインテールの少女。小顔でまんまるな目。細くてしなやかな手足。守ってやりたくなるような見た目なのに、右手に持っている刃物のせいで、こちらが“害される側”だと、理解させられる。
それにしても。
「テレビ局のセキュリティはどうなってるんだ」
新山は、少女の質問に同意することなく、ぼやいた。
ここは、テレビ局の地下駐車場だ。それなりにセキュリティが固く、いくら言ってもあの堅物警備員は顔パスで通してくれない。大物芸人さえも通さないので、クレームが入っているぐらいだ。
……逆に言えば。
薄暗い車内で、形の良い唇を歪めて、少女は懐から何かを取り出した。だいたい予想がついていた新山は、溜め息を禁じえなかった。
「だろうと思ったよ」
あの堅物警備員は職務に忠実だ。テレビ局に出入りするための入館証。それを忘れたときは家にまで取りに行かされたくらいだが、入館証さえ見せれば、すんなりと通してくれる。
少女が持っているのはまさしく、間違いなく、このテレビ局の入館証だった。
「あの堅物を騙し通せるとは思えない。ってことは、それは偽物じゃないってこった。クソッタレ」
いっそ、クラクションでも鳴らしてやろうか。そうしたら、誰か助けに来てくれるだろうか。
「来ないよ」
新山の考えを読んだように、謎の少女は器用にくるくるとナイフを手元で回す。横顔まで完璧な娘だ。
「そういうように計らってもらったから」
「誰に?」
「さて、誰でしょう? それを知って、貴方はどーするの?」
「辞表を叩きつける」
ナイフの動きが止まる。
きょとん、と少女は目を見張った。思ったのと違ったらしい。そこらへんは、見た目通りの幼さだなと、新山は嗤った。
「こう見えて、俺は凄腕プロデューサーでね。俺が会社を辞めれば、莫大な損失が生まれるんだ。だから、それをネタに、そいつを脅す」
「成程、だから、この局の人間は良い顔をしなかったんだ」
新山は固まった。その言葉を咀嚼して嚥下するのに、時間がかかった。
ーーこの局の人間は?
思っていたのと違う答えが返ってきた。
少女は微笑みながら、車の天井を指差す。新山も釣られてそちらを見るが何もない。いや違う、彼女が表現したかったのは。
新山は、理解の代わりに肩をすくめた。
ーー俺が辞めても影響がない奴ら。
行政局の野郎ども。成程、そりゃ、新山というエースを切り捨ててでも、この物騒な二人をテレビ局に招き入れるわけだ。
下手したら、放送免許剥奪なんてことになりかねないのだから。
「さぞ高貴なご身分なんだろうね、お嬢ちゃんは」
「高貴なだけじゃ、葉山とは渡り合えないよ」
皮肉に対して、緩く首を横に振られる。少女の瞳は、車内のディスプレイの青白い光を吸い込んで、不思議な色になっていた。
「葉山は実直だけど、戦争で臆病になっちゃったんだよ。だから、彼らには、実利を説いてやらないと」
「葉山のことを言う必要あったかね」
「葉山のことを知ってるんだ?」
新山は心の中で舌打ちした。なんだか知らないが、自分は、鎌をかけられたらしい。
だったら、こちらも鎌をかけてやる。
「身内に、芝ヶ崎の知り合いがいるもんでね」
アレを身内と言っていいかはわからないが。確か、葉山と芝ヶ崎は犬猿の仲だっけか? 前に葉山の役人と一緒になったとき、枕崎の機嫌が急降下したのを覚えている。葉山と芝ヶ崎は仲が悪い。それならば、葉山のことを話に出してきた少女には、牽制になるのでは?
なんだったら、枕崎の電話相手を持ち出しても良い。くそっ、名前を聞いておくんだった。重度のモンペという情報しかない。
新山が、中途半端な情報を言おうとモヤモヤしていたときである。
「ふぅん。だったら、路線変更」
唐突に、少女がナイフを手放した。
「新車ぁっ」
新山は叫んだ。だが、杞憂だったようで、少女は新車の床に刃先が着くスレスレで、ナイフを拾う。助かった。
心臓を抑える新山に、「その知り合いに聞いてみてよ」と笑う。
「草壁って女の子のこと、知ってる? って」
「ししし、知ってるも何も!」
何が悲しくて、枕崎を愛車に招かなければならないのだろうか。数日後、コーヒー一杯で簡単についてきたちょろい枕崎は、助手席で唾を飛ばした。汚い。
汚いが、ここ以上に安全な場所なんて、新山には考えられなかった。走ってる車内だったら、あの二人が乗り込んでくる心配もない。
ーーないはず、だよな。
枕崎は、相変わらず興奮している。
「お前、よく無事でいられたな!? 草壁夕雁に会ってさ!?」
「だから誰だよ、草壁って」
ハンドルを握りながら、適当に高速を走る。
「端的に言えば、ヤクザだよ、ヤクザ」
あの可憐な容姿から考えられないワードが飛び出てきて、思わずブレーキを踏みそうになるのを、間一髪で食い止める。
「は? ヤクザ? 極道? 任侠? いや、後ろに乗ってる奴は確かにおっかなそうだったけど、そんな奴らが、どうして行政局と」
「俺的にはどうして葉山とって感想なんだけどな……草壁ってのは、鳶崎と関係深かったからな」
「なんで過去形なんだよ」
「……」
言いにくそうにする枕崎。こいつを黙らせる存在は、一人しか考えられない。
「モンペか」
「あの人のことをモンペと言うな!?」
「お前がモンペって言ったんだろうが。当たりか。なに、例によって、草壁も“英雄”信仰か?」
「そうじゃない。モ、あの人の息子の方を、いたく気に入ってるって噂なんだよ。草壁夕雁は」
「へぇ。じゃ、その事を言えばよかったな」
冗談めかして言うと、重い沈黙が車内を支配した。
「……殺されるぞ」
「知り合いだからって手加減されるとかじゃなくて?」
「アレは、そういう化け物なんだよ」
「化け物、ねえ」
枕崎の言葉には緊張感があった。
「お前、絶対に、草壁のことについて口外するなよ。骨も残らないぞ」
「ライバル減って嬉しいと思わないのか?」
「次は俺だからな」
「……」
「当然だろ。傍観者なんて、芝ヶ崎にはいねえんだよ。人殺しになりたくなけりゃ、全てを塹江先生の所為にしろ」
「稀代の才能を殺せと?」
新山は、才能を何よりも愛する。塹江小穂という脚本家によって生み出されるであろう作品たちが、新山の空想の中で燃えていく。それは、耐え難いことだった。
「俺には、そんなことできない」
「だったら俺が死ぬだけだ。才能のある俺がな」
枕崎は、新山の性分をよく理解していた。
「諦めろよ新山。運が悪かった、それだけさ」
「ぜんぶ、全部、あの脚本家が悪いんだよ!!」
電話向こうのスポンサー企業の広報担当者に鬱憤をぶつけるように、新山は叫んだ。
「おかげで、全て台無しだ! 俺の地位も、何もかも!!」
『お気持ちお察しします』
お察しします?
新山は鼻で笑った。そんなもの、察せられるわけないだろう。老舗百貨店の、鼻持ちならない奴らが!
ヤクザが総務省と繋がってたなんて、創作じゃあるまいし。
「何がわかるんだよ、あんたらに……」
『我々が、どう動くべきかです。……そっちこそ、イセマツヤ舐めてんのか? 外商分野だとね、色々情報が入ってくるんですよ。例えば政府高官経由の情報とかね』
新山は眉を顰めた。
馴れ馴れしい声だ。例えるならクソガキ。人物自体は変わっていないが、化けの皮を剥いだ感じ。さっきまでの丁寧さをかなぐり捨てた、横柄な声。
だとしても、これは誰だ? イセマツヤの名前を騙った誰かか? いや、電話番号は合っているはずだ。
『必要なモンは揃える。だからアンタは、ドラマのことだけ考えてればいーんだよ』
そう言って、伊勢隼斗は受話器を下ろした。
困惑する広報担当者の横で、ぐぐっと体を伸ばす。
楽しそうに言う。
「さぁて、どーやって多原を巻き込むかな」




