ありそうな気がする
ーーいやあ、すごい偶然もあるもんだ。
橿屋は感心し、「そりゃ、そういうこともあるか」と得心。
おんなじ芝ヶ崎で、なおかつ、多原の父は、言わずと知れた演説事件の重要人物であり、土壇場で与野崎傑を説得した。会ったことがあってもおかしくないのかもしれない。
にしても、写真撮ってくれた、とは?
「もしかしたらこの人、写真家なのかもしれないですね」
うんうんと頷いて、多原は再度お礼を言って、橿屋にスマホを返してくれた。意味はないだろうが、このスマホは本州に戻ったら、鑑定に回す予定である。
「海の写真家なのかも。俺が会った時も、海を背景に写真撮りましたから」
「……それって、いつぐらいの時か覚えてるかな?」
林檎が与野崎士に会ったのは、小学校低学年の頃。具体的には、小学校三年の夏休み。これより新しければ、与野崎傑の足跡が繋がるというものだ。ひいては、与野崎士への道標も。
多原は、橿屋の問いに、「ええと」と手をこまねいた。
「えっと、小学校三年の夏休み、かな」
残念、足跡は、すぐに途絶えてしまった。
多原は、まなじりを下げて、口元を綻ばせる。
「懐かしいなぁ。林檎さんほどじゃないけど、俺にも、一夏の出会いってやつがあったんですよ……あっ、でも、ここじゃないですよ? だって、あそこは島じゃなかったし」
申し訳なさそうに、しっかりと訂正してくる多原は、その次には、思い出につられて目を細めていた。
「元気にしてるかなあ、あの子。お互い名前も知らないんですけどね。今思えば、ひどい別れ方しちゃったな。ちゃんと言えば良かった、悪いのは君じゃなくて、強いて言うなら、そう、突然水族館に行きたくなったお父さんだよって」
どうやら、心残りがあるようだ。多原は照れたように笑った。
ーー林檎お嬢様の後悔に、寄り添ってくれてるんだ。
自分の後悔を話すことによって。
その照れ笑いが、橿屋には好ましく思えた。
「多原様」
林檎が、そっと、多原の手を取った。
「聞かせていただけませんか? その、一夏の思い出を。いえ、胸にしまっておきたいのなら、それで、良いのですが……」
自信なさげな林檎に、多原は小さく笑ってくれる。
「聞いてくれるんですか?」
「も、もちろん!」
傷の舐め合いという言葉がある。
療養施設からの帰り道。多原が、懸命にそのときのことを思い出しながら話している。その横に寄り添って、林檎が優しい笑みで多原の話を聞いていた。
ーー傷の深さは変わらない。その傷は、林檎お嬢様だけのもんだ。だけど、傷を見せられる相手がいるってのは、良いもんなのかもな。
二人の後ろを守りながら歩く橿屋の口元も。不覚にも、緩んでしまう。
話は、多原が小学校三年生の頃に遡るらしい。
「夏休みが明日から始まるぞーって終業式の日ですね、帰ったら、父がいきなり、“島に行こう”って言ったんです」
…
……。
「キョウ君、島に行こうか」
多原は、ランドセルを背負ったまま、玄関で固まった。
目の前には、すごい形相の父。その父を見ていると、あと、そのワードを聞くと、多原は、新年会の忌まわしき記憶が蘇ってきて。
「き、キョウ君!? どうしたの?」
「ししし、島、島……島は嫌だぁ」
じんわりと、涙が滲んできて、とうとう、多原は大声で泣いてしまった。父はオロオロして、奥から来たお母さんは、多原の涙を拭ってくれて、優しく聞いてくれる。
「キョウ君、どうして島は嫌なの?」
「だって、あの二人が、ひっく、俺がバカすぎて、島流しされるんじゃないかって。美味しいもの食べれなくなるって、そんなの嫌だぁ」
とめどもなく流れる涙。
「キョウ君ごめんね、私はなんて愚かなんだ。ウソだよ、嘘嘘。島になんか行かないからねっ、ああそうだ、芝ヶ崎ごとぶっ潰せば、島に行く必要なんてなくなるな……ちょっと、手始めに会社潰してくるね」
ガンギマリの目をした父の袖を、急いで多原は引いた。やめてほしい。
「会社は、潰したらダメだと思う」
「キョウ君の言うとおりだ! よし決めた! 島行きはなし! でも、お父さん、キョウ君がまたローストビーフチャレンジでケガしないか心配だから、お願いだから、夏休みの間はさ、遠くに旅行に行かない?」
我が父ながら怖かった。情緒が不安定すぎる。
会社を守るため、多原は頷いた。新年会の時のチャレンジはちょっと過激で、父もお母さんにも、心配をかけてしまったので。
「わかった、島じゃないならいいよ」
「ありがとうキョウ君!!」
話を聞くに、過保護な父親である。
橿屋は、苦笑いしてしまう。前を歩く多原は、少し俯いて。
「ここまで話す必要なかったかも……」
と、後悔しているようだ。だが、そのあけっぴろげな話し方が。
「ふふ、でも、私は、そこまで聞きたいです」
林檎の笑顔を引き出しているのだと、橿屋は思うのだ。
話は続く。コテージへの道を、ゆっくりと、歩く。穏やかな時が流れていた。
「なんとか父を説得して、俺たち家族は旅行に行きました。行き先は、どこだっけ、島でないことは確かです。そこには車よりも船で行った方が早いから船で行ったんですけど、島じゃないって父は言ってたので、島じゃないですね」
ーーそれ、騙されてね?
橿屋は一瞬そう思ったが、それは、願望から来る疑問だと思い首を横に振る。この期に及んで、橿屋はまだ、望んでしまっているのだ。
「そこは、紫外線がすごく強いらしくて。今思えば、ちょっと俺、不審者に片足突っ込んでたと思います。いっつも長袖を着て、帽子を深く被ってたので……あの女の子、よく俺と仲良くしてくれたなって思います」
「……ふ、ふふふ、そうなんですね」
ぎこちない笑いの林檎お嬢様。“あの子”から、“あの女の子”なわけだから、複雑な気持ちだろう。
「父はあんまり宿泊先にいなかったので、俺は、たくさん遊びに出掛けていました。お母さんも、それを許してくれてましたし」
なるほど、過保護な父親に対しておおらかな母親。バランスはとれているんだなと、橿屋は感心してしまった。感心するところではない。
「でも、遊びすぎて、父に泣かれてしまって。俺は不満でした。そんなに過保護にすることないのにって。過保護はやめてほしいって。それで、恥ずかしいんですけど、旅行先で家出したんですーーそこで、その女の子に会ったんです」
「わあ。会ったんですね、女の子に」
林檎お嬢様の胸中やいかに。複雑すぎて、倒置法を使ってしまっている。
それに気付かない多原は、目を細めて頷いた。
「その子と、夏じゅうたくさん遊びました。俺は父に、その話をしませんでした。また泣かれたら嫌だし」
父親に対してはけっこうドライなんだなと、橿屋はまたしても感心してしまった。感心するところでは以下略。
「……特に印象に残ったのは、グリーンフラッシュですね。あ、林檎さんの話にも出てきましたよね。太陽が緑に輝く現象!」
「ええ、そうですね」
「あれを、その子と一緒に見たんです。で、その子が、グリーンフラッシュだよって教えてくれて。物知りでしたね、その子は」
橿屋は感心するのをやめて、思わず、多原の横顔をまじまじと見つめてしまう。
グリーンフラッシュ。特定の条件下でしか見られない光の現象。空気の澄んだ離島などでしか見られない……。
ーーいやいや、いやいやいや。
まさかそんな、いやそんなことがあって良いはずがない。
橿屋の視線に気付いた林檎が、密かに引き攣り笑いを浮かべている。考えていることは同じのようだ。
それなら、なぜ与野崎傑は「息子と関わるな」と言ったのだろうか。息子じゃないのに、矛盾しているではないか。
ーーいやでも、多原君の父親って、与野崎傑と関わりあったよな……宿泊先にいないのって、与野崎傑と会ってたからとか、あるんじゃね?
……息子の旅行を隠れ蓑にして与野崎傑と密会。なんだか、ありそうな気がする。
…………愛息子と仲良くなった葉山の後継ぎに牽制。大いにありそうな気がする。
………………だからといって自分の姿を現すと後々面倒くさいことになるし(息子の正体がわかってしまう)、変装してても息子に気付かれてしまう恐れがあるので、与野崎傑を隠れ蓑にして牽制。まじでありそうな気がする。
与野崎傑をそうやって軽く扱えるものかと思うが、過保護一直線の多原亘なら、ありそうな気がするのだ。
ーーどうしよ、俺。偽物に心を動かされたって裏切りにはならないとか言ってみたけど、これさあ……。
本当にどうすんだこれ。
橿屋が煩悶してる間にも、多原の、切なそうな声が聞こえた。
「俺はその子に言ったんです。もうここには来れないって。その子は、自分のせいだと思ってたみたいなんだけど、どうにもうまく伝わらなくて。俺はすぐに、出発しなきゃいけなかったんです。父がどうしても行きたくなった水族館に」
ーーなるほど。
つまり、こういうことか。
『ごめんね。僕もう、ここには来れない(水族館に行かなければならないので)』
林檎お嬢様は、それが命のタイムリミットだと思ってたから、話が噛み合わなかったわけだ。
橿屋は、天を仰いで……それから、ふと思う。
ーーじゃあ思い出の少年が多原君だとすると、与野崎士は、今、どうしてるんだ?




