『現場、二百遍だよ』
「……貴方には、感謝しなければなりませんね」
林檎さんの口調は、どこか変だった。多原のことを見ているようで、見ていないような。
「り、林檎さん?」
葉山家を訪れた時のような“無”の境地に至っていない多原は普通に動揺した。元々、多原のメンタルはそんなに強くない。あの時は、対円佐木さん用のメンタルで傷つくことは免れたが、今は普通に、林檎さんの態度に動揺している。
林檎さんは、髪を一房指に滑らせ、耳にかけた。
「確かに、貴方の言う通り。彼は、私に見つけられたかったんでしょうーー自分という存在を、私に刻みつけて、私を咎めたかったのです」
「そんなこと」
多原は、すぐに否定しようとしたけれど、林檎さんの深くて暗い瞳を見て、言い淀んでしまった。
だって、今の多原に何が言えるというのだろう。前までの“無”モードの多原ならともかく、凡人メンタルの多原には、死者の代弁なんて烏滸がましくてできないし。
それに。
ーー林檎さんは、俺なんて見えてない。
たしかに、多原の方を向いて喋っているのに。空虚な瞳は、多原を見透かしている。どんな言葉を言ったって、林檎さんには届かない。そんな確信めいた予感がするのだ。
「貴方の役目はこれでおしまいです。きっと、貴方との出会いは、今日この時のためにあったのです」
林檎さんは、頑なに、多原の名前を呼ばない。薄い、けれど決して砕けないガラスの壁が、二人の間には存在しているのだ。
林檎さんは、儚く笑う。
「私はね、嬉しいんです。彼は唯一無二の存在だったって、証明できたんですもの。彼の代わりをできる人間はどこにもいない。ええ、貴方の言っていた通り。彼は私に、罪悪感を遺してくれたんです」
「……」
大切に、大切に。目に見えないものを胸の前で抱き抱えるような仕草をする林檎さん。多原はまたしても、否定する事はできなかった。だってそれは、ただ一つ、林檎さんに遺された、彼の形見と言えるものだから。
それを取り上げることなんて、多原にはできない。
多原が何も言わない、言えないことに動揺もせず、林檎さんは、淡々と。
「貴方という存在をもたらすことによって。彼は私に、罰を与えてくれた」
多原は、眉根を寄せた。体の横で拳を握りしめた。あまりにも、痛々しい笑顔に、何も言い返せないのが、本当に嫌だった。
ーー俺が、あんなこと言わなければ。林檎さんは、こんなに悲しそうな顔で笑わなくて済んだのに。
結局不都合な真実を掘り出しただけじゃないか。
ーー何が、現場百遍だ。
『なにが現場百遍だ! くそ!』
「お嬢様」
「黙っていて橿屋? ね、私に罰を与えてくれてありがとうーー多原君」
「……っ」
心からの感謝だった。多原が顔を上げると、林檎さんは、それはそれは、綺麗に笑っていた。
「そして、さようなら。もう貴方は用済みです。だって貴方は、偽物なんだから」
『さようなら、貴方は用済みです。刑事さん』
ここまで振り回してしまった謝罪をしたいけれど、そんなことをすればまた、この少年から離れられなくなる。
林檎は、だからこそ、徹底的に、多原を突き放すことに決めた。そうすることこそが、林檎への罰であり、あの子への償いだからだ。
多原は明確に傷ついていた。何かを言おうとしては口を開いているのに、言葉が出てこない。それは彼が偽物だからでーーとっても、優しいからだ。
林檎は卑怯なことをした。
多原がこれ以上踏み入ってこれないように、彼への罪悪感を、彼からの唯一の贈り物のように語ってしまったのだ。
だから、多原は手を出せない。優しい彼が、死者からの贈り物を取り上げることなんて、できるはずがないのだ。
林檎は、踵を返して歩き出す。多原は、その場に、根が生えたように立っている。後でタクシーを呼んで、無事に本州に返してあげなければ。
まったく、格好がつかない。こんな僻地で、別れ話をするなんて……
「待って、ください」
絞り出したような声が、その場に、響いた。
林檎が振り向くと、そこには、立っているのもやっとという顔をした、多原が立っていた。
「林檎さんが、罰を受けたいなら、それでいいです」
一歩一歩、林檎に、近付いていく。
「だけど、真実っていうのは、腐るほどあるんですよ」
「そんなの、慰めにしかーー」
林檎が自嘲したその時。多原は、かっ、と目を見開いて。
「現場百遍、そのあとは二百遍。魚屋さんは、主人公のことを守るために、あんな事件を起こしたんです!」
「…………?」
林檎は、素でキョトンとしてしまった。
え?
多原の熱弁は止まらない。
「現場百遍では、魚屋さんが黒幕であることしかわからなかった。だけど、現場を二百遍したら、真実が見えてきたんです!」
「ええと、さかな、や?」
「そうです。魚屋のおじさんが黒幕であったことも事実、だけど、魚屋のおじさんの起こした事件の中には、主人公を守ろうとした痕跡があった。結局、魚屋さんはそれを認めなかった。けれど、主人公は、“都合の良いこともまた真実”だと言って終わるんですーー林檎さん」
「は、はい!」
気付けば、多原が目の前に来ていて。林檎の肩に手をかけようとしてちょっと躊躇していた。
「“都合の良い真実”を、探しに行きましょう」
その様子を見ていた橿屋は、「嘘だろ」と思った。
なぜならば、多原が言っていることは、ぶっちゃけ延期に延期を重ねまくった夏の刑事ドラマの内容だったからだ。
橿屋も考察勢だったので知っているのだが。
ーードラマと現実をごっちゃにしてやがる……!
そういえば現場百遍って、あのドラマの主人公の口癖だった。
あと、林檎の言った台詞も微妙に、あのドラマのラスボスの台詞と被るのだ。
それが、多原の中で妙な化学変化を起こしたというのか。
「罪悪感だって、大切な贈り物です。だけど、彼が遺してくれたものは、本当に、それだけですか?」
「……っ」
今度は、林檎が言い淀む番だった。罪悪感というものは結局、思い出が美しければ美しいほどに深くなるものなのだから。
橿屋は、顎を指でなぞった。
ドラマと現実をごっちゃにしているが、“都合の良い真実”というのは悪くない。林檎が手放したくない罪悪感を認めながらも、その上で、新しいものを得ようと、提案しているのである。
多原は、しかし、あくまでも真剣な表情。
「現場はね、逃げないんです。百遍しても、二百遍しても。新しい真実が見つかる。それが刑事課のやりがいだって、源さんも言ってました」
「……ふふっ、源さんって、誰ですか?」
林檎の目には、光るものが煌めいているのだが、おそらく、多原は気付いていない。熱弁する。
「とある事件を追っているうちに、陰謀に巻き込まれ、エリート街道を転落した先輩です」
「そうなんですね」
……気付けば。
先ほどまでの雰囲気なんて吹っ飛んで、あのドラマについて林檎が質問しては多原が答える、謎の空間になってしまっていた。
橿屋は、頬を緩めそうになり。ふと、気付く。
ーーあれ。
今思い出したけど、林檎はそのドラマを知っている。
なぜなら、島崎の子息と繋がっていて、多原の情報を逐一仕入れていたからだ。
彼女はわざと、知らないふりをしているのである。
ーーやれやれ。
仲直りのきっかけを掴めないから、知らないふりをするなんて、とんだヘタレお嬢様だ。
橿屋は、肩をすくめーー
「あっ、橿屋さん。さっきの与野崎傑さんの写真、見せてもらっても良いですか? 現場二百遍したいので」
「ああ、わかったよ」
橿屋は快く応じた。
偽物だっていいじゃないか、なんて、死んでも口にはできないけれど。お嬢様のそばには、この少年がいてもいいじゃないかと、橿屋は思うのだ。
興奮した様子の多原に、橿屋は、写真フォルダを開いてからスマホを渡す。多原はなぜか固まった。
「あれ、そういえば、ロック……」
「ん、ああ。わりと指の動きがわかりやすかったから、パスワードはわかるよ」
言って、橿屋は後悔した。やばい、前世の癖が。ぶんぶんと手を振る。
「嘘嘘、本当は、スマホがロック状態にならないようにずっと起動させ続けてただけだよ!」
「なぁんだ、そうだったんですね!」
失礼ながら、純粋で助かった。橿屋が胸を撫で下ろしていると、そばに寄ってきた林檎が、こほんと咳払いした。小声で聞いてくる。
「橿屋、私は多原様の言葉で、嬉しくなってしまいました。これは、あの子への裏切りでしょうか?」
橿屋は、頭に手をやった。
「いーんじゃないですか。ていうか、よく考えたら、あの子が唯一無二である以上、偽物? に心動かされたって、裏切りにはならないと思いますよ」
「ふふ、貴方らしいですね」
林檎と橿屋が小さく笑みを交わしていた、その時である。
「あ」
多原が声を上げた。
「この人、あの時、写真撮ってくれたおじさんだ!」
「「???」」




