見ないふり
「あなた、は……」
「うん?」
少年は、ニコニコしながら、首を傾げた。すんでのところで出掛かっていた言葉を、林檎は喉の奥に飲み込んだ。
「い、いえ。お父様は、大事にしてあげてくださいね?」
「うん、わかった!」
素直に頷く少年。林檎は、そっと胸を撫で下ろし、咄嗟に出た言葉に、心の中で苦笑してしまう。
自分が父親とケンカした話をしたばかりだというのに、何を言っているんだろうか。だが、こればかりは、林檎の本心でもあった。
林檎が決定的なことを言えなかったのは、それが、少年の父親の本意ではないと思ったから。
林檎はあくまでも、少年の正体に勘付いていないことにしなくてはならない。
でなければ、少年を傷つけることをなによりも恐れる彼の父親が報われないだろう。
考えてみれば、この少年は、最初からおかしかった。
麦わら帽子を深く被り顔を隠し。
名前を名乗ってはいけないと言われていて、
人と接触をすると父親が泣いてしまう。
何より、少年の話からうかがえる、過保護すぎる父親の態度。
ーー間違いない、この子は……
「あの療養施設で暮らす子だろうな」
林檎がようやく導き出した答えに、父は、すでにたどり着いていたらしい。
とぼとぼと帰った林檎を、「おかえり」と出迎えてくれた。心なしか、いつもより声がやわらかい気がした。
夕暮れに、ぽつんと見える白い塔。
窓の外のそれを見ながら、林檎は、父と向かい合って、夕食を食べた。
「林檎の話を聞いた時、すぐにわかった。この島には、小学生くらいの子供はいないから」
「では、あの子は、本州から来ている子なのですか?」
「そう考えて良いだろう。なにか病を患って、終の住処として、父親が、ここを選んだ」
終の住処。
林檎の胸が、ずんと重くなる。あんなに元気そうだった少年の内側は、病に冒されているのだ。
林檎は、俯いた。
「どうして……言ってくれなかったんですか?」
言ってくれたら、林檎は、あの少年を炎天下に呼び出すこともしなかったのに。体に負担をかけなかったのに。
すると、父は、ばつが悪そうに頬をかいて、小さく、頭を下げる。
「林檎が、あまりにも楽しそうに話すから、言い出し辛くなってしまったんだ……すまない」
「私が、楽しそうに?」
父とのコミュニケーションを避けるための道具。あの時は、せいぜい、そうとしか思っていなかったはずなのに。父は、眼鏡の奥にある目を細めた。
「鏡に映して見せてやりたいくらいだったよ。ふだんおとなしい林檎が、身振り手振りを使って、目をキラキラとさせながら、“友人”のことを話してくるんだ。よっぽど、彼のことが気に入ったんだね」
「〜〜っ、そ、そんなことは!」
なぜか、頬が熱くなって、林檎はぱたぱたと手で仰いだ。
「あ、あんな頼りなさそうな子ッ」
「そうか、そうか」
生暖かい視線を感じて、林檎は頬を膨らませる。そんな林檎に、口元を緩めて、父が言う。
「けれどね、きっと、その男の子も、林檎と話していて楽しかったんだろうなと思うよ」
林檎は、目を見開いた。父は何も言わずに頷いた。
「父親に泣かれるとわかっていながら、林檎に会いにきたのは、そういうことだろう?」
「ま、まあ、療養生活は、刺激が少ないでしょうし」
林檎は、つんとそっぽを向いた。父が苦笑した気配がした。
「その上で訊くよ。林檎、お前はどうしたい?」
「あっ、来てくれたんだ!」
ガードレールにもたれかかっていた少年は、いつものように、麦わら帽子を深く被りながら、ぶんぶんと手を振った。
林檎は、呆れて、悲しくなって、それから、嬉しさの感情が徐々に、体に染み広がっていくのを感じた。
「約束は、今日はしてないですけど」
天邪鬼が顔を出す。少年が難しそうな顔になる。
「たしかに。どうして来てくれたの?」
「あっ、あなたに」
会いたいから、と続けようとして、林檎は踏みとどまった。左手を腰に当て、右手でビシッとお行儀悪く、少年を指差す。
「あなたに一言、言いたくて来たんですの!」
ああ、どうして自分はこうなんだろうと、林檎はその場にしゃがみ込んで頭を抱えたくなったけれど、それもやめた。この少年のことだから、変なふうに勘違いしそうだ。
「なになに、良いこと? 悪いこと? 悪いことだったら、ちょっと困るなぁ」
ガードレールから離れた少年は、林檎に近づいてくる。夏にふさわしくない長袖を着て、腕をぐるっと回す。なにかの程度を示すように。
「だって、悪いことはたくさん聞いてるから!」
誰に、どのようなことを、とは、死んでも口に出せなかった。林檎は、無邪気に笑う少年が、決して無傷ではないことを、いまさらながらに知った。
そして、願わずにはいられなかった。少年が、この島で、穏やかに生きていくことを。
それから、林檎は作戦を決行した。こほんと咳払いして、自分のペースを取り戻す。
「少しだけ悪いことです。良いですか、紫外線は、お肌の天敵なのですよ」
「な、なんか、お父さんみたいなこと言うね……」
「あらそうですか、偶然ですわね。とにかく、遊ぶなら、こーんな熱い日差しの下ではなく、もっと涼しいところで遊びましょう」
「本当は、療養施設の近くで遊びたかったのですが。それだと、彼のお父様が来た時に、ひっくり返ってしまいそうですから」
林檎さんは、ティーカップを手に持って、小さく笑っていた。きっとそれは、少年との思い出を振り返っているのだろう。彼女たちだけの、大切な思い出を。
シュークリームを食べ終わった多原もまた、微笑んでしまう。幸せのお裾分けというやつだ。
「多原君、食いっぷりがいいねぇ。もっと食べる? ていうか、食べるよな」
がちゃんとドアが開いて、橿屋さんが有無を言わさず、今度は木の皿に袋から開けたせんべいをばらばらばらっ、と落としていく。多原があわあわしている間に、とぽぽぽ……とグラスに何かのお茶を注いでくれる。コーヒーみたいで綺麗だ。
「黒豆茶だよ。召し上がれ」
「あっ、ありがとうございます」
多原は、昨日の円佐木さんを思い出してしまっていた。
夕食を食べられなくなるからとちっちゃめのパフェを頼もうと思ったのに、でかいパフェを頼まれてしまった思い出である。
すでに多原の胃には、ケーキとシュークリームが入っている。多原とて食べ盛りの高校生だが、夕食に支障が出るのは明らか。
だが、なんか断りにくかった。橿屋さんは得意そうに笑ってるし、林檎さんは、頬に手を当てて、多原が食べているところを観察している。見てはいけないものを見ているような気分だ。
多原がせんべいを一枚食べ終わると、満足した様子の林檎さんが、再び話し始め、橿屋さんが一礼して退室した。なんだったんだろう、この時間は。
「私たちは、たくさんのことをしました。木の陰になるところを本拠地にして、どちらがより綺麗な貝殻をとってこられるかを競い、砂のお城を作って一大帝国を作り上げ、どんな生き物がいるかをお互いに発表したりしました。それから、活動範囲を広げて、林の中を探検したり、昆虫を採って逃したり……これは、その子の趣味でしたが、でも、私は、その子が楽しそうな顔をしているのを見るだけで、楽しかったんです」
多原がほっこりしたのは、黒豆茶を飲んだからだけではないはずだ。
それなのに、林檎さんの顔は、話すたびに、辛そうなものになっていく。
「あの写真を撮ったのも、そのときでした。地元の方が、海を背景に、ポラロイドカメラで撮ってくれたんです」
そして、その場で写真をくれた。
「ええ……地元の方と、思っていたんです。写真をもらうまでは」
「思っていた?」
多原は首を傾げる。
林檎さんは、頷いた。
「はい、どうぞ」
よく撮れた写真だった。
帽子を深く被り、サングラスをした男性は、林檎の目線に合わせるようにかがんで、写真を差し出した。
「ありがとうございます」
林檎はお礼を言って、写真を受け取ろうとした。が、その写真は、少しだけ林檎から遠ざけられた。
「……?」
「これをあげるから、もう、息子に関わらないでくれないかな」
小さく放たれたその言葉と共に、写真は、林檎の手に渡ってきた。林檎は目を見開いた。
「あなた、は」
男性は、唇に人差し指をあてた。
男性の正体に気付いていない少年が、首を傾げながらこちらを見てくる。林檎は、どういう顔をしていいかわからない。
ずっと、見ないふりをしていたものが、眼前に突きつけられたのだ。




