30話 意地悪な義姉
穏やかであるふりをした午前。辛うじて皆日常を取り繕おうとする。
いつものように郵便やから手紙を受け取り、いつものように仕事に励み、いつものように私は刺繍をしていた。貴婦人の嗜みとして刺繍は必須だ。勉強やマナー、ダンスと子供のころから叩き込んできたが、一番うまくできるのも、一番好きなのも刺繍だった。何もない無地の布の上に、美しい模様が刺しこまれていく。手を動かさなければ完成せず、平凡な自分の手を動かすだけでも美しい模様が浮かぶその作業が好きだった。
自分が特別でないことくらい、最初からわかっていた。
目を引くほど美しいわけでもない。
抜きんでて心優しいわけでもない。
不思議な魔法を使えるわけでもない。
妖精や動物と心通わせられるわけでもない。
貴族という他になんのラベルも持っていない。なんのラベルも持てない、平凡な男爵令嬢だった。
それでも、私はかつて夢を見た。
いつか王子様が見初めてくれる夢を。
いつか自分が誰かの特別になることを。
自分にはわからない運命が、自分をさらってくれることを。
諦めきれなかったのはひとえに、この世には不思議なことで溢れているからだ。
その不思議なことの中に自分が織り込まれていなくとも、いつか自分が不思議の主人公になれるのではないかと。
私は、何者にもなれなかった。
何者にもなれないまま、私は死んだ。
そして私は再び生まれた。また、何者にもなれない私に。
妹は選ばれた。何者でもなかった妹は、数えるほどしかいない奇跡の行使者となった。弱い弱いと自虐しても、彼女は選ばれた特別な者だった。特別な者になれた。
人の目には見えない妖精と話し、人智を超えた奇跡を片手間に起こす。唯一無二の師を持ち、同僚に恵まれ、国家元首の膝下で働く。
再び生まれても、私は私のままだった。
そんな私のまま、街で一人の魔法使いに声をかけられたとき、私はようやく救われたと思ったのだ。才能もなく、勇気もない。そんな私でも死という運命から免れるのだと。
奇跡は誰にでも起こりうることで、私にとってはそれが奇跡そのものだったのだと。
けれどそんな希望は一瞬で、消えてしまった。
魔法使いが欲しかったのは最初から私ではなくシンデレラだった。
どこまでも私は道化だった。ただの馬鹿だった。
努力もせず、身の程知らずな夢を見ては、裏切られたのだと落胆する。まるで物わかりの悪い子供。一度死んでもなお、期待を捨てられなかった。ただ生き残るのではなく、幸せになりたかった。
この世のものとは思えないガラスの時計を、魔法使いの妹に渡した夜。
私は持っていた宝石をすべて一つの箱にしまい込んだ。
日に透かされる草花を閉じ込めたエメラルドのネックレス、深海を注ぎ込んだようなサファイヤのブローチ、永遠に瑞々しいザクロのようなルビーの指輪。
私は持っていた華やかなドレスをすべてクローゼットにしまい込んだ。
煌びやかな金の刺繍、九重の花のようなフリル、豪奢な毛皮。
私は持っていたあらゆる装飾品をしまい込んだ。
それはすべて、私の武器だった。私の祈りだった。
美しければ幸せになれると。
美しければ選んでもらえると、本当に心からそう思っていた。
けれど高価なアクセサリーは、私を鳥から守ってはくれない。
豊かなドレスは、私を病からは守ってくれない。
美は決して正義ではなかった。特に中途半端な美は、何も生まない。
私は、私を幸せにしてくれないものに縋らない。
私は、私を守ってくれないものを信じない。
装飾も何もないリボンで髪を結いあげる。クローゼットの奥からかつて数度着ただけのキュロットやブーツを引っ張り出す。
母は言った。美と教養こそが貴族婦女の価値を決めると。
それがあれば有力な男性と結婚できると。そうすれば幸せになれると。
それはきっと間違っていない。けれどそれで押し通れるほど、私は美も教養も持ってはいなかった。
何もかもが無難でほどほど、短所もなければ長所もない。悪くもなければよくもない。よく言えばバランスが取れてる。悪く言えば没個性。
「それなり」は、社交界を歩く衣装として悪くない。誰かに嫌われることも敵視されることもない。でも「それなり」の能力は、私を命の危機から守ってはくれない。
私の人生でもっとも、強さに触れたのはいつだろう。
私が最も強かった瞬間はいつだろう。
馬丁を言いくるめ、こっそり馬を1頭借りていく。
一つに結んだ髪が軽やかに揺れる。頬に触れる風は強く、今までの自分を削ぎ落すように吹き付ける。
一定の間隔を刻む蹄の音に、心が落ち着いていく。怒りも苛立ちも悲しみも絶望も、走れば走るほど振り落としていくようだった。
「エルムルス、エルムルスいる?」
馬を止め、森の中の小さな小屋の扉を叩く。けれど返事がない。裏手に回って窓を覗き込むと、鷹のような金色の目があった。無表情が嫌そうに歪む。
「エルムルス、入れて」
「……なんだって貴族のお嬢さんがこんな汚ねえ小屋に来るんだ」
不承不承、という雰囲気を隠すことなく、のろのろとエルムルスは扉を開けた。気が変わる前に身体を滑り込ませ小屋の中へと入る。
室内なのに木や土の匂いが強い。裏の方からは血や肉の匂いがした。大きな作業台の上に鹿の毛皮が広げられている。
エルムルスは森の住む猟師の一人だ。猟師にしては年若いが、腕はいい。害獣が出たとなると彼は必ず現場に出ては、きっちり獲物をしとめてくる。ただ人との対話がとにかく苦手、というよりやる気がなく、仲間もいなければ友人もいない。
そんな彼がデルフィニウム家に狩猟のいろはを教えたのはもう2年も前になる。狩猟は貴族の嗜みだ。メインは男性のスポーツだが、女性もやる機会がないでもない。その関係で父が手配したのだ。
そうしてエルムルスは私とカトレアに銃の扱い方獲物の探し方、隠れ方を教え込んだ。
私はその時、1頭の鹿を撃ち殺した。決して大きくはなかったけれど、私が初めてにして唯一奪った命だった。
私はきっと、あの瞬間が最も、強かった。
「エルムルス、私にもう一度銃を教えて」
小さな目がかすかに見開かれる。そして小馬鹿にしたように笑った。
「はっ、何をいまさら。どんな気まぐれか知らねえが、しがない猟師は自分の食い扶持稼ぐのに精いっぱいでな。お嬢ちゃんの遊び相手になるほど暇じゃあないんだ」
思わずカッ頭に血が上る。今すぐその横っ面をはたいて小さな小屋を蹴倒してしまいたくなる。けれど自分の弱さが、その激情を押さえこんだ。短気は損気だ。私は変わった。自分の感情だけで動いたとき、損するのは自分自身だ。怒りを抑え込むのは、多少シンデレラのせいで慣れてきていた。
「……馬鹿にしないで、遊びじゃないの。私はあなたを雇いにきた」
「雇う? なんだいパパからもらったお小遣いをこんな森で使おうなんざ酔狂だな。街でお菓子でも買ってきたらどうだ」
「お父様は死んだわ」
淡々と事実を告げる。先ほどよりも、強く驚愕の表情が浮かぶ。耳を疑うように、私を凝視するエルムルスに、一匙ほどの冷静さが心に流し込まれた。その瞬間、私は私の知らない私になった。
「お父様は死んだわ。男爵家に男爵はいない。その妻と、未成年の子供が3人いるだけ」
「旦那さまが……」
「お父様は私たちを守らない。誰も私たちを守ったりしない」
勢いのまま言葉を紡げばいい。
高慢な貴族令嬢らしく彼を見下ろせばいい。
罪悪感は抱くものじゃない。抱かせるもの。
私は泣かない、縋らない。憐れみを乞うたりはしない。
力強く、気高い有様のまま、私は彼を見下ろした。
「私は私たちを守るために力が欲しいの」
誇りを捨てず、遜らず、媚びを売ることも覚えない。
エルムルスの目に戸惑いが、憐みが、悲しみが浮かんでは消えていく。
父と彼がどういう関係だったかは知らない。きっとエルムルスにとって、一時の下級貴族の雇い主ではなかったのだろう。私はそれ以上何も知らない興味もない。
森の中に一人、世間から離れて暮らす彼は、父が死んだことを知らない。無論、その死因も。
「私があなたを雇うわ。望むものを言いなさい」
「……男爵家にそう余裕はなかったと思うが? 吹っ掛けたらどうするつもりだ」
「馬鹿ね。自分たちの命綱を値切るわけないじゃない」
ぐう、とエルムルスが喉を鳴らす。
彼は知らない。何も知らない。
偏屈で純朴な年若い狩人は、何も知らない。だから想像する。
煌びやかなことが好きで、やかましく、高慢な少女。そんな貴族令嬢が髪を雑にまとめ、ドレスからキュロットに着替え、お付きも連れずに一人、馬で駆けてきた。
「無関係のあなたに、私たちを守れとは言わないわ」
今男爵家がどうなっているのか。
どんな危険が迫っているのか。
デルフィニウム男爵がどんな風に死んだのか。
偏屈で心優しい青年は考える。
私は彼を騙さない。
ただほんの少し、言葉足らずなだけで。
「私に力を貸しなさい。私たちが生きるために」
私はとっても、意地悪だから。




