私には、現実が見えすぎている。
午前四時。ほとんど無いに等しいくらいのベランダから私は空を見上げた。
薄ら明るくなった空に、白く平べったい月がぽっかりと浮かんでいる。話し声一つ聞こえないこの世界はまるで死んでいるみたいだ。
私はスマートフォンを開き、月の写真を撮る。
ぱしゃり。
画面にはじわりと滲んだ白が浮かんでいる。この瞳には綺麗に写っているのに、ファインダーを通すと世界はいつも霞んで歪んでしまう。
「……ああ、」
瞼を閉じると嫌な言葉が脳に流れ込んでくるから困る。おかげで、今日もこのようにうまく眠れはしない。ほとんどの人間が正しい眠りについているというのに。
夜は好きだった。余計な言葉が、表情が入ってこないから。誰かの不機嫌な顔を見なくてもいいから、怒鳴り声を聞かなくてもいいから。穏やかな安定した夜。それは私だけの世界。その世界では私は女王で、誰のいうことも聞かずに済んだ。
それなのに。文明はどんどんと進化していって、自宅にいても、どこにいても、どんな時間も誰かとつながることを求めている。こんな静かな夜でさえ。
私は、スマートフォンを開いて、SNSの波に流される。
ハル——仲の良い友人がつい先ほど投稿した言葉にお気に入りを送る。
そんな中、SNSの波に流されて行きついた先、目にとまる一つの言葉。
『あの子、暗いし、何考えているかわかんないよね。』
これは、きっと、私の事なんじゃないだろうか。
名前は隠されているが、そのアイコンに映る右手首のほくろに見覚えがあった。顔見知り程度のあの女の、高い笑い声が頭の中で響いている。
「ああ、もう……何してんだ、私は」
全ての思考を消し去るように、頭をぶんぶんと降る。それでも、まだ暗い思考が頭の隅に残っている。いっそ、記憶も全部消してくれたらな。悲しい過去も、消えない痛みも、忘れ去ることができたらな。そしたら、きっと私は、前を向いて歩き出すことができるのに。
ああ、でも。見えすぎるこの目じゃ、また全てを見てしまうだろうか。
また、自分の欠点にも、他人の隠された言葉にも、気付いてしまうだろうか。だとすれば、この苦しみから逃げることはできないのか——。
私は両眼を覆った。暗い影はまだ私だけを覆って消えてくれはしない。
——不意に、スマートフォンが揺れた。
着信の通知。ハルだった。普段はこんな時間に電話をかけてくるような人間じゃないのにと考えながら、急ぎの要件だったら困ると電話をとる。
「……やっほ〜」
電話相手は思ったよりも、呑気な声で私に挨拶をした。肩の力が急に抜ける。
「びっくりした、こんな朝早くに連絡してくるなんて何かあったのかと……」
「さっき、お気に入りしてくれたじゃん。もう起きてるんだなあって思ったから電話しただけだよ」
ハルはケラケラと笑う。その屈託のない笑いに心を塗りつぶしていた黒が霞んでいく気がする。
「ふふ、まだ起きてる、だけどね」
「えっ、完徹? 何してたの」
「何にも……ただ、空見てた」
スマートフォンを耳に当てながら、私は再び空を見上げる。青色はすっかり明るくなっていて、遠くで始発電車が線路を走っていく音が聞こえた。
「おお、良い天気だねえ」
電話の向こうでガラリと窓を開ける音が聞こえた。ハルは小さく伸びをしてるのか、気持ちよさそうに呻き声をあげた。その声を聞いているだけで、私の猫背もほんの少しだけ伸びる。
「……そうだね」
「せっかくだしさぁ、ちょっとはやい電車に乗って、モーニングでもいっちゃう?」
「……うん」
「よーし、じゃあ着替えて集合だよ」
電話を切ろうとしたとき、ハルが何かを思い出したように大きい声を出したからそのまま耳に近付ける。
「……どした?」
「言うの忘れてた! おはよう!」
そのおはようの自然な響き、柔らかくてハリのある声。嘘一つない、滑らかな呼吸。
「……ふふ、おはよ……」
「じゃ、また! あとで!」
ガチャリと一方的に切れる電話。通話が終わった後も、彼女のおはようを思い出して、くすくすと笑ってしまう。胸がくすぐったくて、暖かい。シルクのベールに包まれているみたいだ。
私は急いでドレッサーから来ていく服を探す。ジャージに白いレースがふわりと揺れる。胸元の小さなリボン。チェーンのついたパンクロックなチョーカー。お気に入りの青い石の指輪。シンプルなシルバーリング。
「……うん」
鏡に映る自分は大好きなものに包まれている。窓から入ってくる光に照らされて、ぴかぴかと光っているようにさえ見える。自分は思っているよりも悪くない。そう、思わせてくれる。ほんの少し、胸を張って歩けるような気がする。
「いってきます」
誰もいない部屋に声をかけて、待ち合わせ場所に向かう。外は、朝の冷たい空気の匂いがした。肺いっぱいに酸素を吸い込めば、心がかすかに弾む。
どこかで車のエンジン音がする。名も知らぬ小鳥のさえずり、部活の学生の掛け声、玄関のドアを開けて誰かが出かける声、焼きたてのパンの匂い、朝日の眩しい光に照らされ、ぴかぴかと輝く世界、それから。それから。
朝日に背中を押され、私たちはどこかへ向かっていく。朝がくるのだ。