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負社員  作者: 葵むらさき
82/83

第82話 踏んだり蹴ったりうんざりがっかり

 ブナの木肌に、朝日の紅が色をつける。あたかもその皮の下に、血潮が流れているかのように、まるでそこには摂氏三十六度ほどの体温があるかのように、温かそうに見える。

 ――君の中には、誰かがいるの。

 ふとそんなことを訊ねてみたくなる。

 スサノオ。

 そう呼んでもいいのか、あの“新参者”は最後、結城の体の中に潜り込むようにも見えたが、同時にこの星に棲息するあらゆる木々の中に潜り込むようにも見えたのだった。どうすればそんなことができるのか、とふと不思議にも思ったが、例えばそれぞれの生物の体――依代、といっていたか――を順繰りに経巡っているのかも知れないし、あるいは真実同時に、あらゆる依代の中に潜り込める性質の神なのかも知れない。

 そんな神がこの星に、一体どこからやって来たのだろう――


          ◇◆◇


「おはようす!」結城が叫ぶ。

「おはようございます」本原が頭を下げる。

「おはようございます」時中が軽く頷く。

「皆さん、おはようございます」研修室の中で三人を待っていたのは、初めて見る相手だった。「昨日はゆっくりお休み頂けましたか」微笑むその人は、グレージュのパンツスーツを身に纏う、大人っぽく上品で綺麗な女性だ。

「はいっ」結城が叫び、

「はい」本原が頷き、

「はい」時中が軽く頷く。

「それは何よりです」女性は柔らかく微笑む。

「ええと」結城が自己紹介に入る。「初めまして、私は結城修と申します」

「本原です」

「時中です」他の二人も続く。

「あ」女性はきょとんとした顔になったがすぐにまた微笑み「すみません、失礼しました。私、天津です」と自己紹介返しをした。

「あま?」結城が訊き返し、

「天津さん」時中が眉をひそめ、

「天津さま」本原が口を抑える。

「天津さんの、奥さんですか?」結城が訊き、

「天津さんは独身だろう」時中が否定し、

「天津さまの奥様は木之花さまではないのですか」本原が確認する。

「えっ、あの二人そういうあれ?」結城が叫ぶ。

「あの、天津本人です」女性は両手で空気を押さえ、苦笑混じりに説明する。「天津高彦です」自分を指差す。

「天津さん?」結城がいよいよ声を大にして叫ぶ。

「その体は」時中がいよいよ眉をひそめる。

「新しい依代なのでしょうか」本原が両手で口を抑える。

「新しいというか」天津は眉尻を下げ、元の天津らしい表情を見せた。「たまたまうちにも在庫がいくつかあったようで……差し向きこれを使えという事になって」

「まじすか」結城が叫ぶ。「誰の指示すか」

「えーと」天津は白く細い頸を傾げた。「全員?」

「何故女性型の拠代に」時中が首を振る。「男神たちの趣味ですか」

「まあ」本原が溜息混じりに訊く。「セクハラでしょうか」

「いや」天津はますます苦笑する。「ヒト型がこれしかなくて」


          ◇◆◇


 かたかたかたかた

 かたかた

 かたかたかたかた

 かた


 キーボードの打込み音が続いていたが、ふとそれが止む。

「むうう」低く呟く声がする。「なかなか厳しいなあ」

 何がですか、と思わず訊ねたくなるのだが、恵比寿は黙っていた。厳しいのは恐らくコストのことだろう。マヨイガを介さず、人間達の技工品を組み合わせ、そこに神力を発生させるべくシステム改変を加える為にかかる費用は、なかなかに莫大なものとなるのだ。品質を落とすことはしたくないが、ぎりぎりの線までどこまで持って行けるか、試算に次ぐ試算に鹿島は追われていた。

「むうう」再度低い唸り声がする。

 恵比寿は、あまりそちらを見ないでいたかったが、とうとう耐え切れずにちらりと視線を送った。

 PCの前で白黒まだら模様のホルスタインが前足の蹄にて頭を抱えている。「むううう」唸る。

 恵比寿は茶を入れるため立ち上がり、音をしのばせて鹿島の背後を通り過ぎた。


 かたかたかた

 かたかたかたかた


 再び鹿島は、前足の蹄にてPCの打込みを再開した。

 恵比寿は思わず振り向いた。「鹿島さん」堪らず呼びかける。

「むう」牛の鹿島が頭を持ち上げ、恵比寿に向けた。

「あ」恵比寿は笑顔になるのを止められなかった。「ミルクでも飲みますか?」

「ミルク?」鹿島は黒く潤んだ瞳を見開いて訊いた。「あれ、お茶ないの?」

「あっ」恵比寿は飛び上がり叫んだ。「あいや、はいっ、お茶ですね! お茶ですよね! 入れます今すぐ!」がくがくと幾度も頷く。


 ちゃぷん


 その時、室の隅っこで小さく水の撥ねる音がした。


          ◇◆◇


 よく晴れた空だが地平の少し上の辺りには薄い雲が長くたなびくように存在している。OJT一行のその日の訪問先は、磯田建機よりは町に近い場所だったが、単線の無人駅を下りてから三十分程度歩く必要があった。

「おはようございます」守衛棟の小窓から、女型依代の天津が責任者らしき五十代ほどの男性職員に声をかける。「新日本地質調査の者ですが」

「あー?」守衛責任者らしき男は額に深い皺を寄せながら眉を吊り上げ、女型依代の天津を凝視した。「新日本?」

「はい」天津は頷いた。「御社の坑道マップ作成のお手伝いをさせて頂いてます」

「……」責任者らしき男はぽかんと口を開けたまま無言で女型天津を凝視し続けた。

「あ」女型天津は微笑みを絶やさず「東雲主任にお取次ぎ頂けますでしょうか」と問い合わせた。

「……」責任者らしき男は相変わらず無言のまま、体を左に捻りながら視線だけ女型天津に向け続け、デスク横の受話器を面倒臭そうに取った。「東雲さんに取りついでくれっていうのが来てるけど」電話の向こうの相手が何か答えたらしく「あー。はーい」と不機嫌そうに言ったのち受話器を置き「主棟に行って」と顎で右手を示した。

「えーと、あちらの建物、ですかね」天津は手で敷地内奥にある三階建てほどの大きな建物を示して質問した。

 責任者らしき男は無言でデスクの引き出しを開けがさがさとまさぐっていた。

「あ、では失礼致します」天津が頭を下げ、主棟らしき建物に向かおうと歩を進める。新人たちもその後ろに続く。

「ちょっと!」責任者らしき男はそこでがなり声を挙げた。「これに名前書いてってもらえますかね!」引き出しから引っ張り出したものらしい古びた大学ノートを片手にぶんぶんと振ったあと、デスクの上にばさっと投げつける。古びたノートは小窓から斜め半分ほどはみ出したところで停止した。

「あ、はいすいません」天津は急いで向きを変え、古びたノートのページをめくり、ほんの少し周囲を見回した後自分のジャケットの胸ポケットから自前のボールペンを取り出して記入し始めた。

「普通はきちんとそういうの書いて、番号札受け取ってから入るもんですよ」責任者らしき男は記入する天津を指さしながら教示した。「それが常識」

「あ、はい、すいません」天津は記入しながら頭を下げた。記入後、天津は自前のボールペンを背後に待機する結城に渡した。「あ、では皆さんも、記名をお願いします」その表情は常と変わらず穏やかに微笑んでいた。

 三人は教育担当に倣って古びたノートに氏名を書き連ねた。その後全員無言で守衛室の小窓の前に立っていた。

「えーと」天津が言い淀みながら責任者らしき男に声をかける。「番号札、は」

 言い終わらない内に責任者らしき男がどこかデスクの下からネックストラップ付きのラミネート札が並ぶボール紙製の箱を乱暴に引っ張り出し、ノートの時と同様デスクの上に投げ置いた。箱は小窓からはみ出ずに済んだ所で停止した。

「あ、はい」天津は誰にともなく返事をし、ラミネート札に手を伸ばした。

「勝手に取ってもらっちゃ困るよ」責任者らしき男はがなり声を張り上げ、ノートの記入欄に一枚ずつ番号を、自分のデスクの引き出しから取り出したボールペンで書き写しながら放り投げ渡した。

 天津は素早く、誰が何番の札を身につけるべきかを古びたノートから盗み見てそれに従い新人たちに投げ出された札を手渡していった。「では行きましょう」天津は三人を促し、改めて敷地奥の建物の方へと向かった。

「お名前を教えてもらえますか」本原が小窓の上から責任者らしき男に声をかけた。

「……」責任者らしき男は眉根を寄せて本原を下から見上げた。「は?」訊き返す。

「お名前です」本原は無表情に繰り返した。

「あ?」責任者らしき男は左上腕で巧みに左胸のネームプレートを隠しながら、犬が唸るような声を挙げた。

「あ、いえ」天津が戻って来て本原の肩越しに小窓を覗き込む。「失礼しました」それからごく柔らかく本原の肩を押して先へ促した。

 責任者らしき男は一行が立ち去った後、左胸のネームプレートを見下ろし、面白くもなさそうに鼻を鳴らして訪問者リストと番号札ケースを所定の位置に並べ直した。


「高木さん」


 出し抜けに名を呼ばれ、責任者らしき男ははっと顔を上げた。だが小窓の外には誰もいない。守衛室の中、背後にぐるりと眼を向ける。誰もいない。

「えーと少しは自分の頭使ってもらっていいですか」同じ声がまた聞えた。

 責任者らしき男は大きく音を立てて息を吸い込み、また左右を見回した。誰もいない。

「東雲、さん?」その聞き慣れた声の主の名を呼ぶ。だが返事はない。

「まあ、あの人にもう何言ってもねえ、はは」東雲の声が続けて言う。「あーあ」

「――」責任者らしき男は茫然と座り込んでいた。

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