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負社員  作者: 葵むらさき
39/83

第39話 酸素を吸おうとすると彼奴が瞬時に硫黄に変えるのです

 ――地球を憎いと思った、か。

 地球は、比喩的に溜息をついた。

 それは多分、ほんの数百年前のことについて言っているのだ。地震、噴火、津波。それに続く飢饉、病疫。

 神たちの目の前で、彼らの為に仕事をしていた人間たちが、たくさん命を落していった。神の為に仕事をしているという自覚は人間の方にはなかったかも知れないが、当時も神たちは人間の仕事に感謝し、満足していたものだろう。

 人間たちは当時の為政者の政策をなじり、地震や噴火を天の――つまり神の怒りだと考えた。神たちは確かに怒っていた。しかしそれは人間に対してではなく、地球に対してだったのだ。

 ――けどじゃあ、あの時のことはどうなんだ?

 地球は、比喩的に首を傾げた。

“あの時のこと”――それは、神たちが地球を憎んだ時のものとは比にならぬほどの規模で、地球の環境が一瞬にして大変化した時のことだ。大地は震撼し、海は狂ったように高くせり上がり、山は燃え、そしてその後地表は凍りついた。気違いじみた、あの諸現象。当時そこに多く存在していたのは人間たちではなかったが、彼らもまた、何の手立てもなく滅ぼされていったのだ。飢えと、寒さに耐え切れずに。

 六千五百万年前。

 神は無論、その時すでに地球であれこれ画策していたはずだ。地球の上で、何かをしてやろうと目論んでいた。その為に、爬虫類という生物種を多く生み出していた。それがあの日、完膚なきまでに叩き潰されたのだ。

 しかし神たちはそのことを言い連ねたりしなかった、してこなかった。何故か。

 確かにあの時の“災害”は、外部からの巨大な衝突物によりもたらされたアクシデントではあった。しかし数百年前の“災害”にしたところで、地球システムの普遍的な活動がもたらした結果であり、仕方のなさでいえばどちらも同じようなものではないだろうか。

 にも関わらず神たちは、宇宙を憎いとは思わず、地球を憎いと思った。何故か。

 それは失われたものが、違うからだ。六千五百万年前に失われたのは、恐竜をはじめとする多くの生物種で――人間たちではなかったからだ。

 どうして神は、人間を愛してやまないのだろう――


 こつこつこつ

 こつこつこつこつ

 こつこつこつ


 新人たちは、幅の広い洞窟で練習用のときと同じように地道に慎重に岩壁を探り始めた。しかし内心、練習用のときとは比べ物にならないくらいの疲労がやがて我が身を襲うであろう事に不安を抱かざるを得なかった。

 研修担当の神はいつものように、端正で気弱げではあるが慈愛に満ちた微笑で頷き、背後から見守ってくれている。ただそれだけで、心の中に淀む影のような不安がまるで風に圧されて退散するかのように、不思議なほどに、ほっとするのだ。

 天津は、そして今は目に見えないところにいる神たちは、今こうして地道に岩を探っている新人たちの仕事に対してもやはり感謝と満足をしてくれているのだろう。

 どうして神は、人間を愛してやまないのだろう――


     ◇◆◇


 城岡部長が“締め出され”た後の事務所内の雰囲気というのは、緊張の二文字以外のなにものでもなかった。磯田社長は何事もなかったかのように、まっすぐ自席に向かいどっしりと腰を下ろすと同時に机の上に置いてあった書類を手に取り目を通し始めた。

 事務職に従事している畑中は、覚悟を決めた表情でそのデスクに近づいて行った。「あの、社長」声帯が震えぬよう、腹に力を込めて声をかける。「今朝、要処理フォルダに入っていたこちらの書類なんですけど」差し出すA4サイズの綴じ物はしかし、小刻みに震えた。

 磯田社長は書類から目を離すこともなく、返事もしなかった。

「ど」畑中はその生物学的本能が『逃げろ』と命じている事にも気づかぬまま、爪先を数センチ前に進めた。「のように、処理すれば」

 磯田社長はさらに二秒間を置いてようやく顔を動かし、手描き作品である眉を思い切りしかめながら若き女性事務員の手にある書類の面を確かめ、そして言った。「この前教えたでしょ、あの通りにやって」

「あ」畑中の大脳は猛スピードで検索を開始した、だが彼女の海馬から『この前教えられた記憶』は引き上げられてこなかった、だが彼女は言った。「はい」

 その書面に書かれたタイトルの一文字とて、今までに見た覚えがなかった。畑中はそれにも関わらず、必死で類推し始めた。これと似た形式の書類は何か。それの処理方法はどうなっているか。社内LANの中のマニュアルにその書類について説明が載っていないか――もっともそれはすでに何十回となく検索済みで、徒労に終わっていた。

 恐る恐る、磯田社長の方をもう一度見る。社長は相変わらず微動だにせず、さっきの書類に目を通し続けている。

 だがそれはフェイクではないのか。畑中の胸中に、不意にそんな考えがよぎる。磯田社長は書類を読む振りをして、今こうして息もできずもがき苦しんでいる自分の様を視界の片隅で観察しているのではないか。

 自分を試す、或いは――単に、楽しむ為に。

 思わず涙がこぼれそうになる。周囲の社員たち――といっても小さな会社の現場事務所であるから、相葉専務と高島課長だけだ――は、見て見ぬ振りをして何も言わずに、否言えずにいる。

 その方が、逆にありがたい。何故なら今助け舟など出されたら、きっと自分の涙腺は崩壊しその場にくず折れ泣きじゃくり始めるに違いないからだ。

 窓の外は、日差しが眩しい。今日は好い天気だ。ああ、早く帰りたい。親兄弟の待つ、温かく愛に満ち溢れたあの家に。

 どうして私は、社長に愛されないんだろう――


 ガレージ内は大小高低の金属音と、シューッというジェット音、ピピピピという電子音が入り混じり響いている。城岡部長は足早に機器類の傍をすり抜け、コードをまたぎ、奥へと進んでいった。そこでは現場担当の社員が三名、油差しを手に機器の周囲にへばりついていた。

「どう?」とかけた言葉に、

「問題ないっす」と返事が返る。

“メンテナンス確認”は実質それで終了だ。現場のものは現場に任せているから、彼らが問題なしとすればそれ以上の介入は不要なのだ。

「婆さんの機嫌損ねちゃったよ」城岡は相好を崩す。

「やべえ」作業服の一人が苦笑で答える。

「今日あれでしょ、“お祈りさん”来る日でしょ」別の作業服の者が続ける。

“お祈りさん”とは、新日本地質調査株式会社に対し、この会社の現場担当たちの間でつけられた呼び名である。

「あの担当の人、名前なんでしたっけ」

「天津さん?」

「そうそう、天津さんのことお気に入りなんじゃなかったでしたっけ、社長」

「うん」城岡は困ったように顔をしかめつつ笑う。「俺がさ、あの人たちいっつも軽装だけど大丈夫なんすかねーつったから、それで機嫌悪くしちゃって」

「あー」

「うわ面倒くせー」

「怖えー」作業服の者たちもそれぞれ顔をしかめて笑う。

「ははは」一緒になって笑うが、城岡はこの目の前に並ぶ笑顔たちも、決して社長に楯突いてまでは自分の味方になどなってくれない事実を知っていた。

 それは、致し方のないことだ。皆誰しも、一番大切なのは自分の身であり、家庭である。それを脅かしてまで、他人の為に動くことはしない。微かな良心の呵責に目を瞑り背を向け、目の前のやるべきことに必死で心を集中させる。

 自分は、孤独だ。そう思う。

 中小企業とはいえど、若くして部長格にまで昇進し、学生時代の友人たちの中では最高値の収入とステータスを手にしている。この地位を与えてくれた会社、つまり磯田社長とその兄である磯田会長には、感謝してもし切れない。少し前の時代ならば、自分は生涯をこの企業に捧げると声を大にして誓っていたことだろう――いや、今の時代においてもそういう精神は息づいているものか。

 けれどそれは、果たして自分の、職務能力以外の部位を見てくれた結果の抜擢だっただろうか? 自分の、人格、性格、話し方、立居振る舞い、人とのコミュニケーションのとり方、そんなものを――いわば仕事における自分の“行間”までをよみ取ってもらえた、結果だったのか?

 何故そんな疑問が沸き起こってしまうのか。どうしても、拭い去れないからだ。自分は社長に嫌われているのではないか、という、恐れが。そうだ。自分は社長に、少なくとも好かれてはいない。笑顔が歪む。

 どうして俺は、社長に愛されないんだろう――


     ◇◆◇


「いやあー、今日の初デビュー戦はなかなか大変だねえ」結城が額の汗を拭いながら言い、ペットボトルから緑茶をぐびぐびと飲む。

「初デビュー戦というのはおかしいです」本原が指摘し、ペットボトルから麦茶を飲む。

「あそうか、腹痛が痛い的な言い方か」結城が岩天井を見上げて言い、再度ペットボトルから緑茶を飲む。

「――」時中は言葉もなく、溜息をつきペットボトルから烏龍茶を飲む。

「お疲れ様です」天津は笑顔で労わりの言葉をかける。

「この岩壁をすべて、叩き続けなければならないんですか」時中は訊いた。「無限に」

「そういうわけでも、ありません」天津は首を振る。「まずはコツを掴んでいただこうと思って、特にヒントなども出さなかったんですが、ここからはある点に注意を向けながら進んでいってもらいます」指を立てる。

「おお」

「まあ」

「注意点」三人はペットボトルのキャップを締め始めた。

「はい」天津は頷く。「岩の“目”というのは、開いて中に入るとご存知の通り、金色に近い色の光を放った空間になっています。この光は何から発せられているのか、実はまだ解明されていません」

「へえーっ」結城が叫び、

「まあ」本原が溜息混じりに驚き、

「超常現象ですか」時中が質問した。

「はい、俗にいう超常現象の類にはなります」天津は頷く。「ですがこの光が何であれ、それを外部から捕捉する技術を、我々は手にしています」にこりと笑い、三人の腰のホルダーを手で示す。

「あえ」結城が目を丸くし、

「これですか」本原がきらきらとさんざめく機器を取り出し、

「これで?」時中も取り出しながら質問する。

 結城が二人に一歩遅れ、慌てて機器を引っ張り出すがその拍子に落っことしそうになりあたふたと暴れすんでのところで手に収める。


 ――一度や二度すらっと駆け抜けただけで、記憶も理解もできるものじゃないだろうに。

 天津はにこにこしながら、そんなことを想っていた。彼だけでなく、もしかしたら社の者全員が想っていたかも知れない。

 ――教えたあと、ちゃんと呑み込めているか伝わっているか、フォローとチェックはしたのか? それなくして『この前教えた通り』というのでは、職務怠慢と謗りを受けても文句は言えないぞ。

 そっと、岩天井を見上げる。

 ――社員のコミュニケーション能力云々を言う前に、その社員自身に対するコミュニケーションのあり方について確認はしたのか? やる気のあるなしを問う前に、モチベーション維持を図る措置は取られていたか?

 磯田建機。ここも、余り人が続かない、離職率の高い企業だと聞く。とはいえクライアントの運営方針に、そこまで立ち入ることなど無論できない。何しろ自分たち『新日本地質調査』は、あくまで人間のルールに則って立ち上げ、業務を執り行っているものだからだ。

 ――しかし、どうして……

 天津は心の中でそっと溜息をついた。

 ――どうして人間は、人間に対してこうも厳しいのだろう。


「はい」天津は頷いた。「ではこれからあの光の捉え方を、じっくりレクチャーしていきます」

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