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負社員  作者: 葵むらさき
37/83

第37話 クライアントの悪口はマントルまで持って行け

 翌日、研修室に集合した新人たちに最初に告げられたのは、研修内容の変更についての事だった。

 正確にいうと、研修内容の前倒し、である。つまり、本来の予定ではあと一日、練習用の洞窟にてイベント遂行手順の演習を行い、その後から現場でのOJTになるはずだったのだが、急遽それを一日分繰り上げ、本日ただ今より実際に受注した現場に向かい、天津立会いのもとでイベントを執り行うというのだ。

「大丈夫なのでしょうか」本原が無表情ながらも不安げな言葉を口にする。

「大丈夫です」天津は大きく頷く。「実際に傍にいるのは私ですが、もうおわかりの通り、我が社の者全員が影からサポートしますので」

「結界ですか」時中が確認する。

「はい」天津はまた頷く。「例のスサノオがまたちょっかいをかけてくる事を思えば、下の洞窟よりも現場の方が、却って安全なのではないか、という見解のもとで対応する事になりまして」

「へえー」結城が何度も頷く。「それはあれですか、下の洞窟だと向こうも勝手がわかっちゃってるから、妨害工作とか実行しやすいって事ですか」

「そうですね」天津は肩を竦めた。「有り体にいえば、練習用洞窟だと狭くて、いざという時逃げるのが困難になる可能性がありますのでね」

「結局最後は逃げるんですか」時中が鋭く眼鏡を光らせる。「結界を捨てて」

「万が一、の場合です」天津は慌てて両手を振る。「万が一、地球システムが良くない方向に連動してしまった場合にはもう、イベントを中止して、逃げます」

「労災にならないようにする為ですね」本原が溜息混じりに頷く。

「はい」天津は頷く。「皆さんの安全を最優先します」

「ようーし」結城は腕を九十度に曲げ体の前後に振り回し、肩甲骨の運動をした。「頑張るぞ!」気合の声を飛ばす。

「では」天津は結城に近い側の眼をぎゅっと瞑った。「行きましょう。表のワゴン車に乗って下さい」


「おお、皆、おはよう」ワゴン車の傍には、鹿島が佇んでおり、新人たちを認めるといつもの爽やかな笑顔を向けた。「いよいよ現場デビューだな」

「おはようございまーす!」結城が鹿島の言葉をかき消すボリュームで挨拶を返した。「今から現場デビューしに行って参ります!」

「うん」鹿島は笑顔を絶やさないながらも片目をぎゅっと瞑った。「じゃあ皆、はいこれ」両手に、リモコンサイズの機器類を並べて差し出す。

「おお、修理完了して頂けたんすね」結城は感動の声を挙げた。「ありがとうございます!」

「まあ、可愛い」本原が溜息混じりに頬を抑えて言う。

 三つ並んでいる機器のうち一つだけ、表面にきらきらと輝く花とハート柄のデコレーションが施されていた。

「スワロフスキーでね」鹿島は、照れくさそうに笑う。「気に入ってくれるといいんだけど」

「素敵です」本原は特に笑うこともなかったが「ありがとうございます」と頭を下げ受け取った。

「えっ、これ、鹿島さんがやったんですか」結城が本原の手に持つ機器を覗き込みながら目を丸くする。「さすが神。神仕事」

「いや、これは委託業者さんに発注したんだよ。急ぎでね」鹿島は苦笑混じりに説明する。

「おお、人間の仕事ですか」結城はそれでもなお感心する。「自己実現のあれですね」

「神さまはご満足なのですか」本原も手に持つ機器を鹿島の方に差し向けながら問う。「この、人間の仕事に」

「ははは」鹿島は楽しげに笑う。「もちろんですとも」頷く。

「じゃあ、そろそろ行きますか」天津も気弱げに笑う。「皆さん、乗って下さい」

「はいっ」結城が元気よく答え、全員が一瞬片目をぎゅっと瞑った。

 そして一行は鹿島常務に見送られ、天津の運転するワゴン車で初のOJT現場へと出立した。


 車は街とは逆の方向に向かっていった。対向車も信号も、次第に少なくなってゆく。やがて川沿いの、カーブの多い道に入り、さらに山へ向かい遡ってゆく。

「いやあ、いい天気っすね」結城が窓外の景観を眺めながら感動する。

「綺麗な景色ですね」本原が溜息混じりに囁く。

「山の中に入っていくんですか」時中が質問する。

「はい」運転しながら天津が頷く。「もし気分が悪くなったらすぐに止めますので、仰ってくださいね」

「いやあ、大丈夫っすよ」助手席の結城が、後部座席の二人を振り向きながら答える。「天津さん運転うまいっすよね。カーブの曲りとかもスムーズで」

「いえいえ」天津が照れ笑いしながら、緩やかにハンドルを切る。

「さすが神」結城は首を振り、さらに感心する。「神運転」

「いやあこれは、車の性能がいいからですよ」天津はさらに照れ笑いする。「神運転じゃなくて神スペックですね」

「またまた、ご謙遜を」結城は手揉みし、胡麻をする。「神謙遜」

「神氾濫だな」時中が呟く。

「神さまの価値が下がってしまいます」本原も指摘する。

「神株価平均、とかね」結城は振り返って後部座席の二人に軽口を叩くが、返事はなかった。

「もうすぐ、着きます」天津がそっと伝えた。


 そして車は橋を渡り、広大な田の中を真っ直ぐ貫く形に伸びる一本道を突き進んで、その“洞穴”に辿り着いた。小さな二階建ての現場事務所らしきプレハブが建っており、その奥に洞穴がぽっかりと、黒い口を開けている。ワゴン車がブレーキをかけ始めるのとほぼ同時に、二階の事務所入り口のドアが開き、中から三人、出て来た。四十代と見える男が一人。少し若い、天津より少し年上に見える男が一人。そして最後にその二人よりももっと年上と思しき女が一人である。

「あ、どうもお世話になります」天津が車から降りながら三人に声をかける。

「おはようございます」二人の男は答えて頭を下げ、親しげな笑みを浮かべる。「いよいよ新人さんの登場ですね」

「はい、宜しくお願いします」天津もにこやかに応じ、車から降り立つ三人を振り向く。「こちらが今回お世話になる、磯田建機の磯田社長、相葉専務、城岡部長です」

「あっ、わたくし新日本地質調査の結城と申します」結城が叫ぶ。「どうぞ宜しくお願い致します」

「おお」相葉専務が親しげな笑みを浮かべたまま片目を瞑る。「これはパワフルな新人君ですな」

「ありがとうございます」結城は尻尾を振らんばかりに全身で喜びを表した。

「時中です」時中はいつもと変わらず手短に名乗った。「よろしくお願いします」

「まあ、可愛らしい男の子が入ったのねえ」熟女の貫禄に満ちたアルトが響いた。「二人も。いいわねえ」

 一瞬の間、誰も言葉を発することができずにいたが「あ、ええ今日から現場での業務に当たりますので、宜しくお願いします」と、天津がにこやかに受け答えをした。

「まあまあ」磯田社長は結城と時中を順繰りに眺め渡しながら機嫌よさそうに唇を横に拡げ、貫禄のある笑顔を維持した。「いいわねえ。うちにも欲しいわあ、若い男の子が」

 再び、誰も言葉を発することができずにいた。

「ははは」天津が恒例の半苦笑で間をもたせる。

「本原と申します」本原が軌道修正のごとくに自己紹介をする。「宜しくお願いします」

「ああ、どうも宜しくお願いします」それに対しては相葉専務が素早く対応した。「ははは、女の子も入ったんですねえ」

 磯田社長は唇にだけ笑みを浮かべ続けていたが、本原には一瞥もくれなかった。

「それじゃあ、早速これから現場に向かわせていただきますが」天津は、あたかもそこに救いがあるかの如く、洞穴に向かい手を差し伸べた。「何か引き継ぎ事項はありますでしょうか」

「ええーと」相葉専務は矢庭にきょろきょろと首を巡らせ、傍に立つ城岡部長に「何かある?」と訊いた。

「ええーと」城岡部長もよく晴れた青空を見上げ大急ぎで思案し「特に何も、ない、ですね……まあお怪我のないよう、お気をつけて」とにこやかに答えた。

「ありがとうございます、では」天津がくるりと向きを変えようとした時、

「天津君」磯田社長のアルトが、若干笑いを含みながら天津を呼んだ。

「あ、はい」すぐに返事をした天津に社長は、

「もちろん君も、相変わらず可愛いわよ」と言い、フフフフと笑った。

 すぐには誰も言葉を発することができずにいた。

「ははは、どうも」天津はぺこりと頭を下げ、すぐに歩き出した。


 三人の新人と天津は、黒くぽっかりと口を開けた“洞穴”の中へ、クライアントの経営者と役員たちに見送られ入っていった。

 洞穴の奥には、エレベータが設置されていた。岩肌に、少し錆び付いたパステルグリーン色の両開きのドアが埋め込まれており、天津がボタンを押すとそれは静かに口を開いたのだ。三メートル四方の箱の中に四人は立ち並び、OJT現場へと降り始めた。

「女性の社長さんなんすね」結城が、エレベータの天井を見上げながら言った。

「はい」天津が頷く。「磯田真貴子社長、御年六十八歳です」

「へえー」結城はなおも天井を見上げたまま感心する。「うちの親より上っすね」

「それで我々の事を子供扱いするような眼で見ていたというわけですね」時中が面白くもなさそうに問う。

「ははは」天津は気弱げに笑う。「そう、ですね……あの社長ご自身は独身の方なんですけどね」

「へえー」結城が天津に顔を向ける。「仕事一筋で生きて来たんですか」

「しかし、はっきり言ってあの社長は」時中が首を振りながら腕組みをする。「曲者ですね」

「ははは」天津はまた気弱げに笑う。

「うん、まあ強烈な感じではあるよね」結城は時中に同意した。「ぶっちゃけ男好きだよね」そして同様に腕組みし、からからと声を響かせて笑う。

「ははは」天津はやはり気弱げに笑う。

「だってさ、本原さんの方ぜんっぜん見てなかったもんね。俺らにばっかり色目使ってきてさ」結城は他の三人を見回しながら目を剥いて話した。

「色目なのか、あれは」時中が眉を寄せる。「子供を見る眼、もしくはペットの犬を見る眼のようだったぞ」

「どっちにしても俺らばっかり見てたよね。ねえ本原さん、むかつかなかった?」結城は本原に問う。

「あの方、昔の化粧品の匂いがしました」本原は答えた。

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