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第三話

 まだ眠るわけにはいかなかった。今眠りに落ちてしまえば中途半端な時間に目が覚めてしまうだろう。集中力が明日は試されるのだ。万全のコンディションで臨みたかった。


 ベッドから這い出て、机に向かい数学の本を開けた。僕は心を落ち着けたい時は数学の本を読むのだ。特に幾何学のページが好きだった。面積を求めたり、線分を求めたりするために、与えられた図形をあらゆる角度から眺めることが好きだった。


「よくそんなものに熱中できるね。」

 ダイは僕によくそう言っていた。 

「図形をこねくりまわすことになんの意味があるんだい。」


 僕自身、幾何学に取り組むことに意味を見出してはいなかった。むしろ、あの儀式と同じくらいなんの意味もないと思っていた。数学なんて、物の売り買いぐらいができれば十分なんだ。ただ、数学はその無意味さを受け入れた上で成り立っていることが気に入っていた。誰も数学ができるからといって得意気になる人はいないし、褒めてくれる人もいない。ただ、無意味なんだけど、その無意味な行為を楽しむ営みであることが数学の愛すべき美点である。

 

 ふと本から目を離し、机側の窓のカーテンを開けた。目が疲れてきたので、遠くをみて休めようと思った。疲れを明日に残すわけにはいかない。月あかりのおかげで、木々の葉が風にゆらされている姿を眺めることができた。木の枝や葉は不規則になびいていて、それは僕の心を不思議ととらえた。 


 突然、ゴンっという鈍い音が聞こえ、窓が揺れた。僕は窓を開け、首を外に出して辺りを見回した。オイと呼ばれ、窓のすぐ下をみるとダイが立っていた。


「ちょっと付き合えよ」

 ダイが言った。


 僕は、両親に外出するのがバレないように、窓から柱を伝って外に降りた。


「普通に出て来いよ」

 ダイが言った。


「なんとなく親にバレたくないんだよ」

 自分でもその理由は分からなかったので、それ以上は説明しなかった。


 僕たちは崖の反対側にある森へ向かった。家々に挟まれた道が次第に細くなり、周囲の土地が畑にかわって、最後に舗装されていない坂道にたどりつくと、そこが森の入り口だった。


「この時間にくると、小さい時の肝試しを思い出すよな。」

 ダイの声が森の真っ暗闇に吸い込まれるように聞こえた。


 月光が届くのは、森のすぐ入りまでで、そこから先は何も見えなかった。自分の体がとけてしまう思われる程の暗闇だった。


 村では10歳の時に、森で肝試しを行うという儀式があった。18歳の成人式である海への飛び込みが正午に行われ、同じ日の深夜に10歳の肝試しが行われるのだ。


 10歳はこの村では、18歳についで節目の年であった。10歳までは子供たちは男女共学で育てられるが、それ以降は男女別々の学校に通う。そして、学校での授業も男らしさをみにつけるための身体訓練と精神修練に時間のほとんどが費やされるようになる。すべては18歳の儀式をクリアするためである。


 海の飛び込みは何の意味もないことは確かだったが、むずかしいことではあった。たんに勇気をだせばなんとかなるというわけではない。鍛えられた肉体と正確に狙ったところに飛び込める身体コントロール、そして衝撃を和らげる入水技術が求められた。10歳を過ぎたこどもは、ただ18歳の儀式をクリアすることのみを目標として学校に通うのだ。


 そして男の子たちが新たステージに向かう記念すべき第一歩がこの肝試しである。


「ああ、あの時のことはよく覚えているよ」

 あの頃はまだなんの疑問も抱いていなかったことに思い至り、それを懐かしく感じた。

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