第一話
崖の先端に立つ。目の前には海が広がっている。見渡す限りの青。それ以外は何もない。
「いよいよ明日からだな。俺が一番のりだ。」
後ろから野太い声がきこえた。
広大な自然を前にして静謐な気持ち。それを乱されたことにすこしばかり腹がたった。だが彼のことは嫌いではなかったし、彼と話すことは楽しいことであったので、気を取り直して振り向いた。
「きっと君の先を越す人はいないだろうね。でも僕は誰が一番だろうと別に興味はないんだ。どうしてわざわざ僕に宣言する必要があるんだい。」
僕は彼の目を真っ直ぐみすえて言った。
「へっ、どうだか。信用できないね。そうやって俺を油断させようとしているのかもしれない。」
彼はするどい眼差しを返しながら言った。
僕はため息をつき、視線をそらせた。
「度胸があるのがいったいどれだけ優れたことなんだい。」
僕の言葉を聞いて彼はわらった。ふっと息をだすようなみじかいわらいだった。
「度胸ねえ。お前がそう思っていることはわかってるさ」
「だったら僕に何の用だったんだい」
少し気を楽にして僕は再び彼に目をむけながら言った。
「一応の確認さ」
彼は言った。
「まったく何の意味もない儀式だよ。」
僕は吐き捨てるように言った。
「意味なんて必要ないさ」
彼は言った。
「意味は無くても、実際的な効果はある。大人たちは俺を認め、周りは俺に一目置く。それが大事なことだ。そうだろう?」
僕は何も答えなかった。代わりに海を眺め、水平線をみつめた。
「いつもお前はここで何を見ているんだ。」
彼が僕に尋ねた。
「想像しているんだ。」
僕は言った。
「ずっと泳いでいってどこかにたどり着くことを」
「何を言ってるんだ」
彼は言った。
靴とじゃり石がこすれる音が聞こえた。彼はもう帰るのだろう。
僕は想像していた。この崖が見えなくなるところまで泳いでいったら、海にだけ囲まれたら、どれだけ気持ちがいいだろうか。そう思っていた。
唐突に遠くから声が聞こえた。
「なにごちゃごちゃ考えてんだよ。さっさと飛べばいいじゃないか。」
そう考えられたら楽になるのは僕も分かっていた。そんなこと百も承知なんだ。でもどうしても納得できない。だから彼には何も言えなかった。代わりに右手を挙げた。別になにかしらのメッセージがある訳では無かったし、彼が見ているのかも分からなかった。ただ、「彼の言っていることも頭では理解しているんだ」そんなことを伝えたかったのかもしれない。
次第に日が暮れてきた。あと少しで夕日の代わりに月が海を照らすことになるだろう。そして僕が眠り、夜が明け、朝を迎えると、彼がこの場所に立っているだろう。
彼に度胸があること自体は疑ったことは無かった。誰かのあとでないと動けない臆病者ではないし、直前になって怖気ずくことはないだろう。
そして、意を決して海へ飛び込むのだ。彼は先陣をきったものとして、皆に称えられるだろう。そしてこの村の中心となっていく。誰も反対しないだろうし、彼自身が望んでいることである。その素質もあるだろう。僕は彼のことを認めているのだ。それはまちがいのないことだった。
ただ、嫌いなのはそのプロセスだった。崖の上から海に飛び込むこと。それになんの意味があるのだというのだろう。昔からの伝統だと大人は言う。伝統?それがなんだ。何故みんなそれをありがたがって、重要視するのだ。
僕は伝統を受け入れることに疑問が無い彼のことが憎かった。僕が子供なだけで、彼の方が大人なんじゃないだろうか。そう考えると辛かった。もう日は暮れてしまっていた。この闇の中では泳いでいくことはできない。僕は家に帰った。




