三話「キャンバスの君」
中学の体育祭、秋人はふてくされて校庭の端、緑色の網に寄りかかって座っていた。
「なんで俺がリレーじゃねぇんだよ。なんで短距離じゃなくって長距離なんだよ」
秋人は自分の長所発揮の機会を失い、深く落ち込んでいた。自分なら上手くやれると教室の皆も分かっているはずなのに、誰も推薦してくれる人がいなく、仕方ないので短距離走を選択したが、人数が多くて長距離走に回されてしまった。校庭では種目が開催されており、女子の黄色い歓声がとてつもなく遠く感じられる。
「木島くん」
女子に名前を呼ばれ、顔を上げるとそこには黒髪ストレートで体操着の桜坂美樹が太陽を背に立っていた。
「なんだよ」
秋人は太陽が眩しくて手で目元を覆う。
「あ、ごめんね。皆んなと応援しないの?」
美樹は何気なく彼の隣に腰を下ろした。風に吹かれる女の髪の匂いに秋人は興奮したが、彼女の胸が薄いのを見てどうでも良くなる。美樹はクラスで可愛いと人気だが、女性の胸に深いこだわりを持つ秋人には彼女の魅力が分からなかった。
「木島くん、本当はリレーの選手になりたかったんでしょ。私はね、木島くんに投票したよ?」
秋人は自分が女の子と一緒に座って話をしているのだと改めて理解し、急に照れ臭くなる。
「別に、余計なことするなよ」
「でも、そういうの得意だって知ってるから。どうして皆んな、木島くんに投票しないのかな」
遠くの入道曇を見つめながら言う美樹の横顔に、秋人は少しだけ見惚れた気がした。
「確かに桜坂って可愛いかもな」
秋人が何気なく言うと、美樹は顔を赤くして立ち上がってしまった。
「全然、可愛くないよ!」
美樹は慌てて否定し、残念そうに自分の胸元を見下ろす。
「顔は可愛いじゃん。芸能人みたいだ」
「だから、そんな事ないよ。でも、ありがとうございます」
自分が何故、彼女に深々と感謝されているのか、秋人には理解できない。しかし、女の子に頭を下げられ、照れ臭い気持ちがあった。
「なんでそんなに頭下げるんだよ」
「いえ、別に。ねえ、木島くん。長距離って何時から?」
美樹は慌てて顔を上げると、少し恍惚とした顔で彼に尋ねる。
「昼。皆が昼飯食ってる時に俺たちは必死に三千走るんだよ。誰も応援なんか来ない」
美樹は秋人の言葉に後ずさりし、拳を握った。
「私、応援するから」
「は?」
「いや、だから。私は、木島くんが走ってるところ、ずっと見てるから」
「それじゃあ、走り終わったときにスポドリ持ってきてくれない? そんで飲まして」
秋人は冗談交じりで言ったが美樹は本気だった。
「はい!」
秋人が長距離走を走っている最中、美樹はトラックの端にずっと立っていた。彼女に見られていることを意識すると、少し嬉しくなり本気で走って見ようかと思った。本当はたくさんの女子に自分の輝いている姿を見せつけて、黄色い歓声を浴びたかったのだが。秋人は三千メートルを十三分で走破し、着順は三位だった。一位でないのがもどかしいが、自分の最高の力を振り絞れたのであまり悔しくはなかった。
「木島くん、お疲れ様!」
秋人が走り終わり、膝をついて呼吸を荒げていると美樹が急いで清涼飲料水を持ってきてくれた。
「あざっす」
ペットボトルが汗をかいている様子から、冷えていることが伺え秋人は至福を予感し、美樹から受け取ろうとしたが、彼女はキャップを開けて言われたとおりに彼の口へ飲み口を押し当てた。
「木島くん、飲んで」
「んんゔぁ!」
美樹は腕や顔を一生懸命水道で流す秋人を申し訳なさそうに後ろから見つめている。
「木島くんってさ。まだ、お昼食べてないんだよね」
「当たり前だろ。これから一人で食うんだよ」
「……」
秋人は水道の脇に置いてある鞄を開け、弁当を取り出したが、すぐに固まった。
「どうしたの?」
「あれ、なんで。俺の弁当が、空だ」
「空?」
「ふざけんな、誰が俺の弁当食いやがったんだよ!」
秋人は激しく憤り、遠くではしゃいでいるクラスメイトの方へ向かおうとしたが、美樹が彼の腕を両手で掴んだ。
「まって!」
突然美樹に制止された秋人は戸惑いを感じた。
「私、弁当ふたつあるから。だから、一緒に食べよ」
美樹は水で濡れている秋人の腕をなんの戸惑いもなくしっかり掴んでいた。そんな彼女の態度は彼の憤りを鎮め、大人しくさせる。
「いいのかよ」
「うん。ほら、あの木の下で食べよ」
美樹は秋人の腕を強く握りしめることで手の震えを隠した。
「なんで弁当二つあるんだよ」
秋人は花柄の風呂敷に包まれた弁当を膝の上に乗せ、決まりの悪そうに言った。
「お母さんがね、夕方お腹空くっていうから」
「まあいいや。食べていいの?」
「うん」
風呂敷の結び目をほどき、二段になった弁当の蓋を開けると、桜でんぶや卵焼き、タコさんウインナーが詰められた可愛らしい世界が広がっていた。
「女かよ」
秋人は女の子の弁当を目の当たりにしたおかげで食欲が少し失せた。割り箸を割り、厚焼き玉子を口に運ぶ。
「上手い。桜坂の母ちゃんの卵焼き美味しいじゃん。薄味で旨味がある」
「そっちの弁当は、私が作ったの」
美樹は嬉しくて向こうを向いてしまう。
「桜坂が作ったのかよ。やっぱり料理上手なんだ。お嫁にいいな」
秋人は自分の母親の卵焼きと美樹のものを比べて、やはり自分の母は料理が不得意なのだと再確認してしまった。
「お嫁っ」
美樹が噎せていると、通りかかったクラスメイトの男女五人が近寄って来た。
「え、美樹が木島くんと一緒にご飯食べてる!」
「は、なんで?」
「秋人、なんで桜坂さんと一緒に食ってんの?」
秋人は彼らを見て、忘れていた憤りを思い出した。
「そうだ、俺の弁当どうしたんだよ!」
秋人が怒鳴ると、彼らは目をそらした。
「知らねえ。お前らどういう関係なんだよ。もしかして、出来ちゃってる?」
「ええ、美樹ありえない。高岡さん可哀想」
美樹は初耳の人名を聞かされて戸惑い、クラスメイトの冷たい態度に傷ついた。
「熱々カップルじゃん」
「秋人ふざけんな」
「高岡さんに言っとくね」
秋人は捨て台詞を吐いて去っていく彼らを追おうとしたが、美樹が彼の半袖の裾を引っ張った。
「いいよ、木島くん」
美樹が泣きそうな声で言うので、秋人は素直に座り直して弁当を持ち上げた。
二人は何となくクラスメイトの所へ戻り辛くなってしまい、種目の応援もせずに木陰に座っていた。
「私ね、木島くんの弁当を食べちゃった人、なんとなく分かってるの」
「知ってんのかよ。誰が食いやがった」
「たぶん、藤田くんだと思う。私がね、ジュース買いに行ったとき、木島くんの鞄をあさっていたから」
「藤田? 何で早く言わねぇんだよ」
秋人はクラスメイトである小太りした黒縁眼鏡の男子を思い浮かべた。
「言ったら木島くん、やり返すでしょ」
「やり返しちゃダメなのかよ」
「ダメだよ、木島くん。絶対だめだからね」
秋人は美樹に不安な顔で見つめられ、母親を連想してしまい懐かしさと照れ臭さが混る妙な気持ちになった。
「わかったよ」
それ以来、秋人は美樹と話すようになり親しい友達になった。秋人は美樹が自分のことを意識していると何となく気づいてはいたが、彼女に対して性欲があまり湧かず、可愛いペットのように感じていた。美樹はとても優しく、母親のような一面もあって秋人は彼女のことを純粋に好きになっていった。
中学二年の学年末、美樹はチョコレートを秋人へ渡そうとしていた。受験になると忙しくなってしまうので、ここで頑張らないと後がないのだ。鞄の中に秘密で持ってきた手作りのチョコ。受け取って貰えなかったらどうしようという不安で美樹の心はいっぱいだ。しかし、同時に期待もあった。もし万が一喜んでくれたら、自分は彼を愛してしまうだろう。四時に帰りの会が終わり、クラスメイト達は部活へ向かおうと忙しく動いている。そんな中、美樹だけは一人でソワソワとしていた。別に、ただの友達みたいに渡せばいいじゃない。彼女は、そう自分に言い聞かせる。
「木島くん」
美樹は人混みの中を真っ直ぐに通過して秋人の机の前に立ち、力強く紙袋を片手で突き出した。騒がしい教室が一気に静まり返る。
ーー皆んな、よく見てるんだな。
美樹は無性に悲しくなった。
「なに?」
秋人は他人行儀に後ずさる。
「これ、あげる」
彼の態度に怖くなったが、もう後には引けない。チョコレートの入った紙袋は絆創膏が貼られた美樹の手に握り締められ、音を立てた。
「……ありがとな」
秋人は、優しく紙袋をうけとった。顔を真っ赤にして礼を言う姿は秋人らしくなく、美樹は彼の反応がとてつもなく気に入ってしまった。
「部活、頑張ってね」
「おう」
なんだこれ。本当の恋人同士みたいじゃないか。美樹は笑顔が溢れてしまってどうしようもないので、彼の前から逃げ出した。
次の日、秋人は上履きに履き替えるため、下駄箱を開けると、上履きの中に泥が詰め込まれてあった。昼休み、汚れた上履きを気にしながら、水泳部の友人と一緒に弁当を食べていると、美樹が弁当を持って廊下に出て行くのが見えた。
「桜坂ってさ。なんで一人で弁当食うんだろうな?」
秋人が問うと、友人達は顔を顰めた。
「お前桜坂さんのこと好きなんだろ」
「やったのかよ?」
「別に好きじゃねぇよ、あんな貧乳!」
秋人は反射的に否定したが、美樹が教室に忘れた飲み物を取りに来ていたことに気づかなかった。すると、美樹は秋人から目をそらし、俯いて教室から出て行ってしまう。友人や女子達は安堵や期待を感じたのか談話の中に笑いが混ざる。秋人は焦った。手作りのチョコを初めてくれた女の子に嫌われてしまうと思ったからだ。秋人は急いで弁当を片付けて教室を出た。
屋上の扉を開けると、フェンスの端っこに座り込んで弁当を食べる美樹の姿があった。彼女とはチョコのことで気まずいが、これは絶好の機会であり、秋人は胸がドキドキしていた。そして、彼女の前まで歩み寄る。
「桜坂」
美樹は名前を呼ぶまで気づかなかったかのように驚いて彼を見上げると、彼女はクスクスと笑った。
「俺酷いこと言ったから、ごめんな」
秋人が安堵して謝罪すると、美樹は軽く許した。それから、彼の手を引いて自分の横に座らせる。
「木島くん、上履き汚いね」
「これだろ? 誰かにやられた」
美樹は面白がって悩み相談電話のカードを秋人に差し出した。
「いらねぇよ。まるで、俺がいじめられてるみたいじゃ……」
「私ね、学校やんなっちゃった」
美樹は両膝を抱いて俯く。
「何で、最近一人なんだよ」
「木島くんのせい」
秋人は彼女の言葉を聞いて冷や汗が出た。しかし、いくら記憶を辿っても心当たりがない。
「冗談。多分ね、全部私のせいなの。私みたいなのが出過ぎたマネをしたのがいけなかったのかな」
遠くの山々を見つめる美樹の横顔に秋人は見惚れて、チョコのことを急に思い起こした。
「どうしたんだよ、桜坂。そうだ、チョコレート。俺が食った中で一番美味かったぜ。本当にありがとな」
秋人は自分の顔が熱くなるのが分かった。そして、そのままの勢いで告白しそうにもなる。
「あれ、一個三十円の板チョコが原料だよ……」
俯いた美樹が耳を赤くして口走ると、秋人は堪らず立ち上がった。
「俺、戻るからな。お前も、教室戻って来いよ」
秋人が真っ赤な顔を隠すように早歩きで屋上を立ち去ろうとすると、美樹は空の弁当箱を鞄に突っ込んで立ち上がった。
「木島くん!」
秋人は手首を軽く引っ張られたので、振り向くと、そこには真剣な顔で自分を見つめるクラスで一番可愛い女の子がいた。
「なんだよ」
秋人は、手首の脈を測られるのが恥ずかしくて仕方なかったが、彼女の手を振り払うことはできなかった。
「あの、木島くん?」
「なに?」
「私ね。あ、だから木島くん!」
「ん?」
「私、木島くんがっ!」
必死に何かを言おうするも、喉から声が出せなくて泣きそうになっている美樹の姿に、秋人は参ったような気持ちになり、彼女の頭を優しく撫でた。
「俺は、何だって聞いてやるよ」
秋人が囁くと、美樹の表情は氷が溶けるように柔らかくなった。
「私、木島くんが好……」
美樹が言いかけた瞬間、屋上の扉が乱暴に開き、五人の男女が騒がしく入ってきて、向かい合う二人を見るとその場で静止した。
「あれ、美樹と木島くんじゃない?」
秋人と美樹は即座に距離を置いた。秋人は何か言い返そうと考えたが何も思いつかず、押し黙ってしまう。太陽が雲に隠れ灰色が屋上を包むと、一瞬の静けさの中で少女の泣き声が屋上に小さく響く。それは、五人の中から発せられたものだった。
「あ、高岡さん!」
「平気、平気だから」
水平ミディアムヘアの女子高生が堪らず泣いてしまい、フェンスに寄りかかる。そんな光景を目の当たりにした美樹は唇を震わせていた。
「桜坂?」
秋人は美樹の様子に不安を感じて呟くと、彼女は屋上を走り去って行った。一人残された彼は、大好きな女の子が谷の向こうにいるのだと気づかされた。
薄暗いワンルームの部屋、散らかった机の上には沢山のアダルドビデオが崩れながら積まれ、静かに動く壁の時計は午後五時を指していた。制服のままベッドに仰向けで横たわる秋人の周囲には、丸められたティッシュが無数に散乱している。そして、ぼんやりと天井を見つめる彼の瞳は段々と寂しそうに歪み、頭を抱えて蹲った。
「美樹」
名前を囁くと、彼は埋め合わせのつかない気持ちに駆られ、それと同時に起こる欲求に身を任せるように、制服のポケットから結花のハンカチを取り出して口元に寄せた。
高校三年生の一月、勇希はセンター試験を終え、会場の人混みから脱出して最寄りのコンビニに寄った。弁当やおにぎりのレーンを過ぎ、イチゴ牛乳が見えた。勇希はコートから小さな財布を取り出して小銭を確認すると、ピンクの紙パックに手を伸ばそうとした。その時、聞き覚えのある男女の声が入り口から聞こえてきて自然とそちらを見ると、涼と春香だった。春香は涼の腕に軽く抱きついていたが、勇希が手を挙げて挨拶すると、二人は恥ずかしそうに離れた。
「勇希じゃん、久しぶりだなぁ」
「入試どうでしたか?」
春香と涼は自信ありげな顔で、勇希は期待を向けられていると分かった。
「地理はやらかしたけど、他は平気だった。あ、でも数学がちょっとやばいかも」
「え、数学が?」
涼は不安げに勇希へ一歩近づいた。
「いや、国語が結構出来たかもしれないから、そっちでカバーできるって」
「え、国語できたんですか?」
「今回国語は難しかっただろ。まあ、なんか大丈夫な感じはするな」
三人は英語の問題がすらすら解けたのを思い出して思わず笑顔になってしまった。
「お、イチゴ牛乳じゃん」
「わあい。涼くん買ってよ」
「ん、百円ならだしてやるよ」
二人がイチゴ牛乳を取るのにつられて、勇希もそれを手に取った。
外は冷たい風が吹いていて、駐車場の地面に雪が少し降り積もっていた。コートを羽織った三人はコンビニの傍らで紙パックのイチゴ牛乳をストローで吸い上げる。
「んまーい」
春香が喜んでいるのを見ると、勇希も楽しくなりイチゴ牛乳の甘みを味わった。すると、高校の思い出が少し蘇る。
「勇希、大学行ったら彼女作れよ」
「蒼城くん、普通にイケメンだからいけまよ」
「コートかっこいいじゃん」
「別にかっこよくないって」
勇希は二人に褒められて照れ臭くなってしまい、コンビニのガラスから目を逸らした。
「彼女か」
「どうかしたんですか?」
突然春香に問い詰められて焦ったが、勇希はすぐに落ち着いて遠くを見る。
「いや、なんかさ。彼女っていっても。俺、そういうの良く分かんなくなっちゃったんだ」
「勇希、大丈夫か?」
心配した涼は勇希に尋ねる。
「俺さ、エッチがしたくて何にも見えなかったんだ。でも、どうでも良くなってきた」
涼と春香は恐ろしく思って、動揺した。
「勇希、平気か?」
「いや、別に大丈夫だよ。朝とか硬くなるし」
春香が後ずさったのを見て勇希は申し訳なくなった。
「俺、そんなことより」
勇希は、結花の金切り声を思い起こして、眉間に皺をよせる。
「そんなことよりさ、俺はお前らのことが」
「ん?」
二人は怪訝そうに勇希を見つめる。
「お前らのことが好き」
聞いた涼は何故か目頭が熱くなり、すぐに吹き出して笑った。春香も可笑しく思い、声を上げて笑ったあと、勇希の頭を撫でた。
「いい子だなぁ、蒼城くんはいい子いい子」
「ママ、まってよお。友達に見られちゃう!」
三人は笑いが止まらなくなってしまい、筋雲の広がる白い空にしばらく笑い声が響いた。
学校の授業が終わり、一般入試に向けて英語と数学に打ち込む日々が続き、直ぐに公立大学の前期試験が訪れ、三月の空っ風が吹くころ、合格発表があった。涼と春香は第一志望の私立大学に落ちてしまったが勇希と同じ公立大学に合格して、三人で線香花火をして遊んだ。厳しかった福原先生に三人とも合格したと報告したら、笑顔を溢れさせて嬉しそうだった。他の先生も喜んでくれて、最悪だと思っていた高校生活が実は愛情に満ちていたのかもしれないと三人は気づいた。それから、職員室を出て学校の中をめぐり歩いた。
「福原先生って、なんか」
春香は興奮した様子で何か言おうとしたが、涙が流れてしまい噎せてしまった。
「意外と優しいんかもな」
「たしかに」
涼がティッシュを春香に渡しながら言うと、勇希は泣きそうに頷いた。
「春休み、何しますか?」
「需要供給曲線の勉強? 経済学部使うじゃん」
「あそっか、じゃあ涼くんの部屋ね」
「何でだよ。変な本はもう持ってないぞ」
「ほんとに?」
二人のやりとりを聞いていた勇希は申し訳なさそうに口を開いた。
「俺も、行っていい?」
勇希が言うと二人は歩みを止めて不思議そうな顔をした。
「え? 勇希も来るんだろ」
「蒼城くん、みかん食べましょうよ」
勇希は嬉しくてつい笑顔になる。
「うん、行く!」
「おし。次は図書館行ってみるか」
涼が切り出すと春香は嬉しそうについていった。勇希も二人につられた。
図書館の中に入ると本の匂いで満ちており、勇希は懐かしい感慨に浸った。三人が一列で歩いていると、向かい側からアールストレートの女子生徒が出口に向かって歩いてきた。勇希が申し訳なく横によると、すれ違った女子生徒があの女の子だと分かり、振り返る。しかし、女子生徒はそのまま歩いていって、扉を開けた。勇希は少し残念そうに微笑んで涼と春香を追う。結花は扉を閉めたあと、彼の背中を少し見つめてから図書館の前を去った。
卒業式の日、勇希は制服の胸ポケットに花びらをさして、体育館に並べられた椅子に背筋を伸ばして座り続けた。最後の集会だが、やはり退屈なものは退屈だった。長すぎる大人の話が全て終わると、感動的で感慨深い音楽とともに生徒たちは退場した。体育館から出た瞬間、勇希は高校生活の終幕を体で感じ、周囲の生徒たちの歓声が心地よくもあり、廊下の窓から差し込む日差しがとても暖かく感じられた。
「勇希」
涼の声に勇希は振り向いて笑った。
「んじゃあ、今日の三時に俺ん家な」
「ああ、わかってる。春香は?」
「あいつ委員会の仕事。片付けとかあるみたいなんだ」
「ふーん」
「親と昼、食うから。じゃあな」
「うん」
勇希は安心して帰ろうと思ったが、鞄の内ポケットに入れっぱなしの図書館で借りた英語の多読本に気づいた。
図書館に本を返却し終えて、帰る途中に校内の自販機が目に付いた。紙パックのイチゴ牛乳が目に映り、勇希はなんとなくそれを買ってポケットに入れた。昇降口から外に出ると、空に雲が分厚くかかって薄暗かった。随分と久しぶりの曇りに勇希は春の訪れを感じて、校門を後にした。水路沿いの桜並木を歩いていると、いつもの公園があった。大切な人を傷つけようとした公園。勇希はそのまま通り過ぎようとしたが、彼の足は止まった。多目的ブースの側壁に三人の男に囲まれた結花の姿があったからだ。
「結花ちゃん。俺、東大受かったんだぜ。結花ちゃんはどうだった?」
卒業式が終わり、結花は勇希の所へ行こうかとも思って廊下を歩いていたが、何度か高難度の問題を教えてくれた秋人に話しかけられた。
「東大、すごいですね。私も公立大学に合格できましたよ。有難うございました」
「ねえ、結花ちゃん。この後さ、蕎麦屋奢ってあげるよ」
「……いいですよ」
結花は嫌な予感がしたが、断り辛くて頷いてしまった。秋人はとても端正な顔立ちで結花は少し、彼を意識してはいた。いやらしい感じが無く、勇希より背が高くて頭もいいし運動もできる。前途有望な彼は女の子の結婚相手に最適なんだろうと結花は心の中で思っていた。
「じゃ、行こうか」
「はい」
蕎麦屋で結花はざる蕎麦を啜っていたが、特に秋人と話すこともなく、沈黙が続いていた。何か話さなくてはと結花は焦っていたが、出てくるのは進路の話のみで、どうも会話が弾まない。
「結花ちゃん。食べ終わったらそこの公園に行かない?」
「公園ですか?」
「うん、俺。結花ちゃんと話したくってさ」
結花は背筋が寒くなったが、彼の態度に焦りは無くとても落ち着いた様子だった。
「分かりました」
「ははっ、断られるかと思ったけど。案外ノリがいいね結花ちゃん。素敵だよ」
秋人のセリフがギャグなのか本気なのか分からず、ただ恥ずかしさだけが結花の心に染みた。この人、実は変なのだろうか。そんな不信感が漂い、ここまでくるとむしろ面白かった。結花はざる蕎麦を食べる口元を少し綻ばせる。秋人はそんな彼女を肘をついて眺めていた。
公園に着くと結花は公衆便所の多目的ブースを見た。高校二年生の時に、男の子に裏切られたあの公園だったのだ。
「どうかしたの? 結花ちゃん」
「いえ、何でもありません」
「あそこに座ろっか」
結花は言われるままに公園のベンチに秋人と座った。
「結花ちゃんってさ、こうして見ると本当に可愛いよね」
「え、そうですかね」
結花は秋人が自分に気があるのだと確信したが、彼の目線がさっきから自分の胸や足ばかりに向けられている気がして早々に退散したくなった。
「あの、私ちょっと」
「結花ちゃんて、彼氏とかいるの」
「いません」
「好きな人はいるでしょ」
好きな人と聞いたとき、勇希のことが頭に浮かんで結花は言葉を詰まらせてしまった。
「別に、いません」
「蒼城勇希」
不意をつかれた結花は反応して、驚いた瞳を秋人へ向けた。
「やっと俺のこと見てくれたね」
「何なんですか」
「へぇ、否定しないんだ。図星かな」
結花は彼の陰湿な態度に悲しくなってベンチから立ち上がってしまった。
「ごめんなさい。私、もう帰ります」
結花は泣いてしまう前に立ち去りたく、鞄の持ち手を両手で握り、早歩きで多目的ブースの側壁を通り過ぎようとしたが、彼女の目の前を秋人の腕が遮る。秋人は掌を側壁に強く打ち付け、その衝撃は結花を怯えさせた。
「あの、私」
「近くで見ても可愛いな」
秋人は彼女の目元に浮かぶ涙を人差し指で拭った。結花は彼の手をはたき落としたくなったが、何をされるか分からなくて動けなかった。彼の体はとても鍛えられているのだ。
「俺さ、結花ちゃんのこと好きなんだよ」
秋人の顔が近づいてくるので結花は険しい表情で体を逸らす。
「だからさ、俺を見ろって言ってんだよ」
結花は顎先を指で摘まれ、無理やり彼と顔を合わせることになった。結花は堪えられず、秋人の腕を払い落とし鞄を持つ手で彼を強く押しのけた。
「うお、強情だな。いいね、勇希くんとヤる時もそうやって激しいんだろ」
結花は彼の言葉を無視して走りだしたが、他校の制服を着た二人の男が彼女の行く手を阻んだ。
「どいてください!」
「マジだ。秋人コイツだよ」
「ほんとうだ。高校生になったんだぁ。大きくなったねぇ」
二人の男の片方は太っており、もう片方は小柄だった。結花は彼らが昔に自分を襲った二人の男子だと悟り底知れぬ恐怖を感じて逃げ出すも、太った男が即座に彼女をブロックし、胸を触りながら側壁に押し戻した。秋人は男の乱暴さに少し恐ろしくなった。
「おい、やめとけよ。写真撮るだけだろ?」
「関係ねえ、俺の初恋なんだよ」
「匂いも変わってるかもよぉ」
「まてよ。警察呼ばれちまうぞ!」
「脅しちまえば何にもできやしねぇさ」
太った男は結花の腕を掴んで多目的ブースの中へ連れ込もうとした。結花が助けを呼ぶために叫び声を上げようとしたが、口を強く押さえつけられてしまう。
「昔よりも格段に良いねぇ」
「俺が先だ!」
多目的ブースの扉が小柄の男によって開かれた時だった。
「やめろ」
男二人の動きが止まる。焦っていた秋人は声の主をみると、そこには秋人にとって因縁のある男が立っていた。
「蒼城勇希か」
秋人は目を丸くして彼の名前を呟く。
「そんなことしたって誰も幸せにはなれない」
勇希は悲しそうな顔で男たちに言った。
「コイツのカレシ? いいじゃん俺たちにもヤらせろよ」
「ずるいよなぁ。お前だけ気持ちよくなれるなんてずるいぞぉ」
勇希は二人の言い分を聞いて瞼を閉じ、そして開いた。
「その子が可哀想だよ。もう、やめよう」
「話をよぉ、逸らしてんじゃねぇぞ!」
太った男の左フックが勇希の頬を直撃し、彼は地面に倒れる。その光景を見た結花は反射的に踏み出した。
「蒼城くん!」
「お前は、僕と愛を育むんだよぉ」
結花は小柄の男に多目的ブースの中へ押し込まれそうになり、反射的に大里狩りを彼にかける。何が起こったか分からない男は、泣きそうになって太った男の方へと逃げた。
「お前みたいな奴が、俺は一番嫌いなんだよ。いいよな、あんな女の子とヤれて。それで、俺たちを見下してんだろうが。なんとか言ってみろよ!」
太った男は勇希の胸ぐらを掴んで彼の顔に強く言い放った。すると、勇希は血の流れる口を開いた。
「俺たちは同じだよ。誰かを求めて、傷つけて。でも、そこに愛はあった。暗闇の世界に光る、僅かな灯火のように。それで、十分なんだ」
勇希の言葉を聞いた秋人は、数多の悲しみが広がるその心に美樹との思い出が光のように浮かび上がった。
「答えになってないな。この、偽善野郎が!」
太った男は勇希を多目的ブースの方へと投げ飛ばした。結花は転がってきた彼に寄り添う。
「蒼城くん、大丈夫?」
「痛え、痛えよ」
小柄の男は寄り添い合う二人を見て、顔を歪めた。
「イクちゃん、アレやろうよ」
「ああ、あいつのヤベェ姿をカノジョに見せつけてやる。それっからだな」
二人の男が歩み寄ってくるので、結花は涙を流して顔を上げた。
「もう、やめてよ。何でこんなことするの。私が誰かを好きになったから?」
「カレシから離れろよ」
太った男によって結花は勇希から引き剥がされた。
「見てろよユカちゃん。コイツのあられもない姿を見て減滅すりゃいいんだ」
太った男が勇希のコートを剥がし、ズボンを下ろそうとした瞬間、秋人が叫んだ。
「待てよ、お前!」
「何だ、カレシの方に気があったのか?」
「もう、やめとこうぜ。ほら、警察呼ばれちまうよ」
「知るかよ。俺はコイツが気にいらねぇんだ」
太った男は動作を続けようとする。
「待てよ!」
秋人は叫んだ。
「ああ!?」
太った男の怒声に秋人は恐ろしくなり、泣きそうな顔をさらに歪め、地面に土下座して財布の中の万札を全て出した。
「分かった、これで終わりだ。ほら、十分だろ?」
秋人の姿を見た男二人は嘲るように笑う。
「いいね、十分といえば十分だ。30万か、安い巨乳デリヘルとヤれるかもな」
秋人は安堵した。
「でも、ユカちゃんの唇だけは貰ってくわ」
太った男は勇希を放す代わりに、傍らにいる結花の肩を抑えつけて舌を突き出す。それを見た秋人は焦り、その場に立ち上がって狂ったように叫んだ。
「警察呼ぶぞ!」
秋人の異様な様子に、その場にいる全員が動揺した。
「うるせぇな」
「警察呼ぶぞ、これ全部持ってけよ! 警察呼ぶぞ!!」
秋人の声があまりにも大きいため、太った男は不安になる。
「イクちゃん、誰か来た!」
小柄の男が指差す方には、こちらに歩いてくる老婆の姿があった。そして、彼女の掠れた声音が公園に響く。
「どうしたんやい、何かあったんか?」
「ヤッベェ、ズラかるぞ!」
太った男は警察を恐れ、秋人の札束を握りしめて小柄の男と共に走り去って行った。
「おお、あんたかい。酷い顔だねぇ。でも、悪くない」
老婆は多目的ブースの側壁に寄りかかって座る勇希をいたわると、横で立ち尽くしている結花に視線を向けた。
「この子の介抱はあんたの役目かね。ほら、そこの水道で傷を洗ってやりな」
「はい」
結花は静かに返事をした。
「蒼城くん。平気?」
「痛い、しみる!」
勇希は結花に濡れたハンカチで傷を拭われ、飛び上がった。
「朝霧さん、ごめん」
「何が?」
「俺、朝霧さんに乱暴したから。ごめんね」
「もういいよ。蒼城くんは私を助けてくれたじゃない」
勇希は結花の不安気な表情に安心し、公園の時計をみると、二時半を指していた。
「もう二時半だ。朝霧さん、俺行かなきゃ。友達と、俺の友達と約束したから」
「え……」
勇希の言葉に結花は動揺する。彼が立ち上がって公園を去ろうとすると、ベンチに座っていた秋人が彼を呼び止めた。
「おい、蒼城勇希」
勇希は立ち止まり、心配そうに秋人を振り返り見つめる。
「結花ちゃんのこと、どう思ってるんだよ」
「朝霧さんのこと?」
「そうだよ」
「そっか、そうだった。俺、朝霧さんにちゃんと言うんだ」
疲れ切った勇希は、静かに結花へ近づいて行った。秋人は不安な顔で彼の様子を見続ける。
「朝霧さん」
勇希は結花の前に立つと優しく微笑んで彼女の名前を呼んだ。結花は黙って彼の目を見る。
「君のことを、ずっと愛してるよ」
彼の言葉を聞いた彼女は嬉しさというより、寂しさを感じた。それが、別れの挨拶かのようだったからだ。
「これ、あげる」
勇希は優しく微笑み結花にイチゴ牛乳を渡すと、背を向けて歩いて行った。次第に小さくなっていく彼の背中。結花は勇希と初めて目を合わせた入学式の日を思い出して、手元のイチゴ牛乳に目を下す。図書館で一人ぼっちだった自分に彼は話しかけてくれた。自分のイラストを褒めてくれた。そして、愛してくれた。勇希と一緒に絵を描いた時間はとても楽しく、幸せだったと結花は気づき、彼と離れるのが酷く寂しかった。新春の風が吹き、結花の細い髪をなびかせ、その頰には一筋の涙が伝う。
「蒼城くん……」
次の瞬間、結花は走った。彼のもとへ。秋人は行ってしまう男の背中を追いかける結花の姿を見て、美樹が自分を呼ぶ声を聞いた気がした。
「蒼城くん!」
結花は泣きながら彼の背中に抱きついた。勇希は驚いて首を捻る。
「私、君と離れるのが寂しい」
「朝霧さん」
曇り空から太陽が顔を出し二人を明るく照らした。勇希は振り返って結花の顔を見ると、溢れた涙が日差しに照らされ、泣いているのがはっきりと分かった。
「ごめん。また、泣かせちゃったね」
勇希は結花を可哀想に思い、優しく頭を撫でると、結花は泣き声をあげて勇希の胸へ額を当てた。
「私を、置いていかないでよ。私も蒼城くんを、愛してる……!」
勇希の目頭は自然と熱くなる。
「そっか。俺も朝霧さんと、一緒がいいな」
告白を聞いた勇希も涙を流して結花を優しく抱きしめた。その瞬間、勇希の暖かさが父親の暖かさと重なり、彼女は安心した穏やかな表情になって、彼の背に両手を回した。
秋人は目を細め、ポケットに手を突っ込んで公園を去った。
三年後、春の日の朝。水路沿いの桜並木は満開に咲き誇っていた。その下で、スーツを羽織った勇希は木漏れ日に目を細めながら歩いている。そして、水路の小さな橋の上でしばらく待っていると、横から名前を呼ばれた。
「勇希くん」
振り向くと、髪を後ろで束ねて桜色のパーティードレスを着た結花が笑顔で立っていた。
「結花」
「どう?」
「綺麗だね」
「ありがと」
結花は嬉しそうに笑うと彼の手を引っ張った。
「涼くんの家に行くんでしょ。早くしなきゃ勇希くん」
「まだ急がなくても平気だよ」
「あれ、ほんとだ。まだ九時だね」
白く細い手首に巻かれた金の腕時計を見る結花に、勇希は目を細め、宙を舞う桜の花びらに手を伸ばした。
「桜、本当に美しいね」
「うん、満開。ねえ、二人に何か買って行こうよ」
「何かって?」
「ドーナツとか」
「そうだね。俺、丸が連なってるやつがいいな。涼はオールドファッションだった気がする」
「私、ピンクのにする。春香ちゃんにはタピオカかな」
「結花、それってドーナツ屋にあるの?」
「喫茶店も寄るの」
勇希のツッコミに結花は笑い声を上げる。そして、二人は軽く手を繋いで桜並木を歩いた。
十字架の下、教会の扉が開かれ、新郎新婦の二人にフラワーシャワーが降り注いだ。
「見て、勇希くん。涼くんと春香ちゃんだよ!」
大勢のゲストの中、結花は勇希の腕を持ってはしゃいでいる。
「花の香りがする」
勇希は春香と涼を見た。二人は太陽の日差しでキラキラと輝く花吹雪を浴びて、幸せそうに笑っている。すると、勇希は二人と一緒に喫茶店に行った日や受験勉強、辛かった時に支えてもらった記憶を思い起こした。
「勇希くん?」
結花が勇希の顔を見ると、頰に大粒の涙が流れているのに気づき、彼女は察したふうに優しく微笑んで彼に寄り添った。そして、しばらくの後、ゲストの歓声が湧いたので驚いた結花は顔を上げる。すると、花束が勇希に直撃し彼はそれを落とさないように抱えた。
「何、花束?」
勇希が何事かと焦っていると隣の結花がお腹を抑えて笑っていた。
「よかったね勇希くん、ブーケもらったよ!」
「ああ、あれか」
勇希は照れくさそうに花束を掲げる。振り返った春香は勇希が花束を持っているのに気づき口元を抑えて笑い、涼の肩を叩いた。
「参ったな」
勇希はバラの香りに圧倒され、結花に助けを求めたが、彼女は悪戯にブーケを彼に押し付けた。
式が終わり、勇希と結花は水路沿いの桜並木を歩いていた。バラの花束を楽しそうに抱える結花を隣から見つめていた勇希は良いことを思いつく。
「そうだ結花。絵のモデルになってくれない?」
「モデル?」
「うん、前から結花のイラストを描きたかったんだ。でも、ドレス着る機会なんてなかったから」
「どこで?」
「公園で」
「じゃあ、夕食奢ってくれたらいいよ」
「え! まあ、いいよ?」
「やった、勇希くんの成長ぶりを私が見てあげるね」
「骨格はもう完璧に抑えてある、背景の桜と合わされば隙がない」
「ほぉう、見せてもらおうかしら?」
得意気な結花に勇希は吹き出してしまう。しかし、結花は不思議そうに彼を見てから、再び自信満々で胸を張るのだった。
桜の木が縁に植えられた公園に着くと、結花の顔が引きつった。
「勇希くん、人が通りそう」
「ドレスだから、見られても平気だろ?」
「平気じゃない」
結花は不安げに辺りを見回した。
「まあ、デッサンだけだから。すぐ終わるって」
「早くしてよね」
勇希はブランコの柵に結花を座らせ、顔の角度や花束の持ち方を細かく指示した。
「いいよ、その角度だね。うん、可愛らしい。ん、もう少し微妙に笑って」
「カメラマンかよ!」
結花は褒められていると心なしか嬉しくなり、彼女自身もノってきた。三十分ほど経過し、勇希は自分の中で完璧な配置が完成する。
「よし。結花、完璧な配置になった」
「そう? なら、早く私を描きだして下さいな」
「わかった」
そして急に静寂が訪れた。勇希は真剣にキャンバスへとペンを走らせる。結花は表情一つ変えず、こだわりぬいた顔の角度を維持し続けるが、勇希の熱い視線を感じるとどうしても彼が気になってしまう。
「あれ。結花、こっち見ちゃだめ」
「わかってるわよ。もう……」
「結花。口元の表情が変わってる!」
「うるさい」
二人が一生懸命に絵を作っている様子を、老婆と小さな女の子が遠くから見ていた。
「おばあちゃん、ブランコにお姫様みたいな人がいる!」
「そうだねえ。いいものだ、ありゃ愛かね?」
「愛?」
「おばあちゃんも曖昧なんだ。けれど、とってもいいものは確かさね」
「へえー!」
「ほら、もう行かないと純ちゃんに怒られるよ」
「わかった!」
老婆に引っ張られる女の子は、体を捻って二人の様子を憧れた瞳で見続けた。
二年後。入道雲の下、東京の一角にそびえ立つマンションのベランダで、勇希は海風を感じながら洗濯物を取り込んだ。
「勇希くんお疲れ様。ねえ、春香ちゃん子供が産まれたんだって」
長い髪を下ろした結花はカーペットに座ったままスマートフォンの画面に映る赤ん坊を勇希に見せた。
「ほんとだ、眉毛が涼にそっくり」
「この長い睫毛は絶対春香ちゃんだよ!」
二人はしばらく笑うと、勇希が結花の隣に座り、彼女の手を優しく握った。
「来週だね」
「うん……」
二人は手を握り合うと、また笑い出した。リビングのタンスの上には、四人で撮った写真が立て掛けてあり、その隣に二つの指輪が静かに輝いていた。