二話「谷の向こう」
「おら、見せろよ!」
「脱がしちゃえ!」
入道雲が広がる青空の下、広大な花畑の真ん中で十一歳の少女が同年代の男子二人に弄ばれていた。
「やだ、触らないでよ!」
少女の着る白いシャツのボタンに触れる男子の手を勢いよく振りほどくと、花弁が空に舞った。
「イッテェ」
「いくちゃん、大丈夫?」
男子は悔しそうに結花を睨みつける。
「こいつ、もう許さねー」
「イクちゃん、アレやろうよ。帰っちゃえばバレないでしょ」
結花は怖くなって逃げようとしたが、遅かった。太った方の男子が彼女を押し倒して覆い被さる。
「こいつ、いい匂いするぜ。嗅いでみろ」
一面に咲くコスモスがへし折れる。結花は絶叫しようしとしたが、太った男子に口を塞がれた。
「ほんとうだぁ。いい匂い」
背の低い男子はうっとりとした顔で、結花の長い髪を握り口元へ寄せた。結花は涙の溢れる目を見開き狂ったように叫ぶが、男子の大きな手が強烈な力で彼女の口を押さえつけているため、こもった声しか響かない。
「よおし、この技で」
太った男子は結花の両足を自分の足に絡ませて、彼女を拘束したまま仰向けにさせた。
「今だ、脱がせ!」
仰向けで無理やり開脚させられた結花の下で、興奮の絶頂にある太った男子は叫んだ。
「うん」
背の低い男子は生唾を飲み、震える指先を結花の着るワイシャツのボタンへ伸ばす。その瞬間、男の怒声が花畑に轟いた。
「ゆっちゃん、おい、俺の娘に触るな!」
結花の父親が花を撒き散らしながら、すごい剣幕で走って来た。
「ヤッベェ、イクちゃん誰か来た!」
「くそ、ズラかるぞ!」
二人の少年は怯え上がり、一目散に逃げ去る。
「ゆっちゃん、ゆっちゃん! 平気?」
滅茶苦茶になった花の中に仰向けになった結花は父親の顔を見ると顔を崩して泣いた。
「お父さん、怖かったよお!」
結花は父親に抱きつくと、彼もまた娘を抱きしめた。
「ごめんなゆっちゃん。でも、お父さんがいるからもう平気だぞ。怖いことは無くなった」
結花は必死に父親にしがみついて泣き叫んだ。強く抱きつくほどに父親も自分を抱いてくれたので自然と安心し、結花の表情は段々と穏やかになる。
「お父さん、どうしたら怖い人から身を守れるの?」
父親と商店街を歩く結花は不安そうに尋ねた。
「そうだな。ゆっちゃんは細いからなぁ」
父親が通りを眺めていると、オフィスの二階から護身術と表記された看板が突き出ているのに気づいた。父親の歩みが止まったので、結花は怪訝そうに眉を寄せる。
「あれだ」
結花はオフィスの二階に向けられる父親の視線を追った。
「護身術?」
「ゆっちゃん、やってるみるかい?」
結花は少し怖気付いたが、花畑の出来事を思い出して拳を握りしめた。
「やる。私は強くなりたい」
父親の顔を見上げる彼女の瞳には、一寸の迷いもなかった。
勇希の指が胸元のボタンに触れた瞬間、結花は目を見開き彼の腕を思い切り掴んだ。そして、そのまま勇希の制服の襟を反対の手で握り、持ち上げて背負い投げした。結花の甲高い雄叫びと衝撃音が、静まり返った公園に轟く。
「痛え、痛えよ」
便器の手すりに頭を強打した勇希は、涙を流して蹲る。そんな彼の前に結花が立ちはだかった。
「ねえ、蒼城くん。君は一体何を考えていたの?」
「朝霧さん?」
勇希を見下ろす結花の顔は怒りと悲しみに歪み、険しい瞳からは涙が流れていた。
「私のこと変な目で見てたんだよね。結局、セックスがしたいだけなんだ!」
結花の激しい金切り声を聞いた勇希は、びくっとしてから俯き、寝小便がバレた子供のような顔で泣き始めた。
「ホントに気持ち悪い。最っ低だよね!」
結花が立ち去ろうとした時、あまりにも感情的だったため大きな靴音が多目的ブースに響いた。それを聞いて焦った勇希は、突然立ち上がり結花の肩を掴んでこちらに振り向かせる。
「違うんだ朝霧さん。ごめんなさい。俺は、朝霧さんが本当に大好きなんです!」
泣き叫ぶ彼を見た結花は虫酸が走った。しかし、どこか安堵のようなものも感じ、同時に凄く意地悪な感情が心の底から湧き上がる。
「触らないでよ、変態!」
肩に置かれる手を激しく払い除け、彼の頰に強烈な平手打ちを決めた。致命の言葉と一撃を受けた勇希は、全身の力が一瞬だけ抜けてひざまづく。
「信じてたのに」
結花は制服の裾を強く握りながら呟き、鞄を持ち上げて勢いよく多目的ブースを走り去った。あまりに勢いをつけすぎたせいで、ルーズリーフが落っこちる。
「待って、朝霧さん!」
勇希は走り去る結花の背中に叫んでから、公園の地に突っ伏した。すると、彼女の落とした英作文のルーズリーフの端に、自分の名前が三つほど小さな丸字で薄く書かれているのに気づく。
「そんな。嫌だよ、朝霧さん」
太陽がほとんど沈み、道路の電柱の影から公園を見つめる老婆の姿があった。街灯が灯り、勇希はふと電柱を見たがそこには何者も照らされていなかった。
翌日の朝は雨が降っていた。勇希は五回目のアラームで目を覚まし、目覚まし時計の針を見ると六時半だった。死んだ顔でリビングへ向かうと平皿に盛られたチャーハンが卓の端に寂しく置いてある。箸をとり、深く俯いた姿勢でベチャッとした米を少しずつ口へ運んだ。
「ううぅ」
勇希は小犬の泣き声のような嗚咽を漏らして泣く。学校に行きたくない。勇希の胸はそれで一杯だった。重たい体を持ち上げて、制服に腕を通した勇希は、傘をさして水路沿いの桜並木をとぼとぼ歩いた。結花と出会わないように、身を縮めて教室へ向かう。お昼は食堂に行かず独り教室で勉強をしていたが、教科書の文字に目のピントは合っていない。あの出来事がフラッシュバックするたびに消えてしまいたい想いに駆られる。けれど、こうやって何にも関与しないでいると少し楽だった。
英語の三人組グループワークで勇希の隣の席に座る桜井春香は彼の様子がいつもと違うことに気づいたが、それについて特に聞こうとはしなかった。
「蒼城くんの番ですよ」
ロールプレイで自分のテキストを読み終わっても反応が無かったので怪訝な顔で尋ねると、勇希は俯いた顔をゆっくりあげた。春香は彼のもの寂しげな瞳を見て息を飲む。それが、彼女が朝食で食べた焼き魚の目のようだったからだ。
「何だよお前、俺が好きだった女の子にフラれた時みたいな顔をしてよ」
器用貧乏の菊池涼が茶化すと、勇希は眉を歪ませ、泣きそうな表情になる。
「いや、別に」
「そうですよ、蒼城くん。それじゃあ、私が好きだった彼氏に裏切られた時の顔じゃないですか」
今度は春香が妙な笑顔で言うと、勇希は慌てて目薬を差した。
「違うよ、ていうか君ら壮絶だな!」
春香は「そんなもんでしょ」と受け流そうとしたが、涼が顎に指を添えてドヤ顔をしていたので、勇希が彼女か何かにフラれたのだと察した。
「なあ、勇希。俺たちと喫茶店行こうぜ。今日は花金だしよ」
「私もかい」
春香は嬉しそうな顔で言った。
「いいけど。放課後部活あるんだろ?」
勇希は涙が溢れそうなので目元を片手で覆って答えた。
「サボればいいんだよ。俺たち、どうせみそっかすだしさ」
「わあい。私も蒼城くんみたいに帰ってみたかったんだ」
「お前みたく勇気が無くてよ。部活入らなきゃよかった」
二人がはしゃぎだしたのを見た勇希は恐ろしくなり、春香にロールプレイの箇所を聞こうとした瞬間だった。
「そこ、うるせぇぞ。やる気無いなら出てけ教室からぁ!」
英語の福原先生の怒声が教室を超えて廊下中に響き渡る。三人は無表情になり、縮こまった。
「終わりましたね。クソ長い福原のホームルーム」
春香は一番乗りで昇降口を駆け出した。
「短いほうだけどな」
涼の後について勇希は玄関を抜けると、ポツポツと天気雨が降っており、空に虹がかかっていた。
「すげぇ」
勇希はキラキラと輝く雨粒を見て絶句する。
「勇希、行こうぜ。俺たちと一緒に」
虹のかかる青空の下、二人は並んで微笑んでいる。
「うん!」
勇希は天の使い達を目の当たりにし、思わず涙ぐんだが彼らに心配されまいと直ぐに目元を払って力強くアスファルトを踏み込んだ。
交通量の多い湿った国道線の両脇には沢山の店が構えていた。そして、その中に紛れた喫茶店の水たまりが残る駐輪スペースに、三台の自転車がとめられていた。
「「朝霧結花!?」」
ミルクティーを飲む天の使い達は驚愕した。勇希は彼らが大きな声であの子の名前を叫んだので、不安になる。
「知ってるの?」
「そりゃ、知ってるだろ」
「結花ちゃんに手出すなんて。あんた勇気ありますね」
春香は楽しそうにタピオカを吸い上げた。
「おいひー。モッチモチしてるね、これ」
「で、何で振られたんだよ」
ジト目の涼が尋ねると、勇希は塞ぎ込む。
「好きって言ったら、なんか」
「告ったんですか! ……うあ」
春香は口の中で転がしていたタピオカをボロボロとテーブルに落とした。
「今までに話したことあったのかよ?」
涼は困った顔で見つめてくる春香にティッシュを渡す。
「うん。いつも一緒に図書館で遊んでた」
勇希は何故が自信ありげに言った。
「勇希はイケメンなのにな。どんな風に告ったの?」
「いいな、結花ちゃんはモテていいな」
勇希は頰を赤くして、窓の外を見た。
「抱きしめた」
勇希が言うと、店内に流れるクラシック音楽が二人の耳に聞こえなくなる。そして、彼らは恐る恐る目を合わせた。
「蒼城くん。抱きしめてから、どうしたの?」
春香が尋ねると、勇希はセクハラがバレた政治家のように深刻な顔で俯いた。
「エッチしようとした」
「「きゃああ!」」
春香と涼は顔を赤くして勇希から身を引いた。叫び声が店内に響いたので周りの客が驚いた顔で振り向いてから、迷惑そうに元に戻る。
「だって、あんなに可愛い顔で、嬉しかったよって言われたら、抑えられなくなっちゃうよ」
勇希は目を瞑って後悔する。
「何に対して嬉しいですか?」
「俺が朝霧さんの髪を、綺麗だねって言ったこと」
春香と涼は、頰を赤くして今度は目を逸らす。
「なんだよ、割と青春してんじゃねぇか」
「あーあ、勿体ない。せっかくいい感じだっのに」
春香は空の容器をストローで吸って音を立てた。
「でもさ、謝れば許してくれそうじゃね?」
涼が言うと勇希は目を丸くして「えっ」と顔を上げた。
「何かさ、嫌われたって言うより喧嘩っぽいじゃん」
「蒼城くんが警察に呼ばれちゃいますね」
春香が笑顔で言うと、男二人の顔が暗くなる。
「勇希、朝霧結花のこと諦められるのか?」
「無理。地の果てまで追いかけてやりたいくらい好きなんだ」
「なら、やるしかねぇだろ」
真剣な顔で見つめ合う男二人を前にして、春香は寒気がした。
筋雲がかかった青空の下、背の高い男子と無表情な女子が校舎の壁に寄りかかっていた。秋人は隣の女の子の胸を横目で凝視しつつ、話しかけようと心の準備を整えた。
「あのさ」
「きゃあ!」
彼が口を開いた瞬間、結花は手をバタバタ振って日差しの中を踊り始めた。秋人は拒絶されたと思って焦るが、彼女の顔にたかる蛾に気づいて安堵し、直ぐにいい案が浮かんで股間が熱くなる。
「平気だよ。蛾は何にもしねえから」
秋人は校舎の影から日差しに出て、結花にたかる蛾の羽を摘んで何処かへ飛ばし、優しい口調で口説き始めた。
「有難うございました」
結花は無表情で頭を下げ、それから彼の指先が粉まみれになっているのに気がつく。
「あ、指先が」
「ん? あぁ、そういや蛾の羽って汚えんだっけ」
彼は指先を擦り合わせて笑っているが、結花は居たたまれなくなり、ポケットに手を入れた。
「どうぞ、使ってください」
秋人は差し出される白くて細い指に挟まれた薄いピンクのハンカチを見て嬉しくなり、結花の瞳を見つめた。しかし、彼女の視線は自分に向けられているが、その瞳の奥は明らかに違う誰かを見ているようだった。
「ありがとよ」
彼は退屈そうな態度に豹変し、乱暴にハンカチで指先を拭った。結花は怪訝に眉を潜める。
「君たち、準備できたからさ」
校庭から駆け寄ってくる中年の男に秋人はぶっきらぼうな返事をし、それと同時に苛立ちが胸の奥からこみ上げた。
「きたぞ、目標がトイレから出てきた!」
「襲撃地点まで四十メートル。蒼城くん、廊下の角で待機して」
勇希は春香に言われるまま廊下の角に背中を押し当て、暴れる心を何とか落ち着かせようと努力した。そんな彼の脇で屈む涼が彼の足を突く。
「スリーカウント。スリー、ツー、ワン」
学校の裏庭で小鳥が囀った。
「行け」
勇希が勢いよく廊下へ飛び出すと、彼は結花と見事にぶつかった。それを見た涼と春香は自分たちの計算が合っていたことに心から喜びを感じる。
「あの、朝霧さん!」
勇希が何か謝罪しようと結花の目を見た。すると、胸をナイフで刺されたような衝撃が走る。結花の瞳がまさに汚い虫を見るように冷徹で、顰めっ面が酷かったからだ。
「マジッキモい!」
結花はぷいっと顔をそらし、そう吐き捨てて彼を素通りしてしまう。勇希はそのまま廊下に崩れた。
「もうさ、よくね? あんな女」
喫茶店でココアを啜る涼は不機嫌な顔で言った。
「蒼城くん。警察呼ばれてないだけマシですよ。手を引きましょう」
「勉強しようぜ。大学行ったらもっとエロくて優しい女の子いるだろ?」
「うん、でも」
「でも何だよ?」
「朝霧さん以外好きになれる自信がない」
春香が黙り込んだ勇希を代弁した。
「あんなこと言われりゃ普通嫌になるだろ。お前、誰よりも朝霧結花が好きなんだな!」
勇希は赤くなってりんごジュースを吸い上げた。
「仕方ねぇな勇希。お前に現実ってやつを見せてやる」
涼が鞄を漁り始めたので、春香は心配そうに眉を寄せる。
「ほらよ」
勇希の前に雑誌が飛んできた。
「なんだ、これは」
雑誌の表紙には微笑んだ結花と爽やかな笑顔を浮かべる長身の男が映っていた。
「学校のパンフレット。今回表紙に選ばれたのは朝霧結花と木島秋人だ」
「私達の戦争は終わったの。もう戦わなくていいのよ、蒼城くん」
勇希は自然と涙を零し、雫がパンフレットの表紙に何粒か落ちる。嗚咽を上げる勇希に同情したのか、涼は席を立って彼の肩を抱いた。
「そりゃそうだよな。木島秋人。あいつはこの学校で一番のイケメンだ。勝てっこねぇんだよ。打ち合わせで仲良くなった奴らは、今頃馬小屋で何してるんだろうな? おっと、悪かったよ」
涼の囁きを聞いた勇希の嗚咽は激しくなり、彼はテーブルに突っ伏した。春香も哀れに思い、席を立って彼の肩に手を置いた。
「私達もね、蒼城くんと同じなの。頑張ったよね。でも、君の朝霧さんを想う気持ちは、本物だった部分もあると思う。それだけは間違いじゃない。これからは、その気持ちを大切にして生きていこうね。私達、みんなで」
「お前には俺たちがついてる。どうせまた、新しく好きな人ができるさ!」
勇希は涙で汚れた顔を上げ、二人の腕を抱いた。
「みんな、ありがとお」
彼の泣き声を聞いた涼と春香もつられて涙を流した。
シャワーのお湯が排水溝へ次々と吸い込まれて行く。結花は暗い瞳で鏡に映る引き締まった体を見つめていた。しばらく立ち尽くすと、呆れたふうにため息をついて椅子に座り頭にシャワーを当てた。昼間の勇希の暗い顔が脳裏によぎる。すると、心の底から煮えたぎる快感が湧き出した。
「ざまみろ」
怒りの混じった笑みで囁くと突然自分のセリフに悲しみを感じ、涙が溢れる。結花は歯を食いしばり、自分の肩を抱いて蹲った。
布団の中で明日を楽しみにしていた勇希は、ふと結花を思い出した。彼は友人に囲まれ、彼女を忘れかけていたのだ。心にあるのは春香と涼のことばかりで、孤独なあの子の存在は消えかかっていた。彼女を独りにし、自分だけは皆んなに囲まれて笑っている。勇希は自分が酷く無責任な男に感じた。それから、結花が心配になって、また少し胸がドキドキしてくる。そして、雑誌の表紙で彼女と共に微笑む男を思い出して苦しくなったが、何処か安心した。
勇希は暗くてもやもやした空間に眠たそうな顔で突っ立っていた。こんな場所は知らないが、凄く親近感があって当たり前のように感じた。
「おお、どこにいるんだい」
声が聞こえた。それは無機質な声音でよく知っているものだった。勇希は「何が」と心の中で問いかける。
「僕の収まるところだよ。全部絞り出すところだよ。君が一番欲しいものだろ?」
その声を聞くと、勇希は胸の奥にざわめきと不安を抱く。同時に、暗闇のもやもやした空間の一部分に、本を読む結花の横顔が浮き上がった。
「いるじゃないか、あれに絞り出したくて仕方ないんだよ」
勇希は声を聞くと、物欲しげに結花へ手を伸ばした。すると、ピンクの照明の下、ベッドに裸の結花が恍惚な表情で仰向けになっており、その上に自分が覆い被さる形で両手をついていた。
「ほら、君の大好きな子だよ。心の底から味わいなよ。絞り出しなよ」
勇希は結花の顔によだれを垂らして、自然と彼女の胸へ手のひらを近づけた。しかし、結花の頰に涙が伝っているのに気づき、勇希の手は動きを止める。
「まって」
勇希は激しく戸惑いを感じて結花から離れたが、そのせいで股を大きく開いた彼女のあられもない姿が目に映った。勇希の両手が乱暴に彼女の太ももを抑えつけ、さらに開脚させる。
「正直じゃないやつだな。僕をあの中へ滑り込ませろよ。そして、全部吐き出させてくれ」
勇希の股間に棲む獣は、独りでに結花の股へと強引に進み始めた。勇希は必死に抵抗するが、力が強すぎて徐々に負けていく。
「やめろ!」
勇希は目を見開いた。窓から入ってくる日差しに目を細め、目覚まし時計を確認すると五時五十分だった。そして、額の嫌な汗を拭って体を起こすと、勇希は前屈みになってベッドから降りた。
曇り空を不安に見上げながら、水路沿いの桜並木を歩いていると、突然あの時の老婆に話しかけられた。
「あんた。浮かない顔をしているねぇ」
「いや、そんなことは」
勇希は顔を逸らしたが、老婆は無理やり覗き込んでくる。
「そりゃ、大好きな女に振られた顔だよ」
勇希は老婆の言葉に驚き暗い顔で俯いた。すると、老婆は図星に当たる彼を見て優しい笑みを浮かべる。
「まあ、来な。話ぐらいは聞いてやるさね」
勇希は腕時計を見て焦るが、どうでもよくなり老婆の後をついて行った。
「でも、あの子は美人ですし、きっと幸せになれますよ。僕、もうそれでいいんです」
ライオンの遊具にまたがった勇希は悲しげに微笑んだ。その隣でウサギの遊具に跨り、前後に揺らす老婆は高笑いを公園に響かせる。
「あんた、相当にその女を愛しているねぇ。羨ましい限りだよ」
勇希は頰を赤くした。
「女はお前に対して少しぐらい気があったんじゃないのかい? 心当たりがあるはずさね」
勇希は深く考え込み、結花に逃げられた日を思い返した。
「名前。あの子、自分のノートに俺の名前を書いていました」
すると、老婆はさっきよりも大きな高笑いを上げ、噎せてしまった。
「大丈夫ですか?」
「うん、平気さね。あんた、もっと自信持ちなよ。折角のハンサムなんだからさ」
「俺は、ハンサムでも何でもありませんよ。ただの、変態です」
「なら変態よ。何故、あんたは今学校に通えているんだい?」
「え?」
「なんで、警察やら教員に呼び出されてないのかって聞いているんだよ」
勇希は眉を潜めた。
ーー朝霧さんが黙ってくれている?
勇希は驚いた顔で老婆を振り向くと、彼女のしわくちゃな瞼の奥の瞳は真っ直ぐにこちらを捉えていた。
「その女を愛せるのは、多分あんたしかいない。自分でも薄々わかっているんじゃないのかい?」
「でも、この前だってキモいって言われました」
「本当にあんたのことが嫌なら悲鳴を上げてるさね」
老婆は控えめに高笑いすると、ウサギの遊具から降りて公道の方へ歩いて行った。勇希も遊具から降りたが、老婆が公園の真ん中で挙動不審に辺りを見回しているのに気づく。
「帰り道は、何処?」
不安げに彷徨う老婆に、勇希は恐ろしくなって後退りした。しかし、彼は拳を強く握りしめ、強い眼差しで彼女へ駆け寄る。
「おばあさん。僕が教会まで連れて行きますよ」
勇希は老婆の皺だらけな細い手を取ると、丁重な口調で彼女に言う。
「あんた、勇気を出しな」
老婆は恍惚とした顔で勇希の手に囁いた。
高校三年の秋、勇希は受験勉強に明け暮れていた。春香と涼とはクラスが変わってしまい自分だけ一人ぼっちになったが、勉強をする上ではむしろ好都合だと言えた。英語の福原先生は厳しかったが、彼の恫喝は勇希のトラウマとなっていて勉強をしない瞬間が恐ろしく感じた。四限が終わり、いつものように昇降口へ直行したいところだが、ずっと尿意を我慢していたため、焦ってトイレへと向かった。
用を足し、凍てつく水で手を洗っていると、三人組の男が騒がしく話しながらトイレに入ってきた。勇希はその中の一人である秋人と目が合い、気まずくなる。勇希は一所懸命手の洗剤を落とした。
「そういえばさ、朝霧結花って良くね?」
勇希は動かしていた手を止めた。
「わかる、三年の可愛い子でしょ。秋人、パンフレットの時どうだったよ」
秋人は用を足しつつ、ポケットから薄いピンク色のハンカチを取り出して、二人に見せびらかした。
「その時に結花ちゃんから貰った。これで何回でも出せるわ」
秋人が自慢気に言うと、他の二人は奇声を上げて興奮する。彼らの声を聞いた勇希は険しく眉を寄せてトイレから消えるように立ち去った。廊下を歩いている途中、男たちが大好きな子に群がる光景が頭に何度も再生され酷く嫌悪するが、行為に及んでいた自分自身の姿も重ねて思い起こされる。
「俺も同じだな」
勇希は廊下で立ち止まり、口ずさんだ。彼らを断罪する権利が自分のどこにあるのか。自分には彼女を幸せにはできず、性欲の捌け口にしかできないのでは、という想いが一層強くなる。しかし、勇希の心にはほんのりと希望が生じていた。自分は木島秋人のように名声ある美男子では無かった故、結花に喜ばれなかったが、彼の場合なら彼女は幸せを感じるのではないだろうか。勇希の表情は自然と険しくなり、鼻の奥が痛くなる。ようやく楽になれると思った。けれど、激しい孤独が彼を襲う。朝霧結花のような女性には二度と出会えないと確信していたからだ。これから先、自分は一生、好きな人を前にした際の鼓動を感じないだろう。ふと、窓を見ると、向かい側の校舎に図書館の外壁が見えた。すると、一年前、結花と過ごした日々が思い起こされる。結花の笑顔が好きで、毎日彼女に嫌われないかと心配ばかりしていた。でも、謝れば彼女は笑って許してくれたのだ。自分はそんな優しい女の子を玩具のように扱い、壊そうとした。彼女はもう二度と許してはくれないのだ。勇希は、いつのまにか溢れていた涙を拭い、鼻をすすりながらゴミ箱へ歩み、ポケットの中から丸字で自分の名前が書かれたノートの切れ端を取り出し、捨てようとした。
ーーその女を愛せるのは、多分あんたしかいない。
老婆の声が頭に響き、彼の手は静止する。
「愛せる」
勇希はその言葉に何か引っかかるものを感じ、ゴミ箱から手を引っ込めた。たしかに自分は不誠実な目で彼女を見てきたが、本当に全てがそうだったのか。一生懸命記憶を辿ると、彼女の髪を褒めた瞬間が浮かんだ。あの時、拒絶されてしまったけれど、彼女を喜ばせたいだけだった。女の子の髪を褒めるなんて、そんな恥ずかしいことは普通できない。しかし、結花のためなら勇気が持てた。勇希は、彼女のためなら何だってできたのだ。
「俺は、朝霧さんを愛してたんだ」
性欲の中に隠れてしまっていた誠実な自分に気がつき、勇希は途端に涙を流した。彼は、結花との関わりを通して愛を知った。女の子に何かしてあげたいと思ったのは初めてだったのだ。勇希は想いを伝えたい気持ちに駆られ、辺りをキョロキョロ見回した。今すぐにでも伝えなければ、もう二度と機会は無いんじゃないか。しかし、突然結花の酷いしかめっ面と金切り声が脳裏をよぎり、萎縮してしまう。怖くて仕方がない。拒絶されたらどうしよう。そして、勇希はポケットにノートの切れ端を収め、昇降口へとトボトボ歩いた。アールストレートの少女はそんな彼の様子を廊下の角から見守っていた。
放課後、勇希は結花の教室を見に行くために歩いていた。そして、自販機で買ったイチゴ牛乳をポケットの中でいじりながら、昔の思い出にふける。小さい頃、よく臍を曲げることがあり、そんな時に母親がイチゴ牛乳を買ってくれたのだ。イチゴ牛乳を飲むと元気になる。結花もまた同じように喜ぶはずだと勇希は自分に言い聞かせた。
「朝霧さんだ」
例の教室には、残って勉強をしている人がちらほらといた。そして、窓際席に結花の姿があった。窓から差し込むオレンジの光に照らされる彼女の櫛でとかされた髪は、若干茶色っぽく艶やかに輝いている。勇希はポケットの中に収まるイチゴ牛乳から凄い圧を感じ、肩を縮めた。結花が美しいほどに勇希の心は不安に満たされていくのだ。勇希がその場を動けずにいると、廊下から長身の男がポケットに手を入れて歩いてきた。勇希は振り向くと彼が木島秋人だと一瞬でわかり、恐れを感じた。秋人は怯える勇希の瞳を確認すると、意地悪そうに口元を緩ませて教室に入る。悪い予感が走り、勇希は一生懸命耳を澄ますと、男と女の話し声が聞こえた。女の方は明らかに結花の声で相手の男が秋人だと確信した。しばらく会話を聞いていたが、勇希は堪えを切らして歩き出す。教室の扉を通り過ぎる時に二人の様子が見え、女の子の方は柔らかい表情で笑っていた。勇希の頭にはいつまでも彼女の笑顔が消えず、ポケットのイチゴ牛乳に手が触れないように廊下を歩いた。