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キャンバスの君  作者: アーケ
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一話「美術品な女子」

 蒼城勇希はぶかぶかの学制服に袖を通し、水路沿いの桜並木を歩いていた。空は素晴らしい快晴で青空の真上は黒みがかっていた。勇希は都会から引っ越してきたばかりで土地勘が無く、道をうろつく老人達に何度も声をかけた。

「あの、西校ってどこですか?」

「あんた、可愛い顔をしているね。どっからきたんだい?」

 勇希はお婆さんに迫られ、顔を顰める。

「東京です」

「東京かい。ハンサムな道理だよ。あたしの孫にそっくりだねえ」

「それで、西校って」

「西校? そりゃ、この先を右に曲がって国道に出るだろ。それで真っ直ぐ進んでりゃ見えてくるがね……」

 お婆さんは得意げな顔で説明したが、しわくちゃな目元はどこか呆然としていた。

「ああ、お母さん。勝手に外へ出歩いちゃだめじゃない」

 金縛りのような静寂を、婦人の声が解き放った。彼女は遠くの路地から駆けつけると、お婆さんの手を取る。

「ごめんね、びっくりさせちゃって。今日、入学式?」

「はい。高校の場所が分からなくって」

 勇希は吃りながら言うと、彼女は少し俯いて暗い顔になる。

「高校ね。この先を左に曲がってすぐに公園があるの、それから橋を渡った先を左に行けば見えるはずだから」

「ありがとうございます」

 勇希はお婆さんの様子を不安げに横目で見ながら礼を言った。

「あんた。あの人と同じで苦労するさね。あたしなんかを口説いたからだよ」 娘に連行されるお婆さんが勇希の背に言い放った。勇希ははっとして振り返ったが、花びらの舞う桜並木しか見えなかった。




 勇希は体育館に並べられた椅子の一つに背筋を伸ばして座り続けた。三百六度全てが勇希に圧し掛かる。緊張と退屈さが渦巻く入学式が無事終わったとしても勇希の苦しみは終わらない。教室に誘導される間の気まずさは大変なものである。勇希は自分に友達ができるか不安で仕方なかった。教室の座席に全員が座ると、先生は「ちょっと待ってて」と何処かへ行ってしまった。中学の入学式もそうだった。先生が大人の世界へ行っている間の一時間は、教室で新しい友達を作る時間なんだと勇希は納得していた。隣の生徒はすでに後ろと仲良く話をしており、見たところ中学からの友達という感じだった。勇希は理不尽な目にあっている気分になった。このままでは本当に孤独になってしまう。そんな訳にはいかない。ひとりで学校給食を食べるなんて嫌だ。しかし、前も後ろも友達とのお喋りに夢中で、そこへ割り込める勇気など勇希には持ち合わせていなかった。こうなったら自分と同じような態度の人を探すしかない。勇希は首を回して教室を見渡した。しばらくキョロキョロしていると勇希の首がぴったりと固る。教室の隅、窓際に座っている一人の少女に勇希の瞳は釘付けにされてしまったからだ。その少女は誰とも話さず一人で座っていたが、勇希と違って全く緊張している様子は無く、頬杖をついて窓から見える遠くの山々を眺めているだけだった。勇希はそんな彼女の横顔に見惚れ、しばらく見つめていた。すると、少女は勇希の強い視線に気づき彼を振り向いた。少女と目が合った勇希は心臓が飛び出しそうになり、なんとか誤魔化そうと考えたが今更何をしても無駄だと諦めた。勇希は頰を真っ赤に染めて、怪訝な顔の少女に手を振ろうとしたが、何故か体が動いてくれない。少女はこちらを見てくる男の子を前にして頰を赤くし、ついに目をそらした。




 勇希は友達を作るため、水泳部に入った。水泳は中学時代の経験もあって勇希の得意なスポーツだった。県大会出場を目標として仲間達と切磋琢磨していたが、部長の彼女が勇希に惚れ込んでしまい、それを知った彼は不良仲間と共に様々な嫌がらせを勇希に行った。便所掃除しかやることが無くなった勇希は夏休み明けに部活をやめた。

「ちくしょう」

 勇希は電柱の下に落ちている小石を勢いよく蹴った。アスファルトの上を高速で転がる小石は下水の溝に吸い込まれるように入ってしまい一瞬で姿を消す。

「つまんねぇな」

 そんな小石の動きを見た勇希は足をすくわれたような気持ちになった。

「やりたい」

 勇希は言葉を吐き捨てると何か思いついたらしく、死んだ瞳で鱗雲の広がる夕焼け空を見上げた。

 「ただいま。お父さん、お腹すいたよ」

 マンションの重い玄関を開けた勇希の手には本屋の黒い袋がぶら下がっていた。

「勇希、お父さんの作ったチャーハンがあるから食って」

 リビングに隣接した六畳間でテレビを見ている父親は誤魔化したふうに言った。

「はあい」

 勇希は買った本のことを考えながらベチャッとしたチャーハンを黙々と口へ運んだ。

 外は真っ暗になり、勇希は自分の部屋で袋の中身をベッドの上に広げた。ピンクと肌色の雑誌が飛び出して来たとき、ドキッとしてから欲望が湧く。

「初めて買っちゃったよ」

 なんとなく気になっていたライトノベルも一緒に買ったが、今はそれどころではない。はやく雑誌の中身を拝見して気持ちよくなりたい一心である。

 一時間が過ぎ、夜の八時になった。トイレから出て部屋の扉を開けた勇希の瞳はどこか疲れた様子だ。その手には、照明によって怪しげな反射光を放つアダルト本が握られている。彼は、毎日のささやかな楽しみが出来上がり、学校生活にも耐えられる気がしてきた。勇希はようやくライトノベルに手を伸ばし、最初の方にある数枚のイラストをペラペラと確認した。

「きれいだな」

 すると、勇希はおもむろに鞄からルーズリーフを取り出し、シャーペンでイラストを模写し始めた。




 季節はあっという間に過ぎ去り、高校二年生の六月を迎えた。勇希は本屋でライトノベルの続きを買おうとも思ったが、財布の中に三百円程度しかなかった。だから仕方なく学校の図書館で続きを読むことにした。

「お、あるじゃん」

 勇希は図書館の児童書コーナーをうろつき呟いた。しかし、彼の表情は直ぐに暗くなってしまう。自分の読みたかった巻だけが抜き取られていたからだ。

「何となく分かってたけど」

 勇希は残念そうに図書館を去ろうとしたが、彼の足はぴったりと固まった。二列目の座席の真ん中あたりに、一年の時に同じクラスだった少女、朝霧結花が座って本を読んでいたからだ。

「朝霧さんだ」

 勇希は入学式の日と同じように彼女の端正な横顔に見惚れてしまい、つい見続けてしまった。つっ立ちながら傍観しているので、結花は男の子の視線に気づき彼を振り向いた。勇希は心臓が飛び出しそうになった。どうしよう、話しかけてみたいけど何を話そうか分からない。モタモタすれば、また目を逸らされてしまう。勇希は訳もなく結花へ歩み寄っていった。結花は若干懐かしい男の子が近づいてくるのを見て、無性に髪を直したくなる。とうとう勇希は結花の直ぐそばに到達し、彼女の前でモジモジしながら何か話すことを考え始めた。結花は頰を赤くした男の子に堪えを切らし、切口上で言った。

「あの、何ですか?」

「いや、その」

 勇希は結花の大きくて凛々しい瞳を見ることができず、斜め下に目を逸らした。すると、結花が机の上にストックしてある小説の中に、読みたかったライトノベルの巻が混ざっているのに気がついた。

「そう、これ読みたかったんだ」

 勇希は思いついたふうに言った。

「ごめんなさい、どうぞ」

 結花は申し訳なさそうに聖騎士王伝説の五巻を引き抜き、彼に渡した。しかし、勇希は立ち去ろうとしない。

「朝霧さん。俺もこの本好き、いや読んでるんです」

 勇希が言うと「あっそう」と結花は本に視線を戻してしまう。勇希の瞳は涙で滲んだ。

 それ以来、勇希は図書館でライトノベルを読むようになった。もちろん結花がいるからである。勇希は四列目の椅子でライトノベルを読むふりをして結花に話しかける機会をうかがっていた。大胆に行けばいいじゃないか。勇希は自分に言い聞かせて席を立ち、結花の方へ歩いた。

「ね、ねえ。朝霧さん」

 結花はまた昨日の男の子か、と迷惑な顔をした。

「何?」

「朝霧さんも、ライトノベル読んでるの?」

「うん、見れば分かるじゃん。それがどうしたの?」

「じゃあさ。ゲームもやってるでしょ」

「知らない。ねぇ、用が無いんなら戻りなよ。図書館だよ?」

 結花は帰りたくなった。

「朝霧さん、一緒にやろうよ、据え置き機のゲーム」

「やらない」

「でも、独りで本を読んでるなんて、絶対に寂しいよ。俺も、寂しいんだ。だから、一緒に……」

 結花は勇希のしつこさに虫酸が走り、彼の言葉を遮って勢いよく席を立ち去った。しかし、勢いをつけすぎたせいか結花の懐から数枚のルーズリーフが落っこちてしまう。

「ああ!」

 結花は驚愕のあまり手で口元を覆った。

「これ朝霧さんが描いたの? すごいすごい、イラストレーターみたい」

 勇希はすごい速さで男の子や女の子が描かれたルーズリーフを拾い上げてはしゃいだ。結花は泣き叫びたくなり、実際目に涙が浮かんできた。

「返してっ!」

 結花は光速で勇希からルーズリーフを奪い取って抱きしめる。

「朝霧さん、本当に絵が上手なんだね。俺もよく描くんだけど……」

「くうっ!」

 結花は勇希の言葉を遮って図書館を立ち去った。

 次の日、結花は誰よりも早く図書館に訪れた。帰りのホームルームが早めに終わったおかげもあるのだが、どうなのだろうか。結花はいつものように本を読んでいた。だが、ほんとんど読めていない。結花の頭の中は昨日の出来事でいっぱいだった。彼女は自分の絵を誰にも見せたことがなかったのだ。あの男の子は自分の絵を上手だと褒めてくれた。男の子に褒められて嬉しがるなんて馬鹿みたい。結花は目を瞑って自己嫌悪した。今日もあの子、来るのかな。そういう思いが結花の頭をちょくちょく通り過ぎる。誰かが図書館の扉を開けると、ついそっちを見てしまう。

「はあ……」

 結花がため息を吐くと、図書館の扉がまた開いた。例の通り反射的に扉を見ると勇希が入って来るのが見えた。結花はギクッとして本を読んでいるフリをした。あの男の子は私の所へ来るのだろうか。結花は期待してしまっている自分に気づく。当然、勇希は結花へ歩み寄った。

「朝霧さん、昨日はごめんなさい」

 勇希は苦虫を噛み潰したような顔で謝罪した。

「別に、気にしてない」

 勇希は安堵した。それから、心の底から嬉しさが湧き出る。

「朝霧さん、それにしても絵が上手なんだね」

 結花は嬉しくて、ちょっと口元が緩んだ。

「うん、そうだよ」

 ーーみたい? 

 結花はそう言いたかった。二人は気恥ずかしくて黙り込んでしまう。静寂の中、エアコンの音だけが二人の間に響く。俯く結花。窓から差し込む夕日が、彼女の前上がりセミロングを艶々と輝かせた。

「朝霧さん、隣に、座ってもいい?」

 勇希は声を少し震わせながら言う。自分でも変に思うくらい優しい口調になってしまった。

「いいですよ」

 結花は少し怖かった。男の子を自分の隣の席に座らせた事なんて一度も無いからだ。それに、恥ずかしい。結花は隣の椅子が引き出されるのを感じながら俯いたままだった。

「朝霧さん、昨日の絵見せてよ」

 勇希は嬉しそうに言った。

「え! まあ、いいよ?」

 結花は彼の言葉を聞くとどうしても笑顔になってしまうので、鞄からルーズリーフを取り出すふりをして治るまで顔を隠した。

「あった、はい」

 結花はぶっきらぼうに勇希へ絵を突き出す。

「やっぱり上手だよ。俺も絵は描いてるんだけど、こんなに上手く描けないんだよなぁ」

 勇希は照れ臭そうに頭をかいた。

「教えて、ほしい?」

 結花は酷く緊張したが、胸のときめきを感じる。

「うん、教えて」

「分かった!」

 結花はうっかり満面の笑みで答えてしまった。




 「はい、じゃあ部活いけよぉ」

 担任の先生が気怠そうに帰りのホームルームを終わらせると、教室の生徒達はスポーツバックを持ち上げた。勇希は部活へ向かう生徒の集団と一緒に廊下を歩くことが億劫だった。知り合いに声をかけられそうだし、図書館まで尾けられるかもしれないからだ。結花の存在はなるべく誰かに知られたくない。今の勇希にとって、彼女は世界で一番かわいい女の子に見えているからだ。勇気は集団から逃れるように階段を登る。人気の無い四階から二階にある図書館へ行くというわけだ。勇希は辺りを気にしながら図書館の扉を開けると、妙に急いで二列目の座席へと歩んだ。席の仕切りからヒョコッと顔を覗かせると、いつものように結花が本を読んでいるのが見えた。いた、朝霧さんだ。今日も大好きな女の子と出会え、勇希はアダルト本を自分の部屋へ持ち込んだ時の衝撃に似たものを感じつつ、彼女の隣まで近づいた。

「朝霧さん」

「蒼城、くん」

 勇希は自分の心臓の鼓動を聞きながら、ぎこちなく結花の隣に座り鞄の中へ手を突っ込んだ。

「なんとか、描いて見たよ」

 勇希は他人に自分の絵を見せるのは初めてで、それは勇気のいることだった。でも、自信はあった。何度も修正しているうちに今までで一番良い出来栄えになってしまい、自分の絵に惚れ惚れしたからだ。きっと朝霧さんも評価してくれるはず。またあの笑顔で「上手だね!」と言ってくれるかもしれない。朝霧さんの笑顔が脳裏に浮かぶと胸が締め付けられて、その次にだいじな所が熱くなる。昨日の晩もなかなか寝付けなかった。

「蒼城くん」

「はいっ」

 口を開いた結花の表情は勇希が妄想したものとは違った。だけど、どんな表情をしていても、彼女は本当にかわいい顔の女の子だと勇希は思った。

「多分君、人間の骨格を全然把握していないでしょ」

「え?」

「蒼城くん、私の絵を見て。ほら、ここだよ。首の骨がここまで落ちて、そこから左右に肩の先まで伸ばしてるでしょ」

 勇希は結花の説明を聞いても全く意味が分からなかった。第一に彼女の絵が細かくて見えない。この子、説明がすごく下手だな。

「朝霧さん、全然見えないよ」

 勇希が言うと、結花は少し考えてからため息を吐いて彼の方へ椅子を寄せた。結花との距離が近くなり彼女の髪の香りが感じられ、勇希は自分の体が反応するのを抑えられなかった。

「ほら、蒼城くんの絵は骨格を無視しちゃってるんだよ。君は鎖骨が無いんですか?」

「ん、俺鎖骨あるよ」

「いや、知ってるけど」

 よく分からないが結花が吹き出して笑ったので、勇希は幸せな気持ちになる。

「じゃあさ、人体の図、描いてみよっか」

 結花は鞄の中から人体と大きく表記された教養本を取り出した。

「ええー」

「ううん。これをやらないと一生上手くなれないもん」

 結花は切口上で言うと、教養本の上半身が載るページを開いて勇希に押し付けた。

「複雑すぎてよく分かんないよ、朝霧先生」 

 勇希が甘えると結花は得意げな顔になった。

「大丈夫。私がコツを知っているから教えてあげる。暑い、上着脱ごうかな……」

 結花は不快そうにシャツの襟を持ち上げ、それから制服のブレザーを脱いだ。すると、勇希は目を見開いて彼女の胸元を凝視した。

「ほら、何してるの? はやく紙とペン用意しなきゃ蒼城くん」

「はい」

 勇希は結花のワイシャツから張り出す胸を見るとどうしても感情が激しくなる。紙とペンを鞄から取り出すフリをして、治るまで大事な所を隠そうと思った。しかし、こんなにも近くに好きな子がいては、永遠に治るはずがない。

「よし。頑張って描いてみるね」

 勇希が張り切ってペンを走らせようとした矢先、結花が待ったを入れた。

「蒼城くん、なんかエンピツの持ち方が変だよ」

「え、ちゃんとお父さんに教えて貰ったよ?」

 勇希が怪訝な顔で言うので、結花は哀しそうに彼を見つめた。そして、考え込んでから優しく微笑み、彼のペンを握る手を取って正させた。

「こうじゃない?」

「あ、ありがとう」

 朝霧さんの手が、俺の手を包んでる。勇希は興奮の絶頂に陥り、心臓が持久走をしている時のごとく強烈に躍動した。結花は子犬のように縮こまる男の子を見て愛らしさを感じ、冗談混じりで言った。

「なんか蒼城くん、可愛いね」

 勇希の暴れ狂う胸に彼女の言葉が突き刺る。もうダメだ。

「朝霧さん、トイレ行ってくる!」

「ん、早く行ってきな」

 結花は慌てて図書館を走り去る彼の後ろ姿を、姉であるかのように見送った。

 その日の夜は雨が降った。勇希は脱力して風呂から出て、湯冷めしないうちに布団へ滑り込む。暗闇の天井、濡れた地面を車が走る音。街灯の光を淡く反射させた雨の滴る窓枠。そして、擦りすぎて痛くなった大事なもの。いつもなら心が落ち着ついてすぐに眠ってしまうところだ。しかし、勇希の眼は冴えている。結花の影が心に映るからだ。寝ている時に最も好きな人を思い浮かべるとはきっとこの事だ。心がまた騒ぎ出し、勇希は体を横にして枕を抱きしめる。この枕が朝霧さんだったら、どんなに嬉しいだろうか。

「朝霧さんと、したいな……」

 勇希は恍惚とした瞳で枕を撫でた。




 夏休みが明け、始業式を終えた勇希は教室に戻る途中、生徒で混み合う廊下で結花を見つけた。彼女の髪は以前より少し伸びており、右に流した前髪が綺麗だった。結花は夏用の薄いシャツを着ていて、それは勇希を興奮させる。

「朝霧さん」

「蒼城くん。なんか痩せた?」

「そうかな」

 そう、痩せた。というか鍛えたんだ。勇希は結花のシャツから少しだけ透けている大きな下着を横目で見ながら誤魔化した。  

「朝霧さんは、髪伸ばしたんだね」

「まあね、コテで少しカールをかけて気持ちアールストレートにしてみたの」

 毛先をいじって照れ臭そうに言う結花を見ると、喉の奥からあの言葉がこみ上げてきた。

「すごく、綺麗だよ!」

 声が大きかったので、廊下を歩く周りの生徒が不安そうに二人を見る。

「はっ……」

 結花は昔読んだ少女漫画の一場面を思い起こした。そうすると、胸が締め付けられて単純でない恥ずかしさに駆られ、その中に嬉しさがあったが、彼女の何かがそれを否定し即座に冷徹な顔を作り出させた。

「綺麗じゃないし。思ってないくせに言わないでよ」

 結花の冷たい態度に勇希はガラスの心をトンカチで叩かれたような衝撃を感じる。

「ごめんね」

 勇希はとてつもなく暗い顔になり、蚊の鳴く声で謝罪して自分の教室に入ってしまう。それを見た結花は、我に返って焦りを感じた。自分の唯一の友達に酷いことをしたという罪悪感と、また一人で本を読み続けるという孤独に陥る予感がしたからだ。結花は俯いて自分の教室へ向かった。一人孤独に。

 時を同じくして、長身で筋肉質の男、木島秋人は廊下の壁に寄りかかり、携帯を開きながら狙撃手のような険しい瞳で二人のやり取りの一部始終を見張っていた。秋人は薄着の結花を見て今すぐにでも彼女を滅茶苦茶にしたい衝動に駆られたが、勇希が現れたとたん自尊心を揺さぶられ、その事自体に激しい憤りを感じた。しかし、彼が口説き文句を拒絶されたのを見ると痛快な気分になった。

「お前には釣り合わねえ。俺にこそお誂え向きだろうが」

 秋人の脳内はすでにホテルの中で、全裸の結花が待つダブルベッドへ滑り込もうと腹を空かせた犬のような足取りで脱衣所から顔を出したところだ。

「ぜってえ気持ちいいだろ」

 秋人は股間を激しく疼かせ、人気のないトイレへと直行した。

 太陽が黄色くなった頃、疲れ切った顔でトイレから出てきた秋人は、本を読んでいる結花の写真を大事そうに懐へしまう。そして、昇降口にて下駄箱を開け、スニーカーを床下へ落とすと、捨てられた広告が目に入り退屈そうにそれを拾った。見出しには『就職氷河期の到来?』と羅列されている。端っこには『ストップ、ながら運転!』という小見出もあった。秋人は不安そうにリード文を読みながら昇降口を抜け校門へと歩いていると、新聞に釘付けの女子生徒と正面衝突した。二人は驚き反射的に謝罪して目を合わせたが、その瞬間に彼らは動揺する。

「木島くん」

 見ると、夕日を反射するロングの黒髪をした華奢な女子で、そのか細い声は強気の秋人を怯ませた。

「美樹」

 秋人は彼女の名前をつい囁く。見つめ合う二人は、周囲の学生達からすれば恋人同士とも解釈できた。視線が集まるのを感じた秋人は直ぐに我に返り、歯がゆさを堪えて桜坂美樹の横を通り過ぎる。立ち尽くす美樹は振り返り、秋人の背中を見つめた。しかし、周囲から集まる視線に気づいた彼女は、新聞を握る手に力を込めて、素早く向き直り昇降口へと早歩きする。美樹の端正な横顔を学生達は観察したが、その表情は悲しげだった。駐輪場を孤独に歩く秋人は、自転車の前で立ち止まりサドルに手を置く。そして、彼はため息をつくと愛車の鍵を開けた。金属音が駐輪場に響き渡る。

「仕方ねえよ」

 秋人はそう吐き捨てるとサドルに跨り、西日に照らされる緩やかに傾斜した田んぼ沿いの道路を勢いよく走り去った。

 その夜。秋雨前線の影響で外は雷を伴う雨の天気模様だった。暗くなるまで学校で勉強をしていた勇希は、帰り道に降られてしまったけれど、そのおかげで泣いてもあまり恥ずかしくなかった。風呂から上がった彼は自分の部屋の勉強机に頭を抱えて座る。どうしよう。朝霧さんに嫌われたかもしれない。珍しく今日はお風呂場で出さなかった。貯蔵が枯渇していたわけでは無いが、笑っている結花を想像して出そうとすると彼女のあの冷たい表情、声音が思い起こされてさらに嫌われてしまうような気がしたからだ。勇希は勉強机に向かっていたが絵さえも手につかず、明日のことを心配していた。謝りに行ってもまた、冷たくあしらわれるかもしれない。でも、何で急にあんな態度になったんだろう。やっぱりあの言葉がいけなかったのか。自分の髪を気にしている彼女を見ると、無性に褒めてあげたくなる。そうやって、彼女を喜ばせたかっただけなのに。

「朝霧さん、俺はただ」

ーー朝霧さんのことが好きなんだ。

 勇希は胸が苦しくなり、同時に抑えきれない激しい熱情に襲われ、ズボンを忙しく下ろした。好き。そう心の中で連呼する。絶頂を迎えた勇希が大好きな女の子の名前を叫んだとき、ちょうど大きな雷が落ちた。

 結花は制服を着たまま自分の部屋のベッドに仰向けなり、手首を額に当てていた。私、何であんな事言っちゃったんだろ。本当は嬉しかったくせに。そう思うとまた胸が擽られて、感情が高まる。だけど、怖い。自分の中に敷かれている一線を超えてしまいそうで怖くなるのだ。自分が自分で無くなってしまうような感覚。お母さんやお姉ちゃんとの、いつもの馬鹿みたいな会話が遠のいて行く不安。でも、その中にすごく愛おしい、嬉しい気持ちが混ざっている。そして、また心臓の音が聞こえてくる。持久走をやってる時みたいに。結花は急に悲しくなって唇を噛んだ。

「ごめんね」

 明日、蒼城くんに謝まらないと。本当は嬉しかったよって、言わなきゃいけない気がする。でも、そんな恥ずかしいことを男の子に言えるわけがない。勇希の笑顔や、頰を赤くして一生懸命話しかけてくる姿が浮かび、それが無くなると思うと酷く寂しくなる。もう、誰も自分の絵を見てはくれないんじゃないのか。結花は後悔の念に襲われ、横向きになって子犬のぬいぐるみを抱いた。

「蒼城くん」

 また、少しだけ胸がドキドキした。うっとりぬいぐるみを可愛がっていると、外で大きな雷が落ちたので、結花は小さな悲鳴を上げて飛び上がる。

「はあ、雷か」

 結花はさっきまで男の子に対し、恍惚な気持ちになっていた気がして言い訳を探したが、捨てられたように横たわるぬいぐるみは、悲しそうにつぶらな瞳を彼女へ向けていた。そして、結花は毛のダルマを拾い上げて抱いた。

 次の日、結花は学校が終わると図書館には行かず勇希の教室へ向かった。彼の教室はまだ帰りのホームルームの最中で結花を安堵させる。蒼城くんは、まさかいるよね。結花は背伸びをして遠くから教室を除くと、端っこの席に勇希の姿が見えて苦しくなった。頑張れ私、自分でやったことじゃない。結花が険しい顔で俯いていると、教室はホームルームが終わったらしく、騒がしくなった。扉がガラッと開き、学生達が次々と出てくる。結花は辺りを見回して勇希が出てくるのを待っていた。緊張感に押しつぶされ、結花が呆然と一点を見つめていると、流れる人混みの中から自分の隣に誰かが止まった気配がした。結花は確信を持って振り向く。すると、そこには不安な顔で自分を見つめて立ち尽くす勇希の姿があった。覚悟はしていたものの、結花は金縛りをおこしてしまい、言葉がどうしても出てこない。周りの生徒は教室の前で向かい合ってそわそわしている二人を遠くから見て、何か話している。

「朝霧さん、昨日のさ。俺が変なこと言っちゃって。その、嫌だったよね。だから、すみませんでした」

 勇気が今にも泣きそうな声で謝罪の言葉を言った瞬間、結花は感情が高まった。

「どうして蒼城くんが謝るの。変なことって何?」

 結花は嬉しくて、つい調子の良い口調になる。

「あれ、まあいいや。何でもない!」

 勇希は面食らって自分の記憶を確かめたが、結花が微笑んでいるので、どうでもよくなった。

「そうだ、図書館行こうよ」

 結花は興奮気味に変な方向を指差す。勇気は結花の奇妙な態度に違和感を感じながら、彼女の後について行った。

 結花はいつものように勇希と図書館で宿題や絵の研究をしていたが、常に自分の卑怯さに苦悩していた。勇気は昨日のことを気にして謝ってくれたのに、自分は都合よく話をそらしたから。昨日のことについて話せるタイミングはあったが、どうしても違う話題しか喋れない。そして、あっという間に帰る時間になってしまい、二人は学校を出ていつもの公園で別れようとしていた。

「朝霧さん、じゃあね」

 風が木々を鳴らす夕焼け空を背に、勇希が嬉しそうに言った。しかし、結花は思い詰めた表情で俯いているだけで返事をしない。心配した勇希が結花に近寄って「大丈夫?」と尋ねたので、結花は彼の声にびくっと反応して顔を上げた。

「昨日さ。私のほら、髪の毛? 褒めてくれたじゃん」

 結花は強烈な緊張のなか、やっとの想いであの話題の導入に成功したが、肝心のその次が言えなくてまた俯いてしまう。ここで言えなければ、私は卑怯者のままだ。両手を胸元に寄せ、頰を赤らめた結花は勇希の瞳を上目使いで見つめた。

「あのね、本当はすごく嬉しかったよ。ありがとね」

 あまりの気恥ずかしさで、可愛子ぶったアイドルのような、か細くて高い声音になってしまい、もはや勇希を直視する事は出来ず、深く俯いた。

ーー私やっぱり、蒼城くんが好きなんだ。

 結花は彼と初めて目があった時の気持ちと向き合ったのだった。

 夕日が雲に隠れて辺りが暗くなり、風が止んで木々の音が消えた。勇希が黙り込んだままなので、不安になった結花は何かを言おうと顔を上げる。その瞬間、彼が唐突に結花の手を掴んで引っ張った。

「蒼城くん?」

 結花は勇希に引っ張られるまま、公園に設置された公衆トイレの多目的ブースへ連れ込まれる。

「何でトイレ? ねえ、蒼城く……!」

 結花の言葉を遮るように勇希は彼女を強く抱きしめ、壁際に押し付けた。背中を強く締め付ける彼の手はガクガクと震えている。結花は太ももに押し当てられる硬いものに恐怖心を感じ、血の気が引いた。

「朝霧さん。俺、朝霧さんが好きだ!」

 勇希は彼女の髪の香りを荒い息づかいで嗅ぎながら、耳元で叫んだ。結花は彼の乱暴な態度と言葉に頭が真っ白になって放心状態に陥る。獣と化した男が叫んでいるが、意味を飲み込めない。私はこのまま、滅茶苦茶に壊されてしまうのだろうか。そういう不安が結花の心に残ったまま、体の力が抜けていく。まるで、人形のように。

 ベランダで洗濯物を畳んでいた結花の母親は動きを止め、雲の中薄っすらと光る沈みかけの夕日を、不安な瞳で見つめた。

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