プロローグ
「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」
エペソ人への手紙 5:31
結花は、家の中を忙しく整理していた。明後日に息子の入学式があるからだ。本当は息子の勇斗が自分でやるべきなのに、彼はゲームをしているだけだった。
「ほら、勇斗。自分のことなんだから、お母さんにばっかりやらせないでよ」
「待ってて」
息子は誤魔化すように返事をした。同じ返事がこれで五回目である。結花は呆れて言葉も出ないまま、押入れのどこかに押し込んでおいた父親の鞄を探す。娘の結紀も押入れの中で手伝っているが、ほとんど役に立っていない。
「結紀。遊んでるだけなら、何もしない方がマシなんですけど。ぐちゃぐちゃにしないでよ。ん、これかな?」
「お母さん、この大きな絵は一体なに?」
娘は押入れから脱出し、嬉しそうにキャンバスを母親へ差し出した。
「ああ、こんな所にしまっておいたんだっけ」
結花は娘からキャンバスを奪い取り、気恥ずかしい気持ちでそれを抱いた。
「すごくかわいい女の子の絵、お姫様みたい」
娘が興奮して言うと、結花の乙女心が十七歳に戻ってしまった。
「別に、かわいくないし」
大人しい母親が急に大声を出したので、娘は驚いて押し黙ってしまう。
「まだ見せてなかったっけ。これね、お母さんが大学生だった時の絵なの」
結花は優しい口調で娘に言った。
「お母さんこんなだったの。すごいすごい、美人!」
娘がぴょんぴょん跳ねてはしゃいだ。
「お母さん、これ誰に描いてもらったのさ?」
息子が珍しく自分の足で立ち上がり、悪戯な顔で尋ねてきた。この子は人の弱みを探すのが好きで、こういった事には首を突っ込んで来るのだ。結花はため息をつく。
「お父さんが描いたに決まってるでしょ」
結花は息子を咎めるため、怖い顔で言い放った。すると、息子は口を噤んでしょんぼりと俯いてしまう。
「もう、男の子が何ですぐそうなっちゃうの? だらしない」
「別にそうなってない」
ふてくされた息子を横目に結花はキャンバスを襖に裏返しで立て掛け、押入れから探していた鞄を取り出した。
「ちっ」
勇斗は聞こえないように小さく舌打ちしたが、息子の悪癖を知っている結花の耳は鋭かった。
「お父さんはもっと強かったよ。この鞄だって、あの人が大学生の時に使ってたものでね。私は勇斗にも……」
結花は鞄を両手で目線まで持ち上げ、懐かしそうに見つめる。
「お父さんとお母さんってらぶらぶだったの?」
娘は鞄を見向きもせずに、目を輝かせて結花の顔を直視してきた。
「お母さんとお父さん? うん、ちょっとね」
「おえ」
結花は息子のお小遣いを減らそうかと思ったが、自分の歳が頭によぎり、ため息をつく。それから、ちょっと微笑んで頰を赤くした。
「お父さんはね、私を愛してくれたのよ」
開けていた窓から、夏の香りと共に海風が吹き込み、結花の細い髪を揺らした。