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成人式

作者: 小野誠治

  目次


一、幼年時代


二、少年時代


三、青年時代


四、成人式



 一、幼年時代

      一

 三方の山に囲まれ南に開けた地に私は生を受けた。

 父は国鉄職員で機関区で検査技師を生業としていた。母は駅のキオスクで働いていた。二人は隣人の紹介で知り会った。

 父は三人兄弟の次男で中学二年の時に父親を亡くした。中学を卒業と同時に一宮のクリーニング店へ丁稚奉公に行った。そこで働きながら毎月五百円の小遣いを貰って、故郷にいる母を喜ばすために貯めていた。仕事は忙しかったらしい。そして、不幸なことに腎臓を患って、療養のため実家に帰った。それから、二年もの間病床に臥せって、生死の境をさ迷った。やっとの思いで病が晴れて、隣町の工場に勤めだした。昼夜を問わず三交代で働いた。工場までは自転車で四十分近くもある。通勤に疲れたと言っていた。それから間もなく、国鉄の入社試験に合格して、十八の春に汽車に乗って一時間半かけて仕事場に通勤した。

 母は四人兄妹の次女で家庭は父ほど貧しくは無く、裕福な家だった。祖父は明治生まれで、戦争で赤紙が来て、出兵した。東南アジアへ送られ、現地で病に倒れ、その地の住民に看病され帰還した。祖父は母にその事を言い聞かせ、感謝していると言っていた。戦争の辛い体験でそれ以後、泣き言は一切漏らさないと誓ったと言う。その後、鉄道の荷受けの仕事をして、遠くは豊橋まで働きに行ったと聞いている。母は元来小柄で、それを心配して小学生の時、一人だけ昼食に牛乳を飲ませて貰っていた。長男は特別大切に育てていたそうだ。よく言っていたが、祖父に怒られた時、三姉妹二階に上げられて、下に降りる梯子を取ってしまい、降りれなくされてしまい困った。しかし、長女は賢く、二階の窓を抜け、屋根伝いに行って柿の木から下に降りていた。母はそのまま二階にいたままであった。母は無類の柿好きで、庭にできているお筆や富有柿を背が届かないので、兄に取って貰っていた。そのことを昨日のことの様に語ってくれた。小さい頃は、山や川で駆けずりまわって遊んだ。小学校に登校する時、友達の家に行くと決まって、これから弁当箱を洗って、入れるから待って、と待たされた。小学五年の時、伊勢湾台風が来て裏庭の柿の木が根こそぎ抜ける程凄かったらしい。中学に入ると、身長を伸ばすため、バレーボール部に入部した。母は背が低かったが、九人制のため選手になれた。高校は農業高校に進学した。そこでも、バレーボール部に入った。母はバレーボールが何よりも好きだった。高校卒業後、駅に勤め出した。

 二人の初めての出会いは、母が勤めているキオスクに父がこっそり牛乳を買いに行って確かめた。後年、母は違う人と勘違いしていたと言っていた。

 父は兄嫁の実家が大工の棟梁だったので、父の実家の近くの長男の土地を分けて貰って家を建てた。小さくても立派な赤瓦の家だ。二十六の秋だった。親戚中駆けずり回って資金を工面して建てた。

 昭和四十七年四月二十五日、二人は結婚した。そして、母は子を身ごもった。しかし、通勤に雨の降る中、寒さのこともあって、流産した。私の姉だ。母は毎日毎日泣いた。それを父は慰めた。

 その後、昭和四十八年五月二十二日に私は生まれた。初の長男だった。自宅の近くの産婦人科で、不思議なことに父は出産に立ちあった。二年後に弟が、そのまた、二年後に妹が生まれた。私の弟妹である。

      二

 私の幼年時代は幸せそのものだった。近所の幼馴染とよく遊んだ。子供は十二人いた。毎日よく遊んだ。公園や山、川、田圃、池が遊び場だった。特に隣の一歳年上の女の子とよく遊んだ。家の二階の段ボール箱がたくさん置いてある所で、秘密基地ごっこをした。公園でスカートめくりも楽しんだ。雨が降った時は家中の傘を集めて道に差してキャンプごっこをした。またある日は、

 「お母さん、お弁当作って!」

 その弁当を持って、幼馴染と一山越えて、隣村の神社にピクニックに行った。広い芝生が敷き詰められて、そこでレジャシートを広げて、母の作ってくれたご飯を飽ばった。みんなで食べるご飯は美味しかった。その神社は由緒正しい神社である。そこには天狗岩と言うのがあって、岩に天狗の下駄の跡が付いていると言う。

 家の前で隠れんぼや達磨さん転んだ、缶蹴り、巡泥、縄跳び、竹馬、チッケ、凧揚げ、駒回し、ケンケンパ、カバブトムシやカワガタムシ、亀、メダカ、鮒、トンボ、バッタを取ったり、山で栗、アケビ、野イチゴを食べた。そして、よく木に登った。だが、不思議なことに一度も落ちたことがない。

 ある冬の日、

 「お母さん、お金頂戴。」

 隣の女の子と隣村の店に買い物に行くためだ。母はまさかそんなことに使うとは思っていなかったのだろう。ママゴトに使うお金だと思い、レシートに裏に走り書きで数字の100を書いてくれた。しかし、私はそれはお金では無いと知っていた。でも、約束したので、それをポケットに入れて、二人で店まで一キロ歩いた。ようやく到着し、レジ側のコーヒーガムを取って、レシートのお金を出した。周りが騒ぎだした、

 「この子どこのこ?」

 「あそこの子じゃないの!」

 そして、母が自転車で二人を迎えに来た。雪の降る日だった。

 隣の女の子が保育園に通うになってからもう遊ばなくなった。

      三

 保育園に入園した。

 其処で会ったのがTである。

 ある日、トランポリンで遊んでいると、

 「隊長さん。」

 と、呼ばれた。そんなことを呼ばれたのは初めてだった。隊長さんはもう一人いるらしかった。それがTだった。Tとは仲が良かった。一緒に砂遊びをしたり、他のみんなと大きなブロックで車を作ったり、いろいろ遊んだ。

 Tとは生涯に渡るライバルだった。

 そして、幼年時代に別れを告げた。

 

 二、少年時代

      一

 小学校に入学した。

 新しいランドセルそして制服、夢や希望をたくさん持って母と学校の校門を潜った。たくさんの生徒、大きな校舎嬉しくて仕方なかった。入学式での先生の挨拶、見るもの全てが新鮮だった。広いグランド、大きなプール、私は学校に無限の可能性を感じた。

 真新しい教科書、新しい鉛筆、筆箱、ノート、ぴったりフィットした机と椅子、広い教室に大きくて黒い黒板そしてたくさんの学友、嬉しかった。

 初めに先生の紹介の後、それぞれの名前が呼ばれた。学校の説明がされ、いよいよ授業が始まった。最初に「あいうえお」から教えて貰った。算数も習った。

 「一+一=」

 「二」

 みんな元気に答えて。

 みんな元気で健康だった。

 私の教室は中央廊下側だった。中庭には芝生の広場と鯉の泳いでいる池があった。そこのベランダで青空の下、大声で国語の教科書をみんなで朗読した。今でも覚えている「おじさんの傘」、おじさんが傘を大切にして雨が降っても傘を差さない話だ。

 学校でいろんなことを習った。生きることの基礎だ。世界には学校に行きたくても行けない子供がたくさんいる。私は幸せだった。住む所も着る服も食べるものもあった。全て父母が用意してくれたものだった。父が働き、母が家を守ってくれて、何の不満も無かった。今、ここで父母に感謝する。

      二

 家では祖父から学習机を送って貰った。座敷に置いてもらって毎日宿題をこなした。そして、襖にクレヨンで自分の名前を書いた。学ぶ姿を見て父も母も喜んでいた。弟も妹も、

 「兄ちゃん、兄ちゃん。」

 と、慕ってくれた。父が、

 「弟と妹を大切にせいよ。」

 口酸っぱく言っても弟と妹の面倒を見なかった。すまないことをした。

      三

 家族で買い物から帰って玄関を開けると、仮面ライダーの自転車が置いてあった。祖父からのプレゼントだった。私は飛び上がるほど嬉しかった。その日に、祖父に、

 「じいちゃん、自転車ありがとう!」

 と、感謝の電話を掛けた。祖父は喜んでいた。

 その日から、私の自転車の生活が始まった。補助輪を付けて走らせた。片方が取れ、もう片方が取れるのに時間が掛かった。補助輪が取れると行動範囲が広がった。

 自転車に乗ってあちこち走りまわった。

 氏神神社を挟んで西に住んでいる、一歳年上の子と遊ぶようになった。その子の家の庭に自転車を停めて、遊びに行った。夏は一緒にカブトムシやクワガタムシを採った。冬は炬燵に入ってテレビを見たり、トランプやボードゲームをした。楽しかった。

 そこの近所に乱暴者の従兄がいた。五歳年上の大きな人だった。私はその人が怖かった、ある日、

 「山は俺のものだ。山に入る時は俺に断れ。」

 私とその子はその禁を犯した。従兄は西山で田圃に向かって、ルアー投げをしていた。その時、

 「ミヤマが獲れた!」

 それを聞きつけた従兄は全速力でこちらに向かって走って来た。私達は必死になって、私の家に急いだ。速かった、従兄のスピードが物凄く速かった。韋駄天の様な速さだった。家にやっとの思いで逃げ込んだ。自宅には幸い、父がいた。胸を撫で下した。

      四

 父にキャチボールを教わり始めた。ソフトボール時代の幕開けだ。それからというもの明けても暮れても、ソフトボール漬けだった。公園で上級生が練習すると、同い年の子と公園の山に登って、バットで打ったボールが山に入るのを見ると、二人で取りに行った。ボールに触りたくてしかたがなかった。それが当時の喜びだった。上級生に憧れていた。

      五

 兄弟それぞれが友達を作って遊ぶようになった。近所でも遊ばなくなった。弟は隣の家で遊んでいたが、私が遊びに行くと居留守を使うようになった。疎外感を感じた。そこに五歳上の従兄が遊びに来た。学校の噂では従兄は学友から除け者にされ遊ぶ人が無かったそうだ。だから、私のところに来た。従兄は私の父の兄の子で目上のこともあって、最初は大切にした。しかし、付き合えば、付き合うほど嫌になってくる。話は大仰で嘘ばかり、態度は大きくて大声を出す。そして、気にいらないことがあるとすぐ手をかける。私は従兄が怖かった。ある日は玄関で脅迫して、

 「もし、言うことを聞かなかったらこうなるぞ。」

 と、言い、柱に親指の爪で跡をつけて睨まれた。私は怖かった。

 言いなりになるしか無かった。ガキ大将だった。近所の子を集めて神社で遊んだり、川で魚掴みをしたりした。カブトムシを捕まえてくれたこともあった。そんな状態が小学四年生まで続いた。

      六

 Tとの関係はと言うと、クラスは別になった。ある程度距離を置くことになった。友達は学校で遊ぶことはあっても、家では誰とも遊ばなかった。私の家での友達はテレビだった。学校から帰って宿題を済ませると、テレビばかり見ていた。ヒーロー物やアニメ、時代劇、ドラマ、夕方に放送される番組はたいてい見た。

 他の唯一の楽しみはソフトボールだった。字の仲間と暇があれば練習をした。学校の放課後も練習した。小学四年生には少年野球に入った。ずっと補欠のままで、たまに試合に出してもらえると嬉しかった。

 日曜日に字の仲間と小学校へ遊びに行った時だ、雲梯やタイヤの跳び箱、ジャングルジム、登り棒などで遊んだ後、自転車で帰ろうとしたら、自転車が動かない。鍵が架かっている。仕方なく、日が沈んだ夜、前輪を上げて、後輪を動かし帰宅した。スペアキーがあったから良かったが、その日の夜に隣り村の上級生が、

 「鍵は架けて田圃に捨てた。ごめんなさい。弁償します。」

 と、祖母と謝りに来た。そのことは許したが、後に小字と馬鹿にされしこりが残ることになる。

こんなこともあった。字の仲間とグランドでソフトボールの練習をしていたら、隣り村の子供が来て、場所を開けろ、と言われてそのまま明け渡したこともあった。その頃から、隣り村に敵愾心を持つようになった。しかし、学校の学友との関係は良好でみんなからの人気もあった。

      七

 交友関係に戻る。

 私は小学三年生の時に、一生の友達を得ることになる。二人の親友である。二人とも家が近くて仲のいい学友だった。一人は保育園からの顔馴染みで、もう一人は父の仕事の関係で引っ越して来た子だった。昼休みになるといつも三人で遊んでいた。プロレスごっこをしたり、いろいろ話したり楽しかった。休みの日もよく遊んだ。しかし、楽しい日も長くは続かなかった。学友の一人が広島に帰ってしまうのだ。私は悲しかった。あんなに楽しい日々を過ごせたのに別れが来るなんて、私には耐えられなかった。そこで餞別に私の大切にしているカブトムシのツガイを送った。その後、年賀状で、「元気にしていますか?カブトムシは生きていますか?」と、送ったが数年で音信不通になった。後に、中学の時に広島の話が持ち上がるが行く事は無かった。

      八

 小学五年生の頃から新聞配達を始め、中学校に上がるまでの二年間続けた。父母の仲人親が配達をしていて、

 「新聞配達やってみんか?」

 と、誘われて生活に変化が出て良いかと思い、興味本位で始めることになった。朝六時半に起きて配達をした。集金も自分でした。毎月給金も出て、たまに褒美の品が貰えて、何の苦もなく続けることができた。そのことを近所で話すと、

 「わたしもする。」

 と、一つ年上の幼馴染と配達することになり、配達も集金も交代ですることになった。ここで一つ付け加えておくと、その噂は西山にも伝わり、同い年の学友も始めたが、長く続かないで途中で母親が配ることになったらしい。

      九

 幼い頃は、童話を背表紙がボロボロになる迄繰り返し、繰り返し母に読んで貰った。話の世界の中で想像するのが何よりも楽しかった。夜寝る前に私の書棚から四、五冊寝室に持っていき読んで貰ったがいつも、母が眠ってしまい、もっと読んで欲しいとせがんだものだ。小学生になると、父は、「本を読め。」と、何度も私に言い聞かせた。しかし、私は一向に読書をしなかった。

 それから、後、私は読書を始めた。最初、漫画の伝記を読み始め、次に活字の伝記に移った。キュリー夫人、勝海舟、夏目漱石、西郷隆盛、湯川秀樹などさまざまの伝記を読んだ。小学在学中に図書館にある伝記を全て読破した。昼休みに誰もいない教室で、遠くで学友が遊んでいる喧騒を外目に、私は一人楽しんで読書をした。それが、私の第二の読書の始まりだった。

      十

 自主学習を始めたのもこの頃だ。担任の先生に、「全力ノート」と言う毎日の学習ノートで勉強をした。その日の授業の復習や日記を書いた。学習が楽しかった。五年生の後半から毎日十二時を回らないと眠ったことがなかった。初めは眠くて仕方なかった。しかし、慣れてくるとそう大したことでは無かった。

      十一

 当時の夢は、精密な機械の設計をする会社の社長になることだった。しかし、その夢を描く時、暗闇の中を針の孔程の光に向かって、階段を上がる白昼夢を見た。私はそれを学問をして何かに向かって努力する事だと思い、秘かに学問を志した。志学である。それからというもの明けても、暮れても勉強ばかりした。現実的にはエンジニアに成り就職しようと思っていたが、心の底では学問で暮らしてはいけないだろうかと思案し始めた。

 そうして小学校を卒業した。


 三、青年時代

      一       

 中学校に入学した。

 毎日勉強した。部活はバレーボール部に所属した。それと言うもの、小学校の頃は野球少年だったが、小学校在学中から母に進められていたからだ。自分的には野球でサードの補欠でレギュラーに成りたかったが、どうしても成れなかったので、好きだったサッカー部に入りたかったが、中学校にはサッカー部が無かったので、バレーボール部に入った。勉強と部活の日々が始まった。毎日英語の予習と授業の復習、そして厳しい部活動をした。しかし、苦しくは無かった。むしろ、楽しかった。毎日が新鮮だった。

 来る日も来る日も勉強した。夜中、一時、二時まで毎日勉強した。成績は上の中程度だった。教科の中でも特に、社会が好きだった。堀口先生の授業が楽しくて、夢中になった。でも、将来、機械関係の仕事に就きたいと思っていたので、技術の授業を大切にした。どちらも、成績は良かった。全般的に不得意科目は無かった。しかし、音楽は苦手だった。高校は小学生の時、Tの薦めで米原高校に進もうと思っていた。地元の中堅の進学校であった。その頃は、何の疑いも持っていなかった。

      二

 部活動は厳しかった。ストレッチ、腹筋、背筋、腕立て伏せ、スクワット、マラソン、基礎体力に、トス、レシーブ、サーブ、スパイク、全てにわたって先輩に教えて貰った。早く先輩の様にコート立って試合に出たいと思っていた。バレーボールは楽しかった。スポーツ全般に得意だった。サッカー、バスケット、卓球、ソフトボール、水泳、走り幅跳び、ハードル、マラソン、いろいろな種類をした。

      三

 中学時代は勉強と部活に明け暮れた。私は毎日勉強をしていたので、テストで実力が試せるので、楽しみであった。満点は取ったことは無かったが、八割から九割八分は取れていた。生活は充実していた。

 そして、一年が過ぎ、二年生になった。

 私は夏目漱石が好きだった。「坊ちゃん」を読んだ。痛快な展開に、言葉の端々に瑞々しさ、諧謔が面白かった。一読しかしていなかったが、漱石の虜になった。読書はこれだけだった。幼い頃、父が、「とにかく本を読め!とにかく本を読め!」と、口酸っぱく言われたが、小学生の時に伝記を読んで以来全く本を読まなかった。しかし、この父の言葉がトラウマになり後年、読書するきっかけになった。

      四

 バレーボール部で、三年生の先輩が引退して、私達の時代が来た。私は選挙で副部長になった。部長が不在の時は、私が部を率いた。結束力は堅かった。皆に、「厳しい。厳しい。」と、言われた。しかし、私は緩めることは無かった。部を強くしたかった。ただ、その一心だった。

      五

 修学旅行は九州に行った。

 米原から新幹線に乗り、長崎に着いた。オランダ坂、グラバー園、路面電車、天気は快晴で見るもの全てが新鮮だった。土産物で、「ポッピン」を妹に買った。原爆資料館にも行った。惨状を目にし、恐ろしさで身が震えた。その時、戦争は二度としてはいけないと思った。原子力爆弾で影だけを残して亡くなった人もいた。先の戦争で広島にも落とされた。決してあってはならないことだ。戦争とは人と人の殺し合いである。そこで沢山の人が死んでいる。痛ましいことだ。

 二日目は阿蘇山のカルデラに行った。阿蘇の外輪山に囲まれ、中央に火口があり見物した。後に、漱石の、「二百十日」の舞台だと分かった。

 三日目は大分だった。別府温泉で地獄湯巡り、高崎山と行った。

 そうして、三年生になった。

      六

 受験勉強の始まりである。

 春の家庭訪問で担任が自宅に来た時、「彦根東受けてみんか。」と誘われた。しかし、私の定期試験の成績では入れそうもないと思ったので、どうしても彦根東高校に行きたかったので、実力テストで学力を上げて入学したいと思い、受験勉強をすることを心に誓った。それから、猛勉強が始まった。昼も夜も無かった。とにかく勉強した。

 そして、秋頃から飛躍的に成績が伸びて来た。試験の日が迫って来た。年明けの、湖北一斉テストを受けた。しかし、成績は知らなかった。偶然、担任に、

 「僕の成績何番?」

 と、誰かが聞いた。担任は、

 「粕淵が一番、藤森が三番、小野が十七番。」

 と、告げられた。虎姫高校は間違いなしと思った。しかし、彦根東高校に拘った。どうしても行きたかった。何故か出願するのが怖かった。今、思い返すと迂闊だった。残念なことに、私は米原高校普通科に出願してしまった。

 私は終わった。夢も希望も失った。落胆は考えられない程酷かった。

 高校には合格した。しかし、嬉しくは無かった。何もかも失った。

      七

 私は高校に入学と同時に、名古屋大学機械学科か建築学科に進もうと思った。エンジニアか建築士に成りたかった。そこに行けば就職は間違いなっかた。エンジニアに成るには大学院修士課程を卒業しなければならなかった。しかし、以前から文科系に興味が有ったので、もし、そこの修士を卒業すれば、文系のスペシャリスト=学者になれるのではないかと思い始めた。学科は政治学、英文学、仏文学、独文学、露文学、古典学、考古学、哲学から概観を始めた。大学は東京大学か京都大学に入学したいと希望した。

 私は思い悩んだ。深かった。

 悩みが深くて、成績が落ちてきた。高校二年生後半の頃である。

 三年生の時、事もあろうか、文系に進学しなければならないのに、理系クラスに在籍してしまった。私のミスである。取返しのつかない事である。

      八

 本命は東京大学だったが、センター試験の成績が芳しくなかったので、京都大学法学部を受験することに決めた。併願は慶應義塾大学法学部政治学科と立命館大学法学部にした。しかし、慶應義塾大学は学力不足と判断し取り下げた。そして、受験の日が来た。

 まずは、立命館大学である。私は無謀にも試験当日に受験をしなかった。勿体ないことをした。

 唯一の受験校、京都大学を受験した。

 権威とアカデミックの大学であった。勿論、学力が低かったので不合格であった。結果が分かっていたので、悔しさも辛さもなかった。

 浪人生活に入ることになった。

 ニ、三年アルバイトをしながら、高校時代あまり出来なかった勉強をして学力をつけて、東京大学か京都大学に入学しようと思った。その時、酒、タバコ、ギャンブルは一切しないと心に誓った。

 しかし、出鼻を挫かれた。無理やり予備校に入れられた。

 そうして、私の高校時代は終わった。


 四、成人式

      一

 京都駅からほど近い、代々木予備校に入学した。

 予備校の講義は杜撰だった。最初は講義に出ていたが、くだらないと思い、エスケープした。

 私の読書が始まったのはこの頃である。岩波文庫である。この本との出会いのきっかけは、高校一年の担任が、

 「趣味はなんや。」

 と、聞かれ、

 「読書です。」

 「岩波文庫か?」

 と、問われ、その存在を知った。そして、高校二年の時に、「自省録」を手にし読んだ。そうして、岩波文庫を買い始めた。

      二

 沢山の本を買ううちに、「創世記」を買った時に、ふっと思った。本物の、「聖書」を買おうと思った。最初は、「聖書」は世界最高の文学であると思い購入した。岩波文庫を買い始めた。

      三

 読書は思想の源泉から読み始めた。東洋思想の孔子、仏陀。西洋思想のソクラテス、イエス。イスラム思想のマホメット。そして、文学の源泉、日本文学の漱石、鴎外。イギリス文学のシェイクスピア。ロシア文学のトルストイ、ドストエフスキー。ドイツ文学のゲーテ、シラー。フランス文学のスタンダール、バルザック、ユゴー。スペイン文学のセルバンテス。イタリア文学のウェルギリウス、ダンテ。ギリシャ文学のホメロス、ヘシオドス。中国文学の李白、杜甫。などの名文学。哲学、政治、経済、社会、思想、数え上げればきりが無い。

 学校は七月に退学した。

      四

 私は自宅で勉強を始めた。

 この頃から片頭痛がし始めてきた。

 毎日、勉強と読書ばかりした。

 一浪目の受験に失敗した。

      五

 二浪目のセンター試験と成人式が重なってしまった。私は出席したかったが、試験を受けにいった。自宅に帰ると、成人式の記念品が上がり段に、そっと置いてあった。

      六

 早稲田大学政治経済学部政治学科と法学部を受験に東京へ行った。新宿のビジネスホテルにチェックインした。部屋に入って、テレビを付けたが、付かなかった。意地悪されていると思い。チェックアウトした。高田馬場の早稲田大学近くの公園で野宿しようと思い自宅にそう電話した。公園にはブランコに人が一人いた。しかし、野宿は嫌なので、交番にホテルの場所を聞いた。警官は、東京駅の近くにカプセルホテルがあると言った。しかし、元のホテルに入り直そうと思い新宿に行った。ロビーで断られた。そこで、他のホテルを紹介して貰った。そのホテルにチェックインした。早稲田大学を受験するのが怖くなってきた。そこで、ホテル内の公衆電話から自宅に電話を掛けた。父に継ながった。父は大学を受けるのをどうしても認めなかった。そこで、一番信頼できる高校教諭の電話番号を探して貰った。その時、ホテルの従業員が部屋から、電話を掛けられますと言ったので、部屋から掛けた。ベッドに寝て自宅に掛けたたら、父が、

 「寝転んで、掛けてるやろ。」

 と、言ってきた。不思議だ。それから、一晩中電話を掛け続けた。そして、七時に掛け直す、と言って、受話器を置いた。六時五十五分に電話を掛けたら、話し中だった。もう、終わったと思った。

 チェックアウトし清算すると宿泊費そして電話代は三百六十円だった。私は何もかも失った。右には新宿駅があるが、左へ行き、街をさ迷った。どこを歩いているか分からなかった。

 暫く経って、家に帰ろうと思い。電車を乗り継ぎ米原に帰った。

 しかし、自宅に帰るのが怖かった。そこで、もう一度、東京へ行こうと思った。切符を買った。駅構内で私は迷った。また自宅に電話した、

 「お父さん、どうしたらいいか分からん。」

 父は、まだ場所を教えていないのに、

 「そこで、待っとけ。」

 と、電話を切った。

 父が迎えに来た。不思議だ。自動車に乗って帰る途中、弟が私の自転車に乗って帰るのを見た。

 家にやっと帰った。

       七

 京都大学の試験の前日だった。

 エホバの証人が家に来て、パンフレットを置いて行った。そこには、こう書いてあった、

 「もっと、聖書をよく読め!お前は学校を受ければ必ず受かる。入学すれば最初はついていけないが、出来る様になる。受けに行け!」

 夜、私は「聖書」を開いた、そこには、

 「恵み深い主に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  神の中の神に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  主の中の主に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。


  ただひとり

    驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  英知をもって天を造った方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  大地を水の水の上に広げた方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  大きな光を造った方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  昼をつかさどる太陽を造った方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  夜をつかさどる月と星を造った方に感謝せよ。


  エジプトの初子を討った方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  イスラエルをそこから導き出した方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  力強い手と腕を伸ばして導き出した方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  葦の海を二つに分けた方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  イスラエルにその中を通らせた方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  ファラオとその軍勢を

    葦の海に投げ込んだ方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  イスラエルの民に荒れ野を行かせた方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  強大な王たちを討った方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  力ある王たちを滅ぼした方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  アモリ人の王シホンを滅ぼした方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  バシャンの王オグを滅ぼした方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  彼らの土地を嗣業とした方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  低くされたわたしたちを

    御心に留めた方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  敵からわたしたちを奪い返した方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  すべて肉なるものに糧を与える方に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。

  天にいます神に感謝せよ。

   慈しみはとこしえに。」

 そして、もう一度開くと、

 「ハレルヤ。

  天において

   主を賛美せよ。

  高い天で

   主を賛美せよ。

  御使いらよ、こぞって

   主を賛美せよ。

  主の万軍よ、こぞって

   主を賛美せよ。

  日よ、月よ

   主を賛美せよ。

  輝く星よ

   主を賛美せよ。

  天の天よ

  天の上にある水よ

   主を賛美せよ。」

 「ハレルヤ。

  聖所で

   神を賛美せよ。

  大空の砦で

   神を賛美せよ。

  力強い御業のゆえに

   神を賛美せよ。

  大きな御力のゆえに

   神を賛美せよ。

  角笛を吹いて

   神を賛美せよ。

  琴と竪琴を奏でて

   神を賛美せよ。

  太鼓に合わせて踊りながら

   神を賛美せよ。

  弦をかき鳴らし笛を吹いて

   神を賛美せよ。

  シンバルを鳴らし

   神を賛美せよ。

  シンバルを響かせて

   神を賛美せよ。


  息あるものはこぞって

   主を賛美せよ。

  ハレルヤ。」

 こう書いてあった。私は神に感謝した。

 ここで、私は考えた。もし、納得の出来る勉強をして、自分に学力が十分に有り合格できるのならいいが、学力の無い自分が合格したら、本当に睡眠時間を削って一生懸命勉強して合格点を取った人が落ちたら、不条理だ。だから、京都大学を受験するのを辞めよう。

 そして、京都大学は不合格になった。


      完


 忘れてはならないのは、神への感謝と、生かされていることへの喜びを知ることである。

   


   

         



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