九話 29歳、おとなげない。
「怒らないんですか、」
帰宅後、無言で着替える俺に佐喜彦は声をかけてきた。
「めんどくせえ。」
返答にはそれを選んだ。
「でしょうね。」
少し腹が立った。佐喜彦の語調は、申し訳なさそうにおずおず、でもなく、不機嫌に拗ねながら、とも違う。ソファに寝そべって本を読みながら、まるで何事も無かったかのような言いぐさだった。言うなれば、見透かした上で小ばかにしている感じだ。
「結局、その程度ってことですよ。史世さんにとっての彼女は、」
無関心を装っておきながら、佐喜彦は続けて煽ってきた。また幾分腹が立って、俺は大人げなく、背後から佐喜彦の本を取り上げた。
「なに、おまえ妬いてんの? 構ってほしいわけ?」
皮肉に笑みを残したのは、せめてもの抑制だ。
じっと睨んでくる佐喜彦と視線が交わった瞬間、抑制は無意味なんだと察した。
あ、喧嘩するんだ、俺。こんな子ども相手に。
「すみません。構ってあげるのがお得意なのかと思ったので、」
は?
苛立ちが隠せなくなり反撃するよりも先に、佐喜彦は「僕、あの子嫌いです。」と先手を打ってきた。
「本当に気持ち悪いですよね、彼女。」
佐喜彦は続けた。
気持ち悪いんですよ。
可哀想だって思われたがってるくせにへらへらして、自分ばかり不幸みたいな顔して、つらいのに頑張ってるねって褒められたくて、期待してるのが見え見えなんですよ。
畳み掛けるように、佐喜彦はどんどん月乃を蔑んだ。批判はまだまだ止まらない。
身の上を武器にも盾にもして、あなたの懐に潜り込んで、下心だらけのくせして、自分は何一つ変わろうとしない。子供でいることをあえて選択している。まあ、結局はお似合いですよね。あなたもあなたで、優越感に浸れるんですから。
「反吐が出ますよ。」
散々まくしたてた批判の終わりを、その一言で締めくくった。
いよいよ本格的に面倒くさくなってきた。
佐喜彦の言動に苛立ち、つい感情的になってしまったのは、事実だ。しかしいざ向けられる激情に、反撃するのも宥めるのも、かと言って理解してやるのも面倒くさい。
子どもなんて生き物と争うこと自体が、ばかばかしい。
だからこそ、俺はこのくだらない戦いの、終結をみつけられずにいた。
「で、おまえは結局何が言いたいわけ?」
悩んだ挙句、最も狡猾な手段を選んだ。どうせ大人はずるい生き物だ。
「……甘やかす大人には、成長しない子供がお似合いだ。」
答えになっていない返答を佐喜彦は溢す。
「そんなの、おまえを置いてる時点で気づけよ。言えた立場じゃねえだろ。」
また売り言葉に買い言葉になってしまった。
「僕をあんな奴と一緒にするな、」
佐喜彦はついに声をあげた。
「……史世さんは見くびってばかりだ。なんにもわかってない。怒るふりしてぜんぶ許して、適当に甘やかして、あしらって、それで満足するのはあなただけじゃないか。……他の奴らは騙せても僕は違う。あなたが思っているよりずっと、僕は大人なんだ、」
怒りあらわに声をあげる。
不安定な佐喜彦とバランスをとるみたく、俺は冷たく言い返してやった。
「おまえが思ってるよりずっと、おまえは子どもだよ。大人なら、気に入らない奴なんて相手にしねえよ。流すっつーの。」
次の瞬間、胸ぐらを掴まれた。
佐喜彦の激情が、いよいよ、声にも、表情にも、行動にも、あらわになってゆく。
「あなただって現に今、怒ってるじゃないですか。僕の態度が気に入らないから。」
正論だと思った。ずるい俺はそれを機に、終結の糸口をつかんだ。
そうだ。自分のせいにしてしまえ。
この面倒くさい展開と、子どもの激情を同時に治め、尚且つ面子を保つには、それが一番得策だ。
「じゃあ言えよ、おまえの言い分。ぜんぶ聞いてやるから。」
無抵抗に要求を選択させる。大人げなかったのは事実だ。
なんでも言えよ。月乃が気に入らないならもう会わねえよ。関係も断ってやる。断つ前に抱けっつーなら抱いてくる。俺が気に入らないなら殴ればいい。謝罪でも土下座でもするさ。他の連中より特別扱いしてほしいなら、さっきのは全部撤回してやるよ。
顔面に一発くらいは、妥当な報いだろう。
本当に、俺も存外、大人げない。
「……もういいです。」
佐喜彦はそれ以上怒鳴ることも、手をあげることもなく、胸ぐらを解放した。
「もう、いいです。」
俯き加減で同じ言葉を繰り返す。この位置からじゃ表情が窺えない。
窺えないまま、佐喜彦は出て行った。身一つで飛び出した子どもを、俺は追うことができなかった。
気に入らない奴なんて相手にするかよ。
俺は小さく唱えたあと、自ら頬に平手の制裁を与えた。