五話 29歳、見てみぬふり。
「働いてみようかな、」
何がきっかけだったかはわからないが、ある日思いついたように佐喜彦は言った。
働く? ちゃんと聞こえてはいたが、あえて聞き直した。なにしろ、こいつからは想像もしなかった言葉だ。
俺たち二人暮らしの経済状況は、今のところかなり余裕がある。それは、俺が養っている、なんて格好いい余裕ではなくて、情けないことに佐喜彦の家出資金からなる、恩恵によるものだった。
「お陰様で生活は安定してるぞ?」
卑下のつもりで、ははっと笑った。
「別に生活に不満は無いですよ。」
佐喜彦は嘘の欠片も見せずに言った。
「おとなは、みんな働いてるじゃないですか。」
言い出してからの行動は早かった。
真夜中に証明写真を取りにゆき、コンビニで購入した履歴書を書き上げ、翌日には仕入れ先不明の求人情報から、個人経営の喫茶店への面接を取り付けた。
行動力もそうだが、それ以上に、嘘八百満載の履歴書にも驚かされた。
書面上の藤代佐喜彦は、現在休学中の高校を何年も前に卒業した二十一歳のフリーター、という設定らしい。
「企業じゃあるまいし、履歴なんてそこまで重要視されませんよ。だいたい、採用されるかもわかりませんし。」
佐喜彦の謙遜とは反対に採用は即日決まり、次の週から出勤するようになった。
週三日程度、シフト制のアルバイトだったが、奴なりに充実していたらしい。仕事の話はあまりしなかったが、なんとなく普段の仕草で察することができた。
喫茶店は夜になると、業態を変えるバーでもあった。とはいえ、メニューのいくつかにアルコール類が追加されるだけであり、従業員も来客数もさして変わらない程度のバーだ。
佐喜彦は日によって、どちらの時間帯も働いた。
一度、外から覗いたことがあるが、働いているのは佐喜彦と、店主らしき白髪の男性の二人だけで、あとは女性客だらけだった。店の規模は大きくないが満席で、その場にあるほぼすべての視線が、佐喜彦に向けられているのは遠目からも明らかだった。
「すっげえいい顔してたぞ、」
偵察した日の夜、いたずらにからかった。
そりゃこの貌で品良く微笑まれ、紳士的に接客されれば女性客も増えるだろう。からかい半分賞賛半分の意地悪に、佐喜彦は淡々と言い返してきた。
「だから言ったでしょう、猫被っておいて悪いことって無いんです。」
とことん、下手に器用な奴だと思う。
様子がおかしくなったのは、働き始めてしばらくしてからだった気がする。
生意気な口と態度は珍しくないにしろ、佐喜彦は基本的にいうことは聞く奴だ。当初の「問題は起こさない」という規約に、それも含まれているのだろう。
そんな佐喜彦が、妙に反抗的になり始めたのだ。
ピーマンや長葱が入っている食事には、一切手をつけない(以前は除けるなりしていた)。
俺がベッドを使う日だというのに、寝床を陣取っている(俺たちはベッドと布団を週交替で使っている)。
灯りを消すときに限って、「まだ眠くない」「本が読みたい」などと駄々をこねる。
きっと慣れない仕事を始めて疲れているんだろうと、あまり気にしなかったし、しょうがねえなと寛大に接していた。
時々だが、無断外泊もするようになった。
一応何かあっては困るので、今どこにいるんだとかそのくらいのメールは送った。すると決まって、
『朝には帰ります。ご心配なく。』
なんて事務的な返事があったので、それ以降の連絡は控えたし、実際朝帰りしても特に問い詰めないようにした。
無闇に踏み込んで刺激するもんじゃない。賢明な判断だったはずなのに、佐喜彦の反抗は、日に日にエスカレートしていった。
俺はただただ、寛大に接した。
佐喜彦がどこかの鍵を握り締めているのを目撃したのは、そんな折だった。
帰宅すると、先に眠っていたあいつの手には、どこかの室の物と思われる鍵が大事そうに握られていて、その姿に、悩む、とまではいかない程度に思索した。
そうか、男ができたのか。最近の様子の原因は、これか。
いくら考えてもそれ以上の答えは出なかった。