三話 29歳、身の危険を感じる。
「恋人、いるんですか、」
ある日、唐突にきかれた。
佐喜彦が転がり込んできて一ヶ月弱。俺たちはつかず離れずの関係を続けていた。
俺は一日の半分以上家を空けているし、出るときも帰宅しても佐喜彦が眠っている日だって、しょっちゅうある。丸一日会話の無い日も珍しくない。しかし、決してお互いをないがしろにしているつもりもなく、一緒に食事を摂ったり、商店街くらいなら歩くこともあった。頼んでおけば買い出しや掃除もしておいてくれる。
それでも、込み入った話や詮索は、お互いしていなかった。
そんなさなか不意を突かれた問いに、どきりとした。
取り繕えない真顔を向けると、佐喜彦は特に意味深ではないような表情で、手元のマグカップと俺を交互に見ていた。
その様子から、本当に深い発言ではないのだと、胸を撫で下ろした。
マグカップには、三十路前の男が持つには些か不自然な、キャラクタータッチのペンギンが描かれている。
幼いころ、旅行先で父が気紛れに買ってくれた品だ。
年季は入っているが、それなりに物が良いので絵に剥がれは無く、実際より古く見えない。
食器類は貰い物なんかで増える一方なので、こいつにこのマグカップを使わせるのは、今日が初めてだった。そのため、この女子供趣味な生活用品が気になったのだろう。
「ここ最近いねえなあ、」
面倒だったのでマグカップについては省いた。恋人の有無のみ、簡潔に答える。
「史世さんって、もてそうにないですもんね。」
結構な感想がご丁寧に戻ってきた。
余計なお世話だっての、おまえはどうなんだよ。つい大人げなく、十五歳相手にむきになる。
「いません。」
むきになった質問に期待通りの答えが返ってきたというのに、対等な気にはなれなかった。
なにしろ、こいつはもてそうだ。子どもにしては完成し過ぎている整った貌に、手足の長い高身長。こんな中高生、年頃の同級生が放っておかないわけがない。
「いたことはあんのか?」
子ども相手に下世話を持ちかけている自覚はあったが、気になった。予備校の生徒たちのなかでも、男女交際は珍しいものではない。
しかし単純に、この異端な子どもの恋愛遍歴が気になった。
佐喜彦は唇に当てていたマグカップを机に置いて、淡々と口をひらいた。
「僕、男の人なんです。好きになるの。」
「……は?」
「だから、好きになるのが男の人なんです。」
文法を入れ替えただけの言い直しを平然とする佐喜彦に対し、俺は湧き始めた混乱らしきものを鎮めようと、眉間を抑えて質問を続けた。
「あれか、おまえ、男が好きなのか?」
「そう言ってるじゃないですか、」
「なんで今それ言った?」
「交際遍歴を伝える上で、噛み合わない可能性があったので。」
まっとうな意見がまっとうじゃない理由によって告げられ、正式に混乱してもいいのだなと認識すると、むしろ冷静になれた。
落ち着けたところで佐喜彦と視線を合わせると、見慣れたはずの端整な顔立ちに、新たな不安が生まれた。
「え、ちょっと待て。俺、身の危険とか感じたほうがいい?」
冗談雑じりの本音に、佐喜彦がげんなりと睨んだ。
「あなたは、道ゆく女性全員に欲情するんですか? 僕にだって、好みくらいありますよ。」
遠まわしに、「おまえじゃ欲情しない」と言われているのだろう。こんな悪態なら歓迎だと安堵しながら、俺はへらっと笑っていつもの調子に戻った。
「へえ、じゃあどんなのがタイプなんだよ、」
子どもをからかうのは、やっぱり面白い。
「まず、史世さんには全く反応しませんので、安心してください。」
残念なのは、こいつが一筋縄ではいかない奴だということだ。
憎まれ口で前提を置いてから、佐喜彦は自身の好みのタイプについて教えてくれた。
「見た目だけなら、あまりそれらしく見えないノンケっぽい人がいいです。歳上が絶対条件で、若く見える分には構いません。優しくて面倒見が良くて、できれば肌がきれいで、僕にタチらせてくれる人が理想ですね。」
所々怪しい単語もあったが、まあ納得できた。
子どものくせに案外理想が高い。そして俺への扱いが思った以上にひどい。
「そこまで具体的にあげといてタイプじゃないとか、逆に傷つくだろ。俺、歳上だし面倒見良いし優しいぞ。あと肌にも自信ある。」
自分で言うからだめなんですよ。佐喜彦が冷めた口調でため息をつく。
「可愛げが無いんですよ、史世さんは。庇護欲がまったく湧きません。」
「十五歳に庇護されてもなあ。」
「十五歳に身の危険感じてたじゃないですか、」
今にして思えば、酒の力があったとはいえ、こんなガキを働き盛りの若い男だと勘違いした理由は、容姿だけじゃなかった。
この一ヶ月でだいぶ慣れたが、こいつからは何というか、性的なにおいがぷんぷんする。
鼻につく色香を掻き消すように、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。佐喜彦はまだ、ペンギンのマグカップに息を吹きかけている。
話が脱線したせいで、交際遍歴は語り合えなかった。




