二十九話 ずるい大人、ただの子供。
予感ならしていた。
伊織との再会も、父との記憶も、至極平穏で安定している俺たちも。きっと前兆だったんだ。
すべてに目を瞑れる自信はあった。何が起きても表面だけに留めて、ごまかしながら日々をすごす。そんなこと、造作もないんだって。
見て見ぬふりも、回避も、いくらだって出来たはずだ。
それなのに、予感に、従ってしまった。
「……かえせ、」
馬乗りになった佐喜彦は、確かな殺意を向けた。
いつかのように俺を組み敷いて、いつかのように胸ぐらを掴みながら、返せ、返せ、と繰り返す。
殺意を宿す眼差しのなかで、俺がぼんやりと映っている。
あーあ、やっちまいやがった。何考えてんだよ、あとたった四ヶ月だってのに。
佐喜彦のなかに居る俺は、呆れるくらい間抜けな面をしていた。
ばかなことしてくれたよ、本当に。
伊織と過ごしたあの一夜、俺は例の鍵を奴に手渡した。
以前、佐喜彦が大事そうに握り締めていた、あの鍵だ。
宝物の紛失に気付いた佐喜彦は、真っ先に俺にその所在を訊ね、俺は素直に真実を告げた。
伊織が鍵を返してほしいと望んでいたこと、
だから返したこと、
合鍵が戻ったので近々室を引き払うつもりらしいということ。
一通り耳にした佐喜彦は、絶望の面持ちからすぐに鬼の形相に変わり、俺を押し倒した。それが現在の、激昂に至る経緯だ。
「なんで、どうして……ひどい、ひどい、」
憤りは静まるどころか沸々とわき続け、抑制の効かない激情が、大きな子どもを錯乱させる。怒りの頂点に達しているはずの佐喜彦は、震えて涙ぐんだ。
「持ち続けて何になったんだよ、」
俺は聞いた。
逃げられる場所が欲しかったのか?
あの部屋で、あいつが待っていてくれると思ったのか?
約束を守る上であれは必要だったのか?
……本当は、このくらい問いかけてしまいたかった。だけど、ぐっと堪えた。
「なんにも、ならない……です、」
佐喜彦がほんとうに泣きだしてしまったからだ。
「……わかってる、わかってるよ、」
怒りと、哀しみと、絶望と、愛しさと。ぐちゃぐちゃに混ざり合った真ん中で、佐喜彦が喚く。
胸ぐらを掴む手元に力が加わり、首を絞められる幻覚を、視せた。
「でも、くれたんだ……伊織くんが、……ぼくに、くれたんだあ……」
伊織くんから貰ったんだ
くれたんだ
うれしかったんだ
返せ、返してよ
かえせ、かえせ、かえして……
佐喜彦の訴えを、無抵抗のまま耳に吸い込んだ。
男一人分の重みに潰されながら、手元の力がどんなに増しても、呼吸が細くなっても、沈黙を貫いた。いいわけなら、いくらでも用意していたから。
「どうしても、おまえとの一年を成功させたいんだよ。」
佐喜彦の手元から力が抜けるころを見計らって、口を開く。
「わかってくれ、佐喜彦、」
天井を背負う佐喜彦から、ぼたぼたと涙が降ってきて、頬を濡らした。声にならない声でえずく。
……ごめんな、わかってくれ。
俺はいいわけを投げかけながら、観念を強いられた子どもを、宥めた。
俺はとんでもない大嘘つきだ。
一年の成功のため、課題の確実性のため、すべては佐喜彦のためだなんて。ぜんぶ嘘っぱちだ。全部、俺のためだ。
大人はずるい。いつだって、子どもを思い通りにしたがる。
手の届く距離に置いて、目の届く場所に留めて、模範を武器に堅実を盾に、行動も思想も制限して。
自分だって思い知ってきたじゃないか。父による厳格な規律と、母からの無言の支配を、身にしみて生きてきたはずだったのに。どうして繰り返してしまうのだろう。
佐喜彦は、まだ子供なんだから。
怖かった。佐喜彦に逃げ場が在ることが。俺たちの一年が未完成で終わることが。
あと四ヶ月だけは、ぜんぶ、俺のものだ。
佐喜彦は泣き止むと同時に、深く眠った。
俺を許すかどうかは判らない。目が覚めてからまた咎めてくるかもしれないし、二度と口をきいてくれないかもしれない。そこまでじゃなくとも、しばらくは不機嫌に目を合わせてくれない可能性だって、充分にある。
どんな制裁が待ち受けていようと、諦めるしかないのだろう。諦める、なんてのもおかしな考えかただけれど。
どうしようもない自分に、笑うしかなかった。
こんなずるくて卑怯で、俺も立派な大人の仲間入りだなと、皮肉な自画自賛を巡らせながら、隣で眠る佐喜彦の前髪をかきあげる。目の周りがぱんぱんに腫れていて、唯一の取り得が台無しだ。まあ、俺のせいなんだけど。
残された時間、たくさん、我儘をきいてやろう。
食いたいもんは何だって作ってやるし、どこだって連れてってやる。ラーメンでもやきとりでも。
貴重な休みを費やすのも、まあ覚悟するか。繁忙期ももうすぐ終わるし。連休を使ってどこかに行くのもいいかもしれない。
伊織の話が本当なら、こいつは少し特殊な家庭の坊っちゃんだ。遊園地や動物園なんかで感動してくれるかもしれないな。
極力、呑みに行くのも控えよう。酔っ払った俺が好きじゃないみたいだし、帰宅時間も晩くなるし。
仕事帰りにはプリンやケーキを買ってきて、最初に選ばせてやろう。
AVやキャバクラの名刺も、目の届かない所に片付けるようにしよう。できるだけ。
あ、でもからかうのはやめないからな。
生意気言うなら、容赦しないからな。だって、そのほうが面白いだろ。
心で唱えながら、眠る佐喜彦の頬を抓って、俺はくくくと笑いを潜めた。
残された時間を、俺たちのかたちで過ごそう。
身勝手な決心も束の間、着信音が鳴り響く。
表示された姉の名に、全身を巡る血流が、音をたてて凍りついた。
予感ならしていた。でも、まだ終わってなんかいなかった。
予感は、罰となって降り注いだ。




