二十七話 厄介な拾いもの
那須だった、と思う。
季節は確か夏。目的は家族旅行だった。
思い出作りというより、恒例行事のような旅で、団欒を楽しむのではなく、肯定するための行事だった。
姉は、この頃から上手く空気を読む子どもで、家族旅行における自分の立場を把握し、牧場の牛だのふれあい広場の兎だの、どんな場面でも上手にはしゃいでいた。
母は、いつもどおり優しくて、ソフトクリームが食べたいとか、ポニーに乗りたいとか、頑張ってはしゃぐ姉の希望を一通り叶えてあげたり、長距離運転に勤しむ父の隣で、一睡もせず話し相手に徹したりしていた。
父も父で、いつもどおりだった。
「欲しいのか?」
たった一度の気紛れさえ除けば。
なぜそれを手に取ったのか、なぜ手にしたままみつめていたのかなんて、憶えていない。
なんせ、子どもだったんだ、俺も。
観光地の土産売り場に必ず並ぶ、土地とは何の縁もない子供騙しの品。
キャラクタータッチのペンギンが描かれたマグカップは、まさにそれだった。
欲しいのか?
見上げる先の父の表情は、真顔にも怒っているようにも見え、つい視線を逸らしてから、頷いた。
手元からマグカップの重みが消える。
目で追ったときには、包装されたマグカップを店員から受け取る父の後姿が、そこにあった。
父の気紛れから、もう二十年以上経つ。
どうして思い出したのか、思い出せたのか、理由があるとするのなら、これは予感だったのかも、しれない。
最終の個別対応が済むころには、十時を回っていた。ぼちぼちセンター試験も近い。こんな予備校の生徒たちでも、それなりに心構えをする季節だ。
佐喜彦がやってきてから、二度目の繁忙期。
一度目とは比べ物にならないくらい、俺たちは安定していた。
あの時も、表面上だけなら荒立っていなかったのだけれど、今回に関しては心底平穏なのだと、なぜか胸を張れる。その自信が、この二ヶ月ほど互いにもがききった成果なのか、目指すべき地点が見つかった結束力なのかは、判らない。
繁忙期を迎えてすぐのころから、帰路の途中、俺は必ず佐喜彦に電話をするようになった。
今から帰るから。それだけの報告を入れると、きまって、夕飯はどうしたかの有無を尋ねられる。まだだからコンビニに寄る、と答えてみれば、じゃあプリンが欲しいだの、牛乳がきれているだの、土産をねだられるのが、お約束になりつつもあった。言うまでもなく、そのあと俺がからかうのも。
正直悪くなかった。
冬の繁忙期、殺気立つ日々のなか、私生活内だけで設けられた規律。破ったところで害は無いのに、守りたくなるルール。
そんなもの、幼い頃から実家でも数え切れないくらい存在した。
でも、そのどれも破れば制裁がくだったし、自ら守りたくて守っているものでもなかった。
だからこそ、佐喜彦とのこの家庭内ルールが、こんなくだらない些細なものでもいいのかと、嬉しくなっていた。
しかし、なかなか定着してくれない規律もある。
件の、交換日記だ。
佐喜彦にも武本りさにも酷評されたが、俺にはあの『仲良しの定番』が諦めきれない。別に空回りに対して意地になっているだとか、せっかく立案したんだからと貧乏根性でいるのではなくて、単純に面白くなってしまったんだ。
『十一月十九日 くもり
今日史世さんが寝ぼうしました。昨日おそかったせいだと思います。
お酒の飲みすぎはよくないと思いました。このまえも同じことがありました。
ぜったいよくないと思いました。』
佐喜彦に無理やり書かせた日記の一部である。
なんだこれ、面白い。
誰に向けて書いてるんだよ。なんで天候の記録付けてんだよ。意外と漢字苦手なんだな。ていうか語彙少ないな。普段の佐喜彦との差が癖になり、もっと読みたいと欲が出てしまった。
気が向いたときでいいから書いてくれよと頼んでみても、佐喜彦は乗り気でない顔をするので、あいつが書いた日記には、その日中にコメントを残すようにした。
『今朝は起こしてくれて助かった。でも酒は悪いもんじゃねーぞ。
大人になったら飲みにいこうな。』
この甲斐があったかどうかは不明だが、以来ちょくちょくと佐喜彦は、観察報告のような拙い文章を残してくれるようになった。その度に俺はコメントを残す。本来の交換日記の概念に反しているかもしれないが、これはこれでよしとした。
安定、していた。
無理はしていない。必死にもなっていない。
溺愛しているつもりもないし、べったり甘えられてもいない。
今だって時々、言い合いくらいはする。ふざけあったりも、大人げなく競ったりもする。それは間違いなく安定だった。あと四ヶ月、あっという間に過ぎてしまう気がした。
「四ヶ月……か、」
先ほどまで曖昧だった霙模様が、大きな雪の塊に統一されている。どおりで冷えるわけだ。雪の塊はどれも綿みたいで、空から落ちてくる存在感につい足が止まる。
いつの間にか、冬も真ん中だ。あと四ヶ月で俺の二十代は終わる。そして佐喜彦の課題も。
今のこの、安定された俺たちに思いを馳せながら、俺はまた歩き始めた。
面倒事が舞い込んだのは、歩き出してすぐだった。
年末近くなると、よくある光景だ。羽目を外した情けない大人の末路。酔い潰れて動けなくなっている人間を、発見してしまったのだ。
発見場所が人通りの多い駅だったら、もしくはこんな悪天候じゃなかったら、せめて、赤の他人だったら、無視することもできたのだろう。
しかしそのどれも、見事に掠ってさえくれなかった。
大雪のなか、ひと気の無い公園の遊具にもたれ掛かる、作り物のような貌をしたそいつは、嫌になるほど面識のある相手だった。
「おーい、生きてるか?」
声をかけると、八重伊織はおぼろげな目で顔をあげた。
なんかいっつも厄介な登場するな、こいつ。にしても今回は群を抜いて面倒だ。
というのも、どうやら俺が声をかけたこと自体には気付いたようなのだが、相手が俺だと認識できていないらしい。
「あー……うん、いい、かえるー……」
この返事が証拠だ。
「こんな所で寝ると死ぬぞ、」
とりあえず動くよう促す。
「……いや、むりだからーまじ。つかいものんなんない、」
うっわめんどくせえ。成立しない会話に思わず声が出た。
しかし本当に面倒なのはここからだ。こんな状況下で放っておくわけにもいかなければ、伊織に動く気配もない。
やはり手間になるが、他人のふりをして警察に任せてしまおう。
適切な判断として携帯を取り出した瞬間、伊織は急に手を伸ばして、俺の手ごと携帯を掴んだ。
「……家、ちかいよ、あっち、」
朦朧としているが、一定の方角を指している。あっちじゃわかんねーよ。振り解いて一蹴すると、今度は鞄から紙切れを取り出して、見せ付けてきた。
紙は公共料金の請求書で、そこには『八重伊織』の名と、住所が記載されていた。確かにここから近い。
「じゃあ帰れんだな?」
「んー……」
「帰れんだな?」
「…………。」
意識はあるのに返事はない。
深い溜め息を最後に、俺はでかい人形を背負って、記載された住所を辿っていた。佐喜彦には適当な嘘を盛って、先に寝るよう連絡を入れておいた。




