二十六話 29歳と、15歳。
日付が変わる前に帰宅すると、佐喜彦はまだ起きていた。
「おかえりなさい。」
先日出したばかりの炬燵が気に入ったのか、背中のなかほどまで潜り込み、肘をついて本を開いたまま出迎えてくれた。手の届く距離にテレビのリモコン、ペンギンのマグカップ、例のゲームも置いてある。絵に描いたような寛ぎっぷりだ。
「りささん、お元気でしたか、」
よく言うよ、おまえが垂れ込んだくせに。内心突っ込んだが、こいつなりの牽制なのだと判断した上で、相変わらずよく呑む女だよ、と笑い飛ばした。
武本りさと二人で会う件については、もう隠していない。
俺から打ち明けたのでも、佐喜彦が勘付いたのでもなく、いつの間にか自然の流れで公認となっていた。ばれて困ることなんて無いし、きっと佐喜彦だって大人同士の呑み程度にしか、認識していないのだろう。彼女との件を言及されることは、ただの一度も無かった。
「りささんのこと、史世さんはどう思います?」
だから、この質問には虚を衝かれた。
注いだ麦茶を口にする前に、酒気が一気に吹っ飛ぶ。
「どう……って、」
「やっぱり美人ですか、」
突拍子の無い質問の割に、態度は平然としていた。
本をめくりながら、日常会話の一部分のように問いかけてくる。おそらく深い意味はないのだと安堵し、「まあ美人ではあるな、愛想と色気はねーけど」と、更に笑い飛ばして、やっと麦茶を流し込んだ。
「結婚とかしますか?」
食道あたりまで差し掛かった麦茶が逆流して咳き込ませる。
「ちょっ、汚いじゃないですか。」
「誰のせいだ、バカ、」
むせぶ合間に「バカ」だとか「何言い出すんだ」と挟む俺に対し、佐喜彦はきょとんとした表情を向ける。どうやら変なことを口にした自覚なんて無いらしい。
「だってよく二人で出掛けていますし。」
……単純な発想だ。まあ十五歳ならそんなものか。
色々すっ飛ばした質問に、「生憎だがその可能性は欠片も無い。」と、丁重に回答した。
二人で出掛けるも何も、大衆酒場のカウンターで並んでジョッキを傾け、色気の無い愚痴や相談(ほとんど俺の一方的な。)を交わすだけの仲だ。
回答に納得がいかなかったのか、理解ができていないのか、佐喜彦は微妙な表情で視線を伏せた。何か考え込んでいるようにも窺える。
「史世さんは、りささんが嫌いですか?」
挙句に、またすっ飛ばしたことをきいてくる。
いや、好き嫌いどうのの話じゃなくてだな……説明しながら頭が痛くなってきた。
「僕は好きです。」
「はあ、そう。じゃあ伊織から乗り換える?」
「そういう意味じゃないです。」
「じゃあ俺もそういう意味じゃなくて、あいつは嫌いじゃない。これでいい? はい、この話はやめ。寝るぞー、ほらー。」
強制的に炬燵の電源を切り、佐喜彦ごと隅に寄せた。こうしないと布団が敷けない。佐喜彦は不満そうに渋々と炬燵から出て、皺のよった絨毯を綺麗に伸ばした。今週は俺がベッドを使う番だ。
「着替えてから寝てくださいよ、煙草くさいです。」
寝床の規律に関して、こいつは結構口うるさい。
「おまえも寝る前にトイレ行くの忘れんなよ。」
「ばかにしてるんですか。」
定番の言い合いをしながら洗面所に向かい、揃って歯を磨いた。順番に用を足し、佐喜彦がアラームをセットしている間に俺が戸締りの確認をし、ようやく部屋の照明を落とした。
「今夜はゲームしないんですね。」
暗くしてから佐喜彦はきいてきた。
「あー、なんか今日は疲れた。」
俺は雑な嘘で逃げた。
「じゃあ、すぐ寝ます? 眠いです?」
そりゃ寝る体勢に入ってるしな。天井を眺めながら返事をする。
「もう少し、喋っちゃだめですか、」
態度や口ぶりはいつもの佐喜彦だ。でも、様子がおかしい。
少し前の理不尽な我侭とは違って、こちらを窺いながら要求を通そうとしているような、じわじわした我侭だ。これも、牽制の延長なのだろうか。
「いいぞ、別に。」
適当にあしらうと面倒になりそうなので、もう少し付き合ってやることにした。
「りささんなんですけど、」
またその話か。だから俺たちはそういうんじゃねーって。これはこれで面倒になる気がして、早急に否定した。
「さっきと違う話です。聞いてください。」
佐喜彦にしては冷静な反論の仕方だった。正直うんざりしていたけど、一応黙って耳を傾ける。
「りささんは、家族を大切にする人です。」
ベッドの隣、目の届かない位置から佐喜彦の声だけが届く。
視線と顔と、身体ごと向きを横にして、俺は見えない佐喜彦の話を聞いた。
「目の前の家族だけを、大切にするんです。」
「目の前?」
「はい。今のお母さんは、二番目のお母さんだから。」
ふうん。淡々と説明する佐喜彦の話に、俺も淡々と鼻を鳴らした。
「あと、妹さんも、連れ子みたいです。でも大切にしています。仲良くしたくて、色々努力して、接しています。それと、亡くなったお母さんのことは絶対に口にしません。お墓参りにも行ってないみたいです。」
話が本当だとしても、不思議と非情な女だと感じなかった。
以前の彼女との会話が、影響しているのだと思う。
『死人に気を遣う必要なんてないわ。』
間違いなく、理由はこれだ。
脳裏に現れた武本りさの、あの日の言葉が今になって重みを増す。
佐喜彦は続けた。
「血に拘らないっていうか、実の母親を神聖視しないっていうか、彼女のそういう家族観、好きなんです、僕。」
そこから、少し間が空いた。
話が終わったようには聞こえない。まだ続くような気がする。
身を起こして、布団に居る佐喜彦を覗き込んでみようか、企んだ直後に、控えめな声が部屋に響いた。
「だから……りささんなら、いいなあって、」
「……佐喜彦、」
どうしてここで喋ろうとしたかなんて判らない。
このタイミングで身を起こしてしまったのも、身体が勝手にしたことだ。
目の慣れた暗闇の中、見下ろした先では、首まで毛布を被った佐喜彦が、仰向けのままこちらを見ていた。
目が合うなり、笑うしかなかった。
「あと半年、居てくれよな。」
「僕のために言ってます?」
少し不機嫌に問う。
「いいや。俺のため。」
口にしとけば、空回りもしないだろうって思って、恰好悪い本音を隠すのはやめておいた。
情けないけれど仕方ない。
こいつが、こんなにも曝け出しているんだ。対等にならないと、また嘘をついてしまう。色々と見失ってしまう。
もがくのはもう、御免だ。
腹を括れた自分に満足していると、佐喜彦も身を起こしてベッドに上がりこんできた。
向かい合う形でぺたんと座って俯き、俺の胸あたりに額を押し付けてくる。
「なんだよ、甘えてもかわいくねーぞ。」
からかうように、後頭部を掴んで大げさに撫でた。
「うるさいです。」
情けない声を出す。
「ほんと、かわいくねーのな。」
胸に密着した額が、押すように体重をかけてくる。
身体は自然と背中から倒れ、ベッドを軋ませながら佐喜彦は覆いかぶさってきた。
肩の位置に移動してきた髪が、頬をくすぐる。
シャンプーの香りと、呼吸が近い。
なんだこれ。
傍から見ればとんでもない光景だ。十五歳つっても充分でかいし、つーか男だし。でも押し退けそうにはない。
力を抜いた状態でおとなしくしていると、佐喜彦の唇が首筋を伝った。
「佐喜彦、」
押し退けそうにない。だから無抵抗のまま、叱った。
「やめろ。違うだろ。」
「……すみません、……間違えました。」
弱々しい謝罪と一緒に佐喜彦は身体を離し、隣にごろんと横たわった。
きまり悪そうに視線を逸らしてはいるが、布団に戻る気も無いらしい。
「寝惚けてたんだよな、」
毛布に招き入れながら宥めた。
「はい。ねぼけてました。」
なぜか横柄に言い返された。
なら、仕方ないな。「はい、仕方ないんです。」嘘つけ、やっと俺の魅力に気づいたんだろ。「それだけは無いです、断じて。」布団に戻ってもいいんだぞ。「いやです。面倒くさいです。」
狭い空間のなか寝転んで向かい合い、いつものくだらない言い合いをした。
史世さん。
呼びかけると同時に、佐喜彦は瞼を閉じた。
「ぼく、今から寝言いいます。」
ねごと、ただの寝言ですから。念を押す佐喜彦に俺は、
「おう、聞き流してやる。」と、軽く笑った。
寝言は静かに始まった。
「ぼくが、女だったら、一度くらい、抱いてくれましたか。……それとも、あなたも男が平気だったら、一度くらい、抱かせてくれましたか、」
情熱的な寝言だなあ。
流すとは言ったけれど、ついつい構ってしまう。
「聞き流すんでしょう、」
瞼を閉じたままむくれる子どもに、悪い悪いと謝罪すると、寝言はまた静かに再開した。
「……ぼくが、あと五歳年上だったら、一緒にお酒が飲めたかもしれないし、あと五歳若かったら、手をつないで、遊園地なんか、歩けたかもしれない。」
今度は一つずつ、頷きながら聞いた。聞き流す約束を破って、聞いた。
「ぼく、あなたの何になれるのかな、って、考えてしまうんです、最近、」
……もう、なんなんだよ、こいつ。
何でもかんでも先を越しやがって。子どものくせに。
自分にだけ聞こえる負け惜しみを、呟いた。
『子どもはあなたが思っているより、ずっと傲慢よ。
だから繊細にあなたの手の内を察知して、ひとりで勝手に崩れる。』
また脳内に武本りさが現れて、重い言葉を圧しこんだ。
「だから、りささんになら、いいって思えたんです。」
そして佐喜彦の寝言のなかにも現れる。
いいって、何がだよ?
「史世さんを、取られても。」
瞼を開いた佐喜彦が、シーツに頬を擦りあてて声を震わせた。
「……女の人は、ずるいなあ。年齢も、立場も、ぜんぶ無視できる。」
シーツを握り締めながら、佐喜彦は繰り返した。
「ずるいなあ……」
目が慣れてしまった暗闇で、何も見たくなくて、大きな子どもを毛布で隠した。
その、でかいだけの図体の震えが止まるまで、ひたすら摩った。
大きなこどもだ。
誰かに飢え、甘え、思春期の感覚と未熟な恋心もぐちゃぐちゃに混ざり合って、その全部がこの不安定な子どもを、苛めている。
家族でも、友人でも、恋人でも、こいつにはきっと足りない。それでも、ぜんぶ必要だ。
俺は何になればいい?
たったあと半年、ただ穏当にすごしたいと目論んだだけだ。
その為に関係を向上させなければと効率を重んじただけだ。
でも、初めて他人と向き合い、もがいたことで気づいてしまった。
俺が目指す佐喜彦との関係に、終着点なんて無い。
友にしては重すぎる。
兄にしては遠すぎる。
親になるには、足りない。
どんなに情が芽生えようと、行動しようと、もがこうと、俺と佐喜彦の関係は、何にも該当できやしない。
『人との関係なんて、そんなもの』
薄れゆく意識の中で、武本りさの声が響いた。
『適確な関係が築けないなんて、当然よ。理想イコール適確だと捉えてる人間が、多いだけ』
……ったく、こんな所にまで。大した女だな。
感心したころにはすでに、意識は現実から切り離されていた。
ベッドは無くなっていて、
佐喜彦も居なくて、
辺り一面真っ暗で、俺はそこで独り、声だけの武本りさを捜した。
『親と子の関係、兄姉と弟妹の関係、主人とペットの関係、友人同士、恋人同士……関係のかたちなんて、いくらでもあるじゃない』
ああ、その通りだよ。じゃあ、いくらでもある中で、該当すらできない俺たちはなんなんだよ。
現実でないのをいいことに、俺は強気に反論した。
『どうしてわからないのかしら』
背後から近距離で声が響く。
振り返ると、腰に両手をあてた武本りさが、俺の顔を見上げながら、睨んで口を開いた。
「あなたとサキの関係が、あなたとサキだけのかたちで、何が不満なの?」
容赦や手加減なんて、あるはずない。
本ッ当、可愛げねーな。現実で言えそうにない捨て台詞を残して、夢から逃げた。
佐喜彦より早く目覚めるのは、久しい。
毛布に包まる佐喜彦を起こさないようにベッドから脱け出し、これまた久しぶりに、自分で洗濯機を回した。
適当に着込んで、十一月の冷たい風を浴びながら、パン屋に足を運んだ。ちょうど朝一番の焼きたてが並んでいて、しょっぱいのを四つと甘いのを二つ買った。
室に戻ると洗濯機が止まっていた。忍び足でベランダに洗濯物を運び、干す。シャツと、ズボンと、代えの寝巻きと、パンツに靴下が二人分ずつ。ずいぶんな量だ。気合を入れて一枚ずつ丁寧に干した。シャツも一枚ずつ、ぱんっと皺を伸ばしてからハンガーにかける。
ちゃりん
何かが地面に落ちる音がした。足元に鍵が転がっている。
手にしているのは、佐喜彦のシャツだ。ここから落ちたのか。鍵を拾ってまじまじ眺めると、どことなく見覚えがあるような気がした。
そうだ。たしか、以前佐喜彦が大事そうに握り締めていた物だ。
そして、伊織が取り返そうとしていた物だ。
「……あやせさん?」
部屋から聞こえた声に振り向くと、寝転んだままの佐喜彦が眩しそうに目をこすり、寝起きの呆けた様子で俺を呼んでいた。
おはようさん、パン買ってきてあんぞ。
漂う香りで注意を逸らさせ、咄嗟に鍵を隠した。




