十七話 29歳。やはり男。
四度目にあの喫茶店を訪れたのは、夜だった。
用件が用件なので、出来るだけ早めにと考えたのだが、どうしても時間が取れず、仕事帰りの足で走っても、入口のベルを鳴らす頃には22時を回ってしまった。
閉店後の店内で、一人後片付けに勤しんでいた武本りさは、時間外に飛び込んできた俺を、微妙な視線で迎え入れた。
「クローズ作業は私の担当なの。」
武本さんの所在を尋ねたところ、返ってきた愛想の無い答えだ。
「それなら、あんたで構わないんだけどさ、」
早急に用件を切り出し、例の茶封筒をカウンターに置いて差し出す。
「気持ちは有り難いけど受け取れない。」
断り文句も直球なものを選んだ。たぶんこの女には、このくらいが丁度いい。武本さんだったらもう少し畏まったけれど。
「有り難いと思うなら、受け取って。」
作業をしながらとはいえ、ちゃんと振り向いてくれるあたり、律儀なのだろう。
「迷惑かけた手前ってのがあるんでね、」
「迷惑かけた自覚があるなら余計によ。」
ここは潔くなるしかない。俺はため息混じりに悟って切り替えた。
「じゃあ、近々メシ行きません?」
「突然なに、」
「ナンパですよ。」
その言葉を境に、武本りさの冷たい視線が更に温度をおとした。ぐさりと音をたてるように、突き刺さる。
「冗談。臨時収入があったんで、ご馳走させてほしいんですよ、」
締め出される前に笑い飛ばした。
茶封筒をひらひらさせる俺に、武本りさは呆れかえる。たぶん、冗談がまったく通じない女なのではないと思う。単純に好まないのだろう。
「くだらない。」
その証拠に、次の一言はあまり攻撃的ではなかった。しかしだからといって、『ナンパ』のお誘いにも乗ってくれそうにも無い。
俺はもう一度だけ粘ってみた。
「せっかくだから色々聞きたくてさ、」
「いろいろって、」
「俺じゃ知りかねることだよ。佐喜彦の事も、月乃の事もな。」
作業の手が止まる。しめた、と思った。
「共通の知り合いなら、助けてもらえませんかね。いろいろあって、音信不通でさ。」
「卑怯者ね、あなた。」
三十年近く生きてきて、面と向かって言われたのは初めてだ。それでも収穫はゼロではない。武本りさがやっと、身体ごとこちらを向いてくれた。
可愛げのない女だ。
表情が涼しげで、愛想が乏しい。きっと俺に対しては余計になのだろう。
それでも彼女は、俺を揺さぶる子どもたちの、俺の知らない部分さえも把握している。
好奇心なのか、嫉妬なのか、正体不明の何かに突き動かされるがままに、接近を臨んだ。
「で、どうします?」
「休みはいつなの、」
「え、」
「だから、あなたの暇な日。」
「えっと……次の火曜、」
「じゃあその日で。」
向かい合ってからの展開は、拍子抜けするほど円滑だった。
『確かに、彼女は言う側の人間じゃないですね』
不意に、佐喜彦が頷いていた言葉を思い出し、笑いが込みあがる。
おっかねえ姉ちゃん、ってだけじゃないらしい。
「気、重くしないで明るく行きましょうよ。とりあえず今回は、ナンパってことで。」
佐喜彦か月乃か、どちらが彼女を円滑にしてくれたのかは、判らない。両方である可能性も充分にある。俺の目的だって同じだ。
今夜はこれ以上嫌われないためにも、早々に出口のベルを鳴らした。