十六話 15歳。されど男。
団体予約の日から数日も経たずして、世の学生たちは夏季休暇へと突入した。
大半の中高生にとっては夢のような一ヶ月だが、俺を含め、予備校に関係する人間たちからすれば、怒涛の三十日間だ。小規模とはいえ俺の講義にさえ、少なからず生徒が増える。当然ながら仕事量も増え、家にいる時間も、ぐんと短くなった。
「寝るんだったら、明日のシャツ決めてからにしてくださいよ、」
喫茶店での一件以来、佐喜彦は新しいアルバイトを始めることもなく、家での仕事に専念してくれている。
ちょうど仕事が繁忙期を迎えたというのもあったが、最近は佐喜彦の有り難味を、不本意ながら身にしみていた。
たとえば早朝のごみ出し、消耗品の買出し、下着類の洗濯、そして翌日着ていくシャツのアイロンがけ。私生活での労働をすべて任せておける。それは大いに助かった。
少々話はずれるが、有り難味を知ったのは、私生活内労働だけではない。
この時期俺は、食事のほとんどを外で済ませなければならない状況なので、佐喜彦の食事に関しても、本人に任せっぱなしだ。つまり佐喜彦の世話というか、ここ数日はあいつと接する時間が、極端に減っている。それについて佐喜彦は、文句一つ溢さないのだ。
そんなの当前だと思いがちだが、少し昔に女と暮らしていたとき、まさしくそれが原因で口論になり、別れた。仕事と自分どちらが大事だとか、寂しいだとか、ばかばかしい訴えにうんざりしたんだ。
「男のほうが、いいもんだな、」
貴重な休日を家で過ごしながら、つい呟いた。
脈絡のない突然の発言に、佐喜彦は大げさな瞬きを数回挟んだのち、眉をひそめた。
「僕、史世さんを抱くつもりはないです。」
変な勘違いすんなバカ。俺も眉をひそめた。
「同居だけなら男のほうが楽だし助かる、って話だよ。」
簡単に説明してみたが、佐喜彦はいまいち理解できていないようだったので、過去の女の件にも軽く触れた。無論、子どもにこんな話するもんじゃないと、承知の上で。
説明後少し間をあけて、佐喜彦はマグカップに一口分、唇をあてた。そしてゆっくりと飲み込んで、また少し間をあけ、
「史世さんは、やっぱり頭良くないです。」と、感想をのべた。
こっちは気を遣って、言葉を選びながら大人の事情を話してやったというのに……俺は苦笑を溢しながら佐喜彦の頬を抓った。
「痛いです。」
大して痛そうじゃない調子で目を据わらせたので、すぐ解放してやった。
佐喜彦は抓られた部分を擦りながら、またマグカップに唇をあてて、ひと息おいた。
「好意の延長で構ってほしいなんて、みんな同じです。それを言うか言わないかの違いと、男女の違いを同じにするのは、お門違いですよ。」
唇から離したマグカップのなかでは、アイスティーが水面を揺らしている。飲む頻度が多い割にはまだ半分ほど残っていた。
「女性で言わない人もいれば、男性で言う人だっている。」
そんなことも解らないからもてないんですよ。最後に余計な一言を付け加えて、佐喜彦は話を締めくくった。言いたい事、反論したい事はいくつかあったが、やめておいた。
「おまえの上司の、あのおっかねえ姉ちゃんとかなんて、絶対言わなそうだもんな。」
代わりに話をすり替えて、からかうように武本りさを例にあげ、登場させた。
「『りささん』、です。」
当然、佐喜彦は笑いに乗ってくれなかったけれど、武本りさの敬称を強調するとすぐに、指を顎にあてがい納得するように、
「……確かに、彼女は言う類いの人間じゃないですね。」なんて頷いた。
だろ? だろ? 俺は調子に乗って一人で笑う。佐喜彦は何も言い返さず、マグカップを支えていた。
「あ、そういえば、」
佐喜彦が思い出したように立ち上がり、棚から何か探し始めたのは、一連の会話の終わりごろだった。探し物はすぐに見つかり、差し出されたのは茶封筒だった。
「これ、りささんから預かってました。」
封筒の中には二万ほど入っていた。話に聞くと、一昨日の昼間に『先日のお礼』として届けに来たのだという。
「こういうのは早く言えよ、」
柄にもなく説教垂れると、佐喜彦は「仕方ないじゃないですか。」とそっぽを向いた。
「史世さん最近晩いし、朝早いし、帰ってきたらすぐ寝るし、報告する暇なんてありませんでしたよ。」
くどくどと言い訳を並べながら、またマグカップに唇をあてる。
マグカップは、いつか恋人の有無を尋ねられたきっかけとなった、あのペンギン柄の物だ。口にはしないが気に召したらしく、あれ以来、佐喜彦はまるで自分専用のように扱っている。
キャラクタータッチのペンギンの背後で、ぷいっと拗ねる大きな子どもに参りながらも、俺はそれ以上の説教を中断した。
「……話戻るけど「そういう状況」の場合、俺が抱かれる側なのな。」
例によって、茶化すように話題を逸らす。
「当然じゃないですか。バリタチですよ、僕。」
やはり笑いにも冗談にも乗ってはくれない。真剣な眼差しを返すばかりだ。勘弁してくれよ。へこたれず笑い飛ばすことで、貴重な休日の平穏を保った。