一話 29歳、15歳を拾う。
二十代最後の誕生日に大きなこどもを拾った。
文字どおり、大きな子どもだ。
「悪い話ではないと思います。」
いとも簡単に俺を組み敷いて、そいつは言った。
話は三十分ほど前に遡る。
目覚めると、俺がソファで奴がベッドで寝ていた。家主である俺を差し置いて、だ。
鼻すじの通った彫刻みたいな貌に、白い肌。背丈があり手足が長い。こいつにはそれとなく憶えがあった。
昨夜、駅のホームで初めて会った男だ。
ずいぶんと若く見えるが、たしか昨夜はスーツ姿にコートを羽織っていたような気がするから、少なくとも社会人ではあるのだろう。そのスーツもコートも、今は乱雑に脱ぎ捨てられて、床に散らばっている。
「おい、」
素っ裸で健やかに、他人様の寝床を占領して眠る男の毛布を剥ぎ取った。
「……なんですか、」
男は瞼を擦りながら、気だるい声で不満をこぼす。
「なんですか、じゃねえよ。なに居座ってんだおまえ、」
「……史世さんが招んでくれたと思うんですが?」
名前も知らない相手に、下の名前で呼ばれるのは化かされている気分だ。
しかし状況的にはこいつの言うとおり、俺自ら室に招き入れたと納得するのが自然だろう。
正直なところ、昨夜の記憶も徐々に甦ってきた。
俺が一通り思い出すより先に、男はあくびを交えながら、自分がこの場に居る事の大筋を説明してくれた。
ホームで泥酔してた俺を見兼ねて、マンションまで肩を貸したこと。
そのせいで終電も無くなったので、泊まってけと提案したのが、俺であったこと。
……言われてみれば、確かにそうだったかもしれない。
「そりゃ悪いことしたな、」
「そうですよ、まったく。」
「だからっていつまでも寛いでんじゃねえぞ。」
二度寝を目論んだ奴の毛布を再度剥ぎ取って阻止した。
「よかったら、もうしばらく置いてもらえませんか?」
交渉のつもりか、男はベッドの上で座り直し、じっと見据えて尋ねてきた。
あらためて見ると二重の幅が広く、目元がくっきりしている。
「しばらくって、」
「一年くらい。」
「よし、帰れ。」
交渉はあっけなく決裂した。冗談じゃない。独り身とはいえ、何が悲しくて大の男が転がり込むのを承諾しなきゃならないんだ。
「今、僕に帰られたら、困るのは史世さんですよ?」
動揺の気配も見せず、男はベッドに乗ったままでスーツを拾い上げた。内ポケットから手帳らしきものを取り出し、開いて見せつけてくる。
真っ先に飛び込んできたのは、今まさしく目の前にいる男の写真だった。真顔で真正面を向いている。
続けて、写真に添えてプリントされた文字にも目がいった。
『生徒証明書』
『下記の者は本校の生徒であることを証明する。』
『藤代 佐喜彦』
ふじしろ、さきひこ、と読むのだろうか。
そんなことはどうでもいい。この手帳が本物だとするのなら、この成人だとしても不自然じゃない身形をしたこいつは、高校一年生だ。
しかも記載された生年月日から察するに、先月誕生日を迎えたばかり。つまり、
「十五歳……、」
「未成年者略取誘拐になりますね。」
俺の頭のなかでも読むかのように、男は追い打ちをかけてきた。
「僕の証言で、あなたなんてどうにでもできるんですよ。枕、タオル、浴室……僕の痕跡なら、どこからでも見つかるでしょうし。」
弁えているとばかり思っていた丁寧な口調に、挑発的なものを感じてきた。
生意気だ。
自分の半分程度しか生きていないこどもの脅しに、つい頭がかっとなる。
「調子にのんなよクソガキ、」
俺も一応大人なので、いきなり手をあげるつもりは無かったが、大人げないことに、少しは驚かせてやろうぐらいは思った。睨みつけ、声を凄む。
そして毛布を引き摺り取ろうと手を伸ばした瞬間、力強く手首を掴まれ、そのままベッドに組み敷かれた。
俺も背丈は低いほうじゃない。しかし差して体格の変わらない、しかも十五歳のこどもに、こうも容易く押し倒されるなんて思ってもいなかったので、抵抗云々の前に、あっけにとられてしまった。
男は下半身と右腕だけの力で俺を抑えつけ、左手で器用に、今度はコートから何かを取り出した。
「当面の生活費と宿代です。」
淡々と見せつけてきた茶封筒のなかから、新札の束がどさっと落ちてきて、頬をかすめた。
諭吉模様で三束……三百万、か。
突然の大金に目が眩みそうになりつつも、なんとか自制した。たしかに世話代としては魅力的な額ではあるが、こんな取引に応じるわけにはいかない。第一、きれいな金である保証も無い。
「その点はご心配なく。保護者同意の上の費用なので。足りなければもっと請求できますし、使い方にも干渉しません。悪い話ではないと思います。」
悪い話ではないと思います。
これが、俺の組み敷かれている現状の経緯である。
「やっぱ悪い話でしかねーわ。」
押し倒されたまま苦笑を溢して、俺なりに優しく拒絶した。
正直子供相手に脅され、ねじ伏せられて、腸が煮えくり返ってるが、こういう物わかりの悪い奴には、平和的に説得するしかない。
つーか腕痛えよ。見かけによらず力あんなこいつ。
苛立ちを抑えながら、おとなしく帰ってさえくれれば警察にも家にも届け出ない、事を荒立てないと約束し、交渉を持ちかけた。
「言い忘れましたが、さっき僕、このままベランダに出ました。お向かいの方と目が合ったので、ご挨拶させていただきましたよ。」
応じるつもりなど更々無いといわんばかりに、交渉は無視された。
代わりに奴の言う、「このまま」が、この殆ど全裸の姿を意味したのはすぐにわかったが、つまり何が言いたいのかまでは、次の説明を受けるまでわからなかった。
「職業上、児童性的虐待まで課せられるのは、よろしくないのでは? 目撃証言まで揃うと、ほぼ免れませんよ?」
なるほど。たしかにまずい。
というか、なんで俺の職業知ってるんだ? ……ああ、酔っぱらったときに話してたんだな、きっと。自己解決する中で、どういうわけか憤りが冷めてきた。
子どものしたことだ、しょうがない。
すでに「しょうがない」で済む域を超えているのは、承知している。しかし、子どもへの対応には、これが一番楽なんだ。
冷めたついでに、現状をどちらに持っていくほうがマシか、量りにかけた。
このまま、形勢逆転の保障も無い抵抗を続けるべきか、大金付きでこいつの居候を認めるか。
冷静になった俺を察してか、手首を捕えていた力が急に抜けて離れた。
でかい子どもは正座をし直し、膝に手を乗せ、俯き加減で呟く。
「置いてくれるだけでいいんです。問題は、絶対起こしません。」
慇懃無礼なんて言葉、知らねえだろうな。
背丈も体格もさして変わらないので、替えのスウェットを箪笥から引っ張り出して、さっさと着ろと投げつけてやった。