黄昏の探偵事務所
仕事がなく、事務所費滞納中の宝生探偵事務所。
所長の宝生世津奈は、相棒の菊村幸太郎から、清潔観念とビジネス感覚を非難される。
「宝生さん、足を上げてください」
ソファで雑誌を読んでいる宝生世津の両足の間に、菊村幸太郎が容赦なく掃除機を突っ込んでくる。世津奈はソファに座って雑誌を読んだまま、両脚を上げる。これは、効果的な腹筋のトレーニングだ。
こんなことしか、トレーニングらしいことをしない割には、世津奈は、引き締まった身体をしている。背は高くない。というか、チビだ。
高校生の頃、父から「お前はおチビちゃんだけど、身体の中で手脚の比率が高いからモデル体型っぽく見えて得だぞ」と褒めてるのか慰めてるのかわからないことを言われたが、まぁ、事実、そんな感じで、本当の身長を言うと、驚かれることが多い。
「宝生さんも、たまには、掃除してくださいよ」
コータローがせわしなく掃除機を動かしながら言う。
「コー君が掃除しすぎなのよ。ここは、住居じゃなくて、事務所なんだから、適当でいいじゃない」
「宝生さんにとっては、ここは事務所兼住居でしょ」
「私は、生命に危険が及ばない程度に清潔ならいいのよ」
コータローが掃除機を動かす手を止める。
「宝生さん、今、ご自分が座ってるのが、なんなのか、わかってます?」
「来客応接用のソファー」
「お客様をお迎えするソファーが、“生命に危険がない程度に清潔”ですみますか?」
「ビジネスの常識では、そうはいかない。でも、お客さんなんか、来ないじゃない」
コータローが掃除機のブラシで床をトンと叩いた。
「宝生さん、それ、この探偵事務所の所長が言うセリフですか?ボクら、3ヶ月も事務所費を滞納してるんすよ。『お客さん来ないね』って雑誌読んでるヒマがあったら、お客さん見つけに行くべきっしょ」
「だけど、探偵に用がある人が簡単に見つかるような世の中は、不幸な社会だよ」
コータローが掃除機を床に置いて、向かい側のファーに腰を降ろした。コータローは身長が190センチ近くあるので、世津奈は、コータローの顔を見上げる形になる。
高く通った鼻筋にセルのメガネをかけた細面の顔は、色白で知的。目の周りには少し憂いも漂い、なかなかのイケメンだ。
「今の宝生発言について、2つ、反論します。反論その一、今の日本は、とっても不幸な社会です」
「そうなんだ」
「反論その二、世の中に探偵へのニーズがないと思ってるなら、探偵事務所なんか開いちゃいけません」
「私も、そう思ったのよ。だけど、なんか、成り行きでこうなちゃって」
「つまり、事務所を開いた意義も、先の見通しもない」
「そうなる」
「それでいて、どぉして、そんなに泰然自若としてられるんすか?」
コータローがソファーから立ち上がって、怒った。
世津奈は、中・高時代、友だちから「カンノン」と呼ばれていた。観音様のように穏やかな顔をしているという意味だ。父からは、よく、「お前は、肚の座った、実にいい面構えをしている」と言われた。そういう所が、コータローの目には“泰然自若”と映るのだろうか? 実のところは、内心、しくじったと思っているのだが。
世津奈が「成り行き」で開いた探偵事務所は、JRの最寄駅から徒歩10分の古びたビルの2階にある。この辺は、商店街と住宅街の境目で、弁当屋やコインランドリーなど生活臭の強い店が目立つ、地味な界隈だ。
探偵事務所の1階は古書店だが、客の姿を見たことはなく、かび臭い本が埋まった棚の奥で、とがった鼻先にメガネを乗っけた老店主が、商売物の本に読みふけっている。
世津奈とコータローは2階に入居した時、菓子折りを持って挨拶に行ったが、老店主は、ちらりと上目でこちらを見て、アゴを動かし、菓子折りはそのへんに置いていけと指図しただけだった。それから半年が経ったが、世津奈もコータローも、一度も老店主と口を利いたことがない。
立ち上がって憤然としているコータローを世津奈が見上げていると、ドアのチャイムが鳴った。
「げっ、大家さんだ!」コータローが事務机の裏に隠れようとする。ちっぽけな事務机がコータローの長身を隠しきれるはずがないのに、無駄なあがきだ。
世津奈は、「ドアは開いています。どうぞ」と応じる。ドアを開けて入ってきたのは、フェロモンをむんむん漂わせた、30代くらいの女性だった。
「あなたが、探偵さん?」
よく響く、ハスキーな声だった。
事務所を訪れた妖艶な女性は、人探しを依頼するのだが、探す相手というのが・・・・・・