地球編「トラックに息子を奪われた母ですが、『小説家になろう』と思います」その4(前編)
1
――ざっく、ざっく、ざっく
住宅地の昼下がり。
嶋田フミノは、穴を掘っていた。
花壇用の小さなスコップで。
庭の片隅に、深さ30センチにも満たない小さな穴を。
――ざっく、ざっく、ざっく
それは、彼女にとっては無限(夢幻)のゲートだ。
2
嶋田チカは、夢の中のおぼろげな意識で思う。
ほんの少し前――たった一年前まで、フミエは自慢の母親だった。
チカは将来、あんな大人になりたいと願っていた。
母は美人で優しくて、いつもニコニコと笑顔だった。
たいした大学は出てないらしいが、頭が悪いなどと思ったことは一度もない。
本やテレビを見ていてわからないことがあったら、わかるまで丁寧に教えてくれた。
料理の腕はほどほどだが、お菓子づくりが趣味で、友達が遊びに来るときは毎回手作りのマドレーヌやカップケーキを焼いてくれたし、バレンタインのチョコづくりも手伝ってくれた。
友人たちは皆、声をそろえて『チカちゃんのお母さんいいな』『うちのお母さんもチカちゃんちのお母さんみたいならよかったのに』と言っていた。
そんな、大好きなお母さん。
嫌いになったり、喧嘩したりするようなことは、今まで一度もなかったのに……。
(いや――そうでもないか。嫌いになったこともあるな……)
たとえば、あれは幼稚園のときのこと。
当時、恋多き乙女であったチカは、さくら組で一番人気のあったキョウくんを家に誘った。
『――今日、うちのお母さんがアップルパイを作るから、遊びにおいでよ』と。
その後も何度か家に招き、そのたびに母親の手作り菓子を食べさせることで、チカは少年と急速に仲良くなっていった。
ちょっとした『餌づけ』気分だ。
キョウ少年がおやつ目当てであったのは理解していたが、とはいえ所詮、幼稚園児の恋愛だ。
肉体関係はもちろん精神的にも深い繋がりなどないのだから、それならば、むしろお菓子を介した関係性の方が健全なものではなかろうか。
当時のチカはそう感じ、この距離感を歓迎していた。(可愛げのない幼児だったと、チカは自分でも思っている)
彼女はことあるごとに少年を家に連れてきてはおやつを食べさせ、また、ときには意図的におやつの出ない“はずれの日”も設けることで『菓子を食べるためには、しょっちゅう家に来なければいけない』と無言のうちに教育し、少年の心をがっちりと掴んだ。
――いや、掴んだと自分では思っていた。
しかし、それは勘違いだった。実際には違った。
ある日、キョウ少年はチカの目の前で、
『――ぼく、おばさんのこと好きです。おじさんとわかれて、ぼくとつきあってください』
と、フミエに熱烈な愛の告白をしたのだ。
『――おばさんは美人だし、おかしいっぱいくれるし、おとなになったら結婚してください』
母はいつものように『まあ』とニコニコ笑っていたが、チカは怒って、
『――にどと来るな、バーカ!』
と思いきり少年の尻を蹴り飛ばし、そのまま家から追い出した。
その後の母親とのやりとりは今でもよく憶えている。
『――あらあら、まあ……。チカ、お友達に乱暴するなんてよくないわ』
『――うるさい、ババア!』
母親のことを本気で『ババア』と呼んだのは、そのときが初めてのことだった。
ちなみに、その後も似たようなことは何度かあった。
チカは運動会や授業参観のたびに、
『――嶋田んちのおばさん美人だね』
『――うちのママと取り替えてよ』
などと、よくクラスの男どもから言われたものだ。
相手が気になっている男子でないなら、母が人気者で嬉しくすらあったのだろうが……。
(思えばお母さんを好きなってた男子、みんな似たようなタイプだったな。ちょっとポヤーッとしたタイプというか……)
幼稚園のときのキョウ少年がそうだった。
温厚かつ純朴で、悪く言えば『どこか頼りないタイプ』の男子ばかりだ。『実際の年齢より(“いい子”の方向性で)子供っぽい』という言い方をしてもいいのかもしれない。
(うちのお母さん、ああいうのを惹きつけるフェロモン的ななにかが出てるのかもな)
当時のことを思い出すと、そんなとんちんかんな考えすら本気で浮かぶ。
ともあれ、母を恨んだことはたしかにあったが、それでも、このときを合わせて両手の指で数えられる程度のことだ。
これは平均的な小学生女子とくらべて、うんと少ない回数であろう。
――ただし、それは過去のこと。
一年前までの話だ。もう、今は違う。
母は変わってしまったし、母との関係も変わってしまった。
(なんで、こんなことになっちゃったんだろ……)
チカは学校で、そんな過去の思い出とも現在の苦悩ともつかない夢を見ながら、教室の机に突っ伏していたが――、
「……嶋田、起きろよ。もう放課後だぞ」
肩を揺すられ、目を覚ました。
(嫌な夢……。つまんないこと思い出したな)
『嫌な現実の夢』と『嫌な過去の夢』。
こういう夢を見ると、「損をした」という気分になる。
それこそ、幸せな異世界の夢でも見れればいいのに……。
机から顔を上げると、隣席の男子がこっちを見ていた。
この少年に起こされたのだ。
「キョウく……藤居? なに体触ってんの、いやらしい」
※ひさびさの更新です。今後、しばらくの間、毎日更新していきます。
次回は、明日の昼12時(…か、あるいは深夜の0時)の予定。