地球編「トラックに息子を奪われた母ですが、『小説家になろう』と思います」その9(中編)
1
朝八時――。(有)クイーンズ・プランニングのオフィス内。
片山ヨシタカ青年は、掃除のために三〇分早く出勤していたが、
from:嶋田チカ
件名:ふざけんなバカ
本文:ふざけんなバカぶっころす
携帯電話に来たメールを読んで、思わずぎょっとした顔になった。
(……チカちゃん、なんで怒ってるんだろう?)
慌てて返事を打とうとした、そんなとき――。
「おゥ、片山ァ。早いんだな?」
先輩社員の後藤が、こんな時間というのに出社してきた。
「後藤さんこそ、ずいぶん早いじゃないですか?」
「まあな。なんか市役所の情シス(情報システム課)が用事あるとかで、朝イチで電話かかってくるんだとさ。――コーヒーメーカーもう使える?」
「あっ、僕が淹れますんで」
『もう使える?』と訊いてはいたが、遠回しに『コーヒー淹れて』と命令していたのだろう。
この、東京で小説の編集者をしていたという先輩社員は、いつぞやの小説の一件以来、片山青年のことを子分のように扱っていた。
ただし、片山本人としては気にしていない。
もとから下っ端の新人でありコーヒーくらいは当然の身だ。それに小説のことで彼には世話になっている。むしろ恩義を感じる側であろう。
いや、それを抜きにしても、片山は後藤のことが嫌いではなかった。
この先輩は無神経かつ威張り屋で、それなのに小心者という、お世辞にも褒められた人格の持ち主ではなかったが、妙にお人好しな部分もある。
片山が『フミエの小説を見てくれ』と頼んだときには(ひさしぶりに出版人としての技能を頼られたという喜びもあったのだろうが)ぶつくさ言いながらも長々とアドバイスをしてくれたし、“エフの部屋”を作るとき手伝ってくれたのも彼だった。
「そういや片山よォ、例の女ニートの小説だけどさァ」
「“しましまエフ”さんは女ニートじゃありませんよ」
「どっちでもいいよ。ありゃあ、最近ひどいな?」
この男らしく否定から入ったが、つまりは『読んでいる』という意味でもあった。
「ひどいですか?」
「ああ、マジひどい。文章はさすがに毎日書いてるだけあって、ちょっとは上手くなった気もするが……」
このあと落とすためとはいえ、後藤がこうして持ち上げるのは珍しい。片山青年には意外だった。
――しかし案の定、ここから先は辛辣だ。
「けど、中身は前よりもっとクソになってる。なんつうか、話が平坦なんだよ。ストーリーが。こう、起伏とか起承転結がないっていうか――。俺の言ってる意味、わかるか?」
「いえ、あんまり……」
「とにかく、毎回おんなじくらいのテンションで話がダラダラ続いてんだよ。クライマックスに向けて盛り上がってく感じが足りないつうか。いつまでたってもストーリーが終わんなさそうっていうか」
「ええと……すいません、まだよくわかりません」
「だからさ、物語ってのはラストに向けてだんだん盛り上がってくもんだろ? けど、アレの場合は『ちょっと盛り上がったけど、次の日に書いた分はまたテンションが低い位置に戻ってて……』の繰り返しになってるわけよ」
長編というのは、短いエピソードの積み重ねではあるのだが、“タカシの冒険”は、ひとつひとつのエピソードが短く小刻みで、しかも連続性が薄い。
これでは『起承転結』ではなく『起承承承承承承』――クライマックスである『転』が来ず、中継ぎの『承』ばかりが何度も繰り返される状態である。
後藤は雑に伸ばした顎髭を撫でながらそう説明した。
「ま、そのへんはOLさん向けのケータイ小説もそうらしいからな。シロートが小説書くとそうなるんだろ。一冊の本になったときのバランスを考えてないから。日記気分で毎日ちょっとずつ書いて毎日ちょっとずつアップするんで、こんな現象が起こる」
「なるほど」
片山も少しずつだが理解できてきた。厳しいが、なかなか鋭いことを言う。
さすがはプロだと感心させられた。
実を言えば後藤の話は、他人の話の受け売りであったのだが。――最近、たまたま出版社時代の知人と話をする機会があり、そのときに聞いたケータイ小説評をそのまま口にしていただけだ。
とはいえ、そんな事実は片山には知る由もなく、また意味を持たないことでもあろう。
この先輩社員のしていた話――特に最後の『日記気分』のくだりは、片山青年にとって説得力のあるものであった。
2
気がつけば、もう業務開始時間となっていた。
(日記気分というのは、そうなんだろうな……。最近の“タカシの冒険”は、なんだか嶋田さんの日記っぽい)
彼女が日ごろなにをしているのか、薄っすらとだが小説を通して見えていた。最近は町内会のバザーで嫌な目に合ったらしい。
ただ、その一方で――、
(けど日記気分で、だらだら続くのが面白いんじゃないのかな……? 登場人物といっしょに日常を過ごしてるみたいで)
後藤の意見に反することにはなるが、そんな想いも彼にはあった。
週刊誌の記事で読んだ気がする。昨今は漫画でも『日常もの』などと呼ばれる、キャラクターたちの日常を淡々と描くジャンルが流行していると。
なんでも、その手の作品ではストーリー的な盛り上がりはおろか、場合によっては漫画としての面白ささえも犠牲にして、一定テンションのまま話が進んでいくらしい。
これこそが二一世紀の癒し。疲れた現代人には、過度に盛り上がったり面白かったりする話は逆に疲れてしまうのだ――記事はそんな結論で締めくくられていた。
だとすれば嶋田フミエの小説も同じでは?
心の疲れた母親の書く物語は、やはり心の疲れた現代人に喜ばれるのではないだろうか?
(いや……『現代人に』というより『僕に』だな。僕の心が疲れてるから、それで面白く感じるのかもしれない)
片山はそんなことを考えながら、必死に会社の仕事をこなした。




