地球編「トラックに息子を奪われた母ですが、『小説家になろう』と思います」その7
1
翌々日――。
夕方、チカが家に帰ってくると、母フミエは兄の部屋で小説を打っていた。
かち、かち、かち……。
『――タカシと騎士シルヴィアと仲間たちはピンチだった。エルフ族の大魔法使いランスロット姫のせいだった』
かち、かち……かち、かち、かち……。
『――ランスロット姫は先生きどりで、いつもなんでもわかったようなことを言い、いつもおおきな声で怒る。なのに実験は手伝ってくれないし、この前は仲間になってくれそうな人を追いかえした。私が文句を言うと、またおおきな声で怒った。ころんでパンツまるだしになっていたくせに』
「……ランスロット姫って、あたしのこと?」
チカが後ろから声をかけると、フミエは――、
「ひゃあんっ!?」
と、一家の母親にあるまじき素っ頓狂な声を発した。
「ああ、もう、びっくりした……。チカったら、悪戯はよしなさい」
「べつに、悪戯なんてしてないってば。さっきからずっと見ていたのに、本気で気づいてなかったの?
それより、なによこれ? お母さん、こないだのこと、まだ根に持ってたわけ?」
娘にそう問われ、彼女はかあっと顔を赤くしたが(どうやらYESであったらしい)しかし、やがて急に首をぶんぶんと左右に振ると、
「ち……違うに決まっているでしょう? そんな、ほら――名前が違うし! 小さな子に見えるけど、妹じゃなくって、本当はずっと年上の人なんだから! あ……ええと――ふ、ふふっ。チカったら、もしかして小説に出たいの? それで、そんなこと言ってるのかしら?」
と、子供のような言い訳をしはじめた。
どちらが小学生か、わかったものではない。
「お母さん、そういうのやめて。それでごまかせると思ってるの? 言いたいことあるんなら、ちゃんと面と向かって言いなさい!」
「もう……。チカったら、すぐ怒る……」
怒りもする。いや、怒る以前にあきれたものだ。
最近急に登場したこのエルフの大魔法使いは、明らかにチカをモデルとしたものだった。
作中の表現によれば『小さいくせに怒りっぽくて、いばりやでわがままな女の子』であるらしい。母親のくせに、娘のことをそんな風に思っていたとは。
(もともとは、お兄ちゃんのメモにいたキャラクターなんだろうけど……。でも、なんで姫なのにランスロットなわけ? それ男の名前でしょ)
その点も、あきれる点ではあった。
(だいたい、なんで現実と混ざっちゃってんの? 別の世界の話なのにさ)
やはり、藤居母との一件が理由であろう。
あのとき、小説を他人に見せるのを邪魔したことを、この母は根に持っていたのだ。
それで、恨みをつらつらと物語にぶつけていたに違いない。
(ほんと、どっちが子供なんだか……)
幼稚で、半端に陰険で、ある意味可愛らしくさえあった。
チカたち五年生なら、こんな仕返し、やった側が馬鹿にされる。
……なので、チカは言ってやった。
本当は言いたくなかった、この台詞を。
「――お母さん、これ、インターネットで発表してみない?」
チカの顔は自然と苦々しい表情になりかけていたが、必死に抑えて、嘘くさい無邪気な笑みを浮かべていた。
娘としては嫌でたまらなかったが、母フミエの心には必要なことであるはずだ。
そう思い、我慢して幼稚園児のような笑顔でうったえかけた。
これはチカなりの『おねだりの顔』――子供なのに彼女の苦手な表情だった。
「あのね、あのね、インターネットならこういう小説を好きな人たちがいっぱい読んでくれるはずだよ。ほんとは興味ない藤居のおばさんに読ませるより、ずっといいんじゃないかなぁ。……きっと勇者タカシも、そっちの方がうれしいよ?」
「まあ……」
最後の『きっと勇者タカシも』の部分を、チカは自分であざといと感じていた。
まるっきりドラマに出てくる子供のようだ。こんなの本気で言える小学五年生がいたら、きっとそいつはどうかしている。
だが、それでも彼女は子役スターにでもなったつもりで、照れることなく口にした。
その名演技のおかげであるのか――、
「あらあら、まあ……。でも、インターネットって知らない人たちに見せるってことでしょう? しかも、世界中の人たちに……」
最初はそのように戸惑っていたフミエだったが(もちろんチカとしては『知らない人に見せる方が、知ってる人に見せるより恥ずかしくないだろ』と心で突っ込んでいたのだが)しばらくの間、悩み続け――一、
数時間後、夕食のチキンカレーを食べている最中に、
「インターネットの話だけど……私、やってみようかしら」
と、ついに決意した。
チカは喜びのあまり、カレーの三杯目をおかわりした。
「でも、本当にできるかしら……? 私、インターネットなんて、どうやるのか……」
「お母さん、だいじょうぶだよ! あたしが全部やってあげるから。詳しい人から教えてもらったんだよ!」
その“詳しい人”がだれであるのか、母には絶対に明かせない。
2
「もしもし、片山さん! お母さん、小説ネットに上げるって!」
チカは子供部屋の布団にくるまり、声を潜めて電話した。
言うまでもなく、“詳しい人”=片山だ。
「で、本当に実際の作業、かわりに全部やってくれるんでしょうね? あたし、ネットなんてよくわかんないわよ?」
『――ああ、うん。大丈夫。……たぶん平気だよ』
「たぶんって、あんた……」
相変わらず頼りない男だ。
チカは携帯電話ごしに、それこそランスロット姫のように怒鳴りつけてやりたかったが、母に気づかれるかもと気になって、ただ布団の中で、
「う゛~~……!!」
とだけ、かぼそい唸り声を発した。
ただ、それでも相手には『怒っている』と伝わったらしい。
『――ご……ごめんよ、チカちゃん! でも、安心して。会社のくわしい人に教えてもらえることになってるから。僕の言い出したことだから、ちゃんと責任持ってやるよ』
「それならいいけど……」
微妙な不安を抱えながら、チカは通話を切り、携帯を畳んだ。
その晩、フミエはいつもより張り切って小説を書いた。
こんなに楽しい気持ちでキーボードを打つのは、もしかして初めてのことかもしれない。
かち、かち……かち、かち、かち……。
『――仲間のひとりエルフ族の大魔法使いランスロット姫は、遊びに行ってくると言ってどこかに行ってしまっていたが、じつはエルフ族だけに隠されたひみつの魔法を取りに行ってくれていたのだ。じつはいじわるでなかったランスロット姫のおかげで、ついにタカシと騎士シルヴィアは森に住む魔族を倒した。ほんとうはこの子はとてもやさしいいい子だったのだ。ポテトサラダはやっぱり食べた』
物語の中では、登場人物たちがひさしぶりに危機を脱していた。
3
フミエの小説がインターネット上で公開されたのは、それから三日後のことになる。
本当なら翌日中に作業は終わるはずであったのだが、片山が不慣れであったため、また会社の仕事が立て込んでいたため、予定よりもうんと時間がかかってしまったのだ。
チカが『なんでこんなに時間かかるの!』と毎日のように責めたてたことは言うまでもあるまい。
ともあれ、そんな日の夕方――。
「まあ、素敵! チカのお友達にお礼を言わなきゃ!」
フミエはモニターを覗き込みながら、手を叩いて喜んだ。
そのトップページには真っ白な背景に、緑の飾り文字でこう書かれていた。
――“エフの小説部屋”
それが、フミエのために用意された小説ホームページの名だった。
見た目こそ簡素ではあったが、一人の青年の熱意と労力の結晶だ。
「あのね……あのね、チカ――」
「なあに?」
「チカ……本当に、ありがとう」
窓から差し込む夕焼けの日差しと画面の白い光に包まれながら、フミエは娘を抱きしめた。
「ありがとう……。それに、ごめんなさい……」
「あーうん、いいってことよ」
チカは母の暑苦しい腕の中で、
(このごろお母さん、すぐに抱きついてくるな……)
まるで水に溺れかけた人が、木切れにしがみついてるみたい――そんな風に彼女は感じた。
母親の頬では、夕日がきらきら反射していた。